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My foolish heart.

マイ・フーリッシュ・ハート

ニンジャスレイヤーファンフィクション

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「またね」薄手のキモノ一枚を羽織って、彼女は部屋から男を送り出す。豊かな黒い髪を揺らし、目尻のあがった瞳を優しげに細めて。

 彼女はネオサイタマの止まり木。様々な男が彼女で羽を休めて巣へ帰る。帰る巣には、誰かが待つかもしれないし、孤独かもしれない。けれど、それは彼女には関係ないことだ。

 彼女はこの部屋にいる間、三つのルールを自らに課している。ひとつ、対価の分だけ仕事をする。ふたつ、詮索しない。みっつ、身の上話をしない。

 相手が何者で自分が何者かは、この小さな部屋では些細なことだ。やりとりする体温と、少しのセンチメントがあれば相手を暖めるには十分だと、彼女は思っていた。

 彼女の名前はノナコ。オイランだ。

 その日も雨だった。飛び込みの男がノナコを買ったとノーティスが入り、ノナコは軽く身支度を整える。ほどなく招き入れた男は、背が高く、精悍な面差しで、鋭いが疲れた目をしていた。久々に好みの男が来たので、いつもより口角がつり上がる。「ドーモ、初めまして。ノナコです」

「ドーモ。カギ・タナカです」「よろしくね、タナカ=サン。アタシを選んでくれてアリガト」一見客への常套句だったが、嘘はなかった。男のコートを受け取り、ハンガーにかける。((タナカ=サン、って感じ、あんまりしないなァ。でも、カギはワカル。似合ってる))

((この人には、なんて付けよう))ノナコは考える。彼女は、客を鳥の名前で管理することにしている。こうしておけば、誰が誰かはノナコにしかわからない。彼女自身の覚えやすさと、客の情報を守ることを兼ねているのだった。

((イーグル? 違う。もっとギリギリで飛んでるアトモスフィア……コウモリは鳥じゃないし。カラス……うん、カラス))群れを飛び出し、行く当てのないカラス。

 ノナコの目に、男の腰に吊ったカタナが目に入る。ドス・ダガーより長いが、ノナコが見てきたカタナよりは小ぶりだ。「お客さん、ケンドーする人?」「……イアイドーだ」「イアイドー」両者の違いがよくわからないので、とりあえず感心したように微笑んだ。

「カタナが珍しいか」「そういうカタナは初めて見るから」カラスは彼女がカタナを預かろうした手を無視して、カタナを壁際に立てかけた。ノナコは伸ばした腕を引っ込める。

((大事な物には触らせない人。それでカタナを使うなら、ヨージンボーか、もっとコワイな仕事のどっちか))ならば、不必要に探る必要はない。ノナコはそう決めた。話したい男は自分から話すものだ。そうでないなら、ルールに従うべし。

 ノナコがコワイな仕事、と推察した理由はもう一つある。この男からはある種のサツバツの匂いを感じるのだ。ヤクザとも関わっているノナコは、そうしたサツバツには少し敏感だった。

 彼女は経験に基づく嗅覚や、外見や仕草、些細な会話から相手との距離を測る。そうして探り当てた距離間で、心地良い関係を作る。関係が心地よくなれば長続きし、カネになる。
 それは、初対面の二人で踊るワルツじみたものだと彼女は考えている。相手がリードしたいのか、されたいのか、どう足を運びたいか。それを察しきって、相手を楽しませることがノナコの仕事だ。

 この男はどうだろうか。ノナコは考える。カラスの佇まいは、荒んでいて、乾いていて、疲弊している。距離を詰めすぎても、離しすぎても逃げられるだろう。それは惜しい。この男を逃がすのはもったいない気がしている。

 そんな風に考えている間にも、ノナコはカラスのタバコに火を点け、灰皿を差し出し、サケは要るか、つまめる物は欲しいかと尋ねては、その反応を見ていた。カラスの言葉には無駄がなく、ノナコのヒントになりそうな物は少なかった。

((いつまでも向こうの一歩を待ってても、しょうがないか))自分で動いて掴むしかない。「ねぇ、タバコ消して」対面に立って男のシャツを脱がせると、均整の取れた上半身と刻まれた幾つかの傷跡に、カタナは仕事用だと確信する。

 傷跡たちをざっと見渡しながら言う。「お仕事、大変そう」「まァな」「頑張ってるんだ。スゴイね」ノナコは誉めたが、カラスは少し苦い顔をした。((仕事の話はダメね。わかった))ノナコは微笑みの種類を、穏やかな物から挑発的なそれに切り替えた。

「それじゃあ。アタシにまかせる? それとも、あなた?」挑発めかしてみたが、ノナコは内心おっかなびっくりだった。結局、踊りながら探るしか打つ手がなかったことと、相手にそれを見透かされないかということで。

 不器用なワルツだったと、シーツに沈んだノナコは振り返る。プロムのダンスだって、もう少し上手く踊れた。相手の方が女慣れしている様子で、結局始終リードされっぱなしだった。それが悔しくさえあった。

 そのカラスは今、ノナコに背を向けてベッドに腰掛け、タバコを吸っている。その背にある真新しい引っかき傷は、さっき彼女がつけたものだった。「背中ゴメンね。引っ掻いちゃって」カラスは振り返る。「アー……そんなことしてたか?」ノナコは思わず忍び笑いを漏らした。「何だよ」

「気づかない位には楽しんでくれた? それなら良いんだけど」してやったり、という表情で、ノナコは起き上がる。カラスの背中に体を預ける。「アタシも、さっきまでお仕事忘れてたよ」彼女の長い髪がカラスの肩に流れる。カラスが吸っている煙草のパッケージは『少し明るい海』だった。

「カタナも珍しいけど、それも珍しい」自販機でもなかなか見かけない銘柄だ。「俺はこれなんだ」「そう。こだわりのある男の人、嫌いじゃない」「そりゃドーモ」煙を吸い込み吐き出す所作が、まだ気だるさの残るノナコには魅力的に映った。

「……少し明るい海」タバコを吸っているカラスをぼんやり見つめて、ノナコは呟く。「何だ?」「天気の良い日に、海を見たことないなって」カラスの肩口に顎を乗せる。意外にもスキンシップは嫌がらなかったので、ノナコは積極的にカラスに触れることにした。

「この街だって、たまにゃ晴れるだろ」カラスの言葉に、ぷい、と横を向いた。「雨女なの」「……へぇ」カラスは気のない返事。「ネオサイタマの雨は、アタシが降らせてるんだから」「そりゃスゴイ」ノナコのジョークに苦笑いする。

「まぁ、いいわ。今はそれで我慢ね」ノナコは、カラスから吸いさしのタバコを奪い、一口吸った。「ウェー、ゲホゲホ……なにこれ」彼女もたまにタバコを吸うが、ここまでキツイものは吸わない。「俺はこれなんだ」返せ、とノナコからタバコを奪い返す。「さっきも聞いた」

 こんなのずっと吸ってたら体壊すわよ、とは言わなかった。きっと、そういう言葉を聞きたくてノナコを買ったわけではないのだから。

「……悪くないもんだぞ」「何が?」「晴れた日の海な。悪いもんじゃない」「そう。その内見られるかしら」カラスはふっと煙を吐き出して、ノナコを見つめた。来た時より幾分、眼差しが和らいでいるように見えたのは、ノナコの錯覚だろうか。「見られるといいな」

 そして、お互いの心には踏み込まず、つかず離れず。他愛のないやりとりと、体温。傷つかない距離でワルツを踊り出す。
 ノナコはカラスの止まり木になった。



 雨空の下、ピンヒールを鳴らしてノナコは歩く。バッグの中には、今月の給料が八割。稼ぎのほとんどを、彼女は借金の返済に充てていた。現金を直接受け渡すのは、返済相手が彼女の体も目当てだからだ。

 最初は辛いとも思っていたが、今ではただの時間外労働だった。どんな男であれ、ワルツの相手として捉えてしまえば楽なのだ。いや、楽になってしまったのだ。

「どうなってンの……」ノナコはその雑居ビルを見て、呆然と呟いた。入り口には黄色い「外して保持」のテープ。目的の事務所は窓ガラスが全て割れ、青いPVCシートで覆われている。サングラスの下で数度瞬きをしても消えない光景に、それが夢でないと悟った。

 ノナコは路地を渡り、向かいのタバコ屋の老人に訊ねた。「ここにあった、ホホエミ・キャッシングは」「つい昨日の話さ。爆発事故があって、全員オタッシャだ」ノナコは再び何度か瞬きをした。「それじゃあ、社長……ヨタダ=サンは?」

「あんだけの爆発がありゃあ、オタッシャだろうね」「そう……」「実はここだけの話、ワシはあそこにトレンチコートの男が入ってくのを見たんだよ。爆発したのはその後……」老人の自慢げな目撃談は、耳に入らなかった。

「お姉さんよく見かけとったけど、あのヤクザボスのコレかい」老人は乱杭歯をむき出しにして笑うと、小指をたてる。我に返ったノナコは曖昧に微笑んだ。「……おじいちゃん、少し明るい海はある?」「はいよ」

 出勤すると、オイランハウスは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。店のマネージャーやボーイ達が、マイコやオイランに連絡を取っている。ノナコは、手の空いたバントー・マネージャーを捕まえた。「カネ返しに行ったら事務所が潰れてた」「こっちもそれで困ってる。買取組が逃げた」

 ホホエミ・キャッシングはこの店を管理するヤクザ金融会社だった。しかしそれも昨晩までの話。事務所もろともオヤブンが爆死。ヤクザに買い取られ不本意な労働を強いられていたオイランやマイコは、我先に逃げ出してしまった。

 いなくなった女達の中には、ノナコと仲の良いウブミもいた。彼女は併設するマイコセンターのマイコだ。会社が倒産し借金で首が回らない両親の為に、センタ試験合格を蹴って働いていたが、そのウブミを送迎係(と言う名の監視である)が迎えに行った時には不在で、今も連絡がつかないのだと言う。

「ウブミ、いなくなっちゃったの」「逃げたモンは仕方ねえ。ほっとけ。それよりバーターに入ってほしい客がいる」ノナコは首をかしげ、続きを促す。「ウブミに会わせろって客がごねて、ウブミがダメなら他のオイランにセッタイさせろってよ」そして今、その客を店一番のカワイイであるオコノがセッタイしているそうだ。

 普段ここまでのことを言い出した客は、別室でマッポに引き渡す。だが、客の名前を聞いてノナコは納得した。ゴネているのは当のマッポだ。そいつは、ノナコがハゲタカと呼ぶ男だった。

 ハゲタカはこの辺りで顔の利くマッポで、下品で横柄で自尊心が高い。店の嫌われ者だ。オイランに手を出すことはあまりなく、気に入りだったウブミをデリバリーさせていた。そのハゲタカのセッタイか。ノナコの顔が曇る。「お前の後にももう一人出す。マッポは後がコワイだからな」

 自分はハゲタカと相性が悪いとノナコは思っている。ああいう自尊心の高い男は、自分のようなきつい顔立ちの女を好まない。カワイイなタオヤメ・アトモスフィアの女が好みのはずだ。「乗り気じゃないのはワカルけど、オコノの頼みなんだ。きいてやってくれよ」「アイ、アイ」ノナコは嫌な予感がした。

「就職組の子よこして。アタシ、セッタイ苦手だから」本来セッタイするオイランには厳格な作法があり、まともな専門学校では必修科目にもなっている。ノナコの様にオイランとして売り飛ばされる女は、一日でキモノの着付けと最低限オイランとしての所作を学ぶだけだ。

 そんなノナコとは対照的に、オコノは専門学校を卒業したばかりで、若い野心家だ。「カワイイを磨き玉の輿でカチグミ」というオイランサクセスストーリーにあやかろうとしている彼女は、なぜかノナコを一方的に敵視している。

 そんなオコノが自分を呼び出すのだ。ろくな事にならないだろう。((まぁ、お仕事だし、アタシはオイランだし))ノナコは「途中で追い出されても文句言わないでね」とだけバントーに前置きし、着替えに向かった。

「縁起良い鶴の間」と書かれた部屋。セッタイ用の和室だ。ノナコはタタキで履き物を脱ぐと、奥ゆかしくフスマを空ける。青いタタミの香りがリラクゼーション効果を高める部屋の中央に、キングサイズのフートンが敷かれている。

 部屋は黒とゴールドで品良くまとめられていて、それが逆にフートンにいる男の下品さを浮かび上がらせる。ハゲタカはたるんだ上半身を晒し、オコノに酒をつがせていた。

ノナコはタタミ二枚分の距離で正座し、丁寧に頭を下げた。「ドーモ、ノナコです」ハゲタカの返事は、甘ったるい匂いのゲップだった。

「ミツユビ作法がなっちゃいねぇ」サケとアンコの匂いをさせながら、ハゲタカがノナコに近づく。「こんなレッサーオイラン寄越すなんて、俺様をナメてるんじゃねェだろうな?」ノナコは反論せず、頭を下げ続ける。この手の客は言わせておけばその内飽きると知っている。

 そこに、オコノの鈴を鳴らすような笑い声が響いた。「オニーサンごめんなさい、この人マトモな専門学校出てないからァ。別のカワイイな子のはずだったのに、店が間違っちゃったみたい」「道理でなっちゃいねェわけだ」ハゲタカは笑い、ノナコの肩口を蹴った。

「白けんだよ。失せろ」「ハイ、ゴメンナサイ」タタミに額がつくほど頭を下げる。身を起こす時にちらりと見たオコノは、勝ち誇った笑みでこちらを見ていた。((こんなとこだと思ってたけど))ノナコは曖昧な笑みでその場を辞した。一歩、二歩。歩く事に足音が荒くなる。

「バカバカしい」キモノの帯を緩めながら、足音をたててノナコは歩く。オコノも、ハゲタカも、バカバカしい。「トリュフ豚同士、楽しくやりゃアいいんだ」悪態をつきながら部屋の前。ドアを開けようとしたとき、後ろから声がした。「えらくご機嫌斜めだなァ」

 カラスだった。面白い物を見たような顔で、ノナコを見ている。「いつから」「今追いついた」「アー……」店のごたごたで、オイランのスケジュール把握ができていなかったようだ。「連絡がちゃんとしてなかったみたい。アタシ、ホントはこの時間いないはずだったんだけど」

 ドアを開け、中に通す。「ちょっと色々あって」「帰ってきたところを見ると、俺は相手して貰えそうだな」ノナコは頷く。「オカンムリだけどね」冗談めかして笑うと、カラスも笑った。「珍しいから、怒ってていいぜ」「残念、あなたの顔見たら機嫌なおっちゃった」

 カラスのコートを脱がせると、ふわりと病院の匂いがした。またか、と、ノナコは思った。

 カラスの腕枕で、ノナコはまどろめずにいた。((……前より痩せた。ダイジョブなのかな))以前はこんな風にノナコの前で無防備に寝息を立てることはなかった。それだけ信用されているのは嬉しいが、喜んでばかりいられないことも分かっている。

 カラスの様子がおかしいと気づいたのは、いつ頃だったろうか。病院の匂いを連れてきたのが最初だったはずだ。しばらくして一緒にバスルームへ入るのを断られ、その後彼の咳き込む声を薄い壁越しに聞くことになった。

 ノナコはそれを、敢えて無関心に振る舞った。何かがカラスに巣くっている気配を感じていたが、自分にできることはないと思っていた。ただの止まり木がカラスにできることは、この部屋の中ではあまりにも少ない。

 カラスの、規則正しく上下する胸と、その横顔を眺める。これがいつまで続くのだろう。カラスはいつも気ままにノナコの元を訪れては帰っていくが、それでも、と、ノナコは思う。それでもこの人が突然ぱったり来なくなったら、アタシは寂しいんだろうな、と。

 その時、カラスにしては妙な寝言が聞こえた。「……リゾート?」ノナコはくすぐるような声で聞き返した。その声にカラスは目を開き、こちらを見た。「そんな事言ったか? 俺が」ノナコは笑う。「言った」「今?」「今。どんな夢見てたの」「ああ……」

 カラスは言葉を濁す。覚えていないのか、話したくないのか。ノナコはカラスの胸に頬をつけた。「ほんとは疲れてンでしょ」カラスは答えず、タバコを探った。カラだったらしく舌打ちをする。「ノナコ」「何?」カラスはどこかヤバレカバレな声で言う。「俺は死ぬんだとよ。長くないんだと」

 ノナコは反射的に笑った。笑うしかできなかった。「エー?」カラスもそうするしかなかったようだ。数秒の空虚な笑い。ノナコは動揺していたが、職業意識で封じ込めていた。

 彼女は医者でもセラピストでも、まして恋人でもない。ただのオイランで、カラスはその客だ。―ならどうして、アタシはこんなに動揺してるんだろう?

「やっぱり、あなた疲れてる」ややシリアスな顔で、ノナコはカラスを見つめた。「誰かが側にいると落ち着くなら、いつでも来ていいからね」カラスの頬をそっと指の甲で撫でる。「ただし、お金は貰うよ」「……呆れた女だな」カラスは笑った。均衡は保たれた。

 逃げ出したと思っていたウブミは、翌日ヤガネ・ストリートで冷たくなって見つかった。マイコ衣装のまま首を斬られ、眠るように死んでいた。側には黒こげの死体がふたつ。

何らかの事件に巻き込まれたと判断した店側は、イメージ悪化を防ぐため、結局逃げたことにした。二度首を切られたウブミの為に、ノナコは花を買って帰った。



 以前タバコ屋で買った『少し明るい海』に火を点ける。あの夜、カラスが「俺は死ぬんだと」と言った夜から、ノナコは時折こうしてタバコをふかすようになった。タールはきつい、さして美味くもない。けれど、あの男を思い出すのはこの匂いだ。

((なんでこんな、引きずるんだろ。確かに気に入りのお客だけど))飄々としたサツバツをまとい、小揺るぎもしないと思っていたカラス。あの夜一瞬見せたのは、打ち据えられて自棄になった男の顔だった。((だとしてもよ))ノナコは思う。((あの夜が最後なんてのはナシにして欲しいもんだわ、ブッダ殿))

 願いはブッダに聞き届けられたのか、しばらくぶりにカラスはやって来た。ただし、いつもより重たい影と、激しい衝動を携えて。ノナコにとってそれは、行くあてのない何かをぶつけられるような時間だった。カラスにこんな扱い方をされるのは初めてのことだった。

 今までならば二人で楽しんだ後には、他愛のない会話や心地良い沈黙の流れるはずのベッドの上。カラスはおざなりな腕枕をしたまま、目を閉じている。気に入らない。ノナコはカラスの心がここにないことに、少しの苛立ちをおぼえた。

 カラスが何事かを、ぽっかりとした声で呟く。「……また夢ェ?」「いや、寝てない」ノナコはうつぶせになると頬杖をつき、尋ねた。「やり残したことがどうって」「ああ。実際言ったんだ。寝言じゃない」
 頬杖をついたま、カラスの方を見た。カラスはぼんやりと、どこでもない所を見ている。「何だろうな」ぽっかりした声のまま、カラスは首をこちらに向ける。ノナコはその目をまっすぐ見て、問い返す。「何って?」

 カラスは答えなかった。死神に襟首を捕まれた目で、ノナコの向こう側にある何かを見ていた。

((……なによそれ))なぜか、ノナコは無性に腹が立った。この男をこんな顔のまま帰し、それが最後になるかもしれないなんて。

 死神に襟首を掴まれたままジゴクに行くなんて、彼女の知るカラスはそんな男ではない。彼女は、自分に課していたルールをひとつ破ることに決めた。カラスの懐に飛び込んで、死神の手を襟首から引き剥がさなければ気が済まなくなってしまった。

 ノナコは無表情でカラスの鼻をギュッとつまむ。「……なんだよ」もがもがとした声がおかしくて、少し笑ってしまった。「ユーレイじみた顔してるから、生きてるのか心配になっちゃった」「まだ大丈夫だ。離せ」素直にカラスの鼻から指を離す。

「でも、心配したのはホントよ。やり残したことだなんて不吉なこと言うんだもん」ノナコは年下の客にそうするように、姉めいた表情になる。「そういうコトダマは、ホントになっちゃうからダメ」「そうか?」「そうだよ。どうせ言うなら、やってみたいこととか、やった方が良いことがいいよ」

 シーツのこすれる音。カラスは体を起こした。タバコを探って舌打ち。まだ新しいものが見つからないらしい。「ならお前は、何かあるか」ノナコも起き上がり、カラスを見た。「ある。でも、あなたの話が先」カラスは狭い天井を見つめ、しばらく黙っていた。

 ややあって、口を開く。ノナコは続く言葉を半ば祈るように聞く。拒絶か、それとも。

「……世話になったイアイドのセンセイにな、会いたかった」踏み込ませてくれた。無言で続きを促す。「実際ワザマエで、俺なんかよりずっと強い……尊敬してる人だ。俺にイアイドを教えてくれた」
「うん」「会おうと思ってドージョーに行ったんだが、潰れてた」「うん」ベッドの背もたれに体を預けるカラスは、再びしばしの沈黙の後、呟く。「……喧嘩別れだったンだ」ノナコはカラスが投げ出している手にそっと触れた。カラスは続ける。「今、どこにいるかも分からん」

 ノナコのニューロンを、微かな緊張が怯えを伴って駆け抜けた。((イアイ……イアイ、ねえ。やっぱり大事だったの))大事な物に触れさせない男。そこに踏み込もうとする自分。カラスの長い指に自分の指を絡める。

 ノナコは言う。「でも、あなたはセンセイには会える」カラスは眉間に皺を作ってノナコを見る。「俺の話、聞いてなかったのか」「聞いてたよ」ノナコは澄まし顔を作った。二人の視線がしばしかち合い、やがてカラスが折れる。「どうすりゃいい」

 絡めていた指に力を込めながら、ノナコはさらにもう一歩踏み込む。「イアイドー、したらいいよ」「……イアイを?」「あなたのイアイドー、そのセンセイが教えてくれたんでしょ? なら、そのイアイの中に、センセイはいる」ノナコが吸う『少し明るい海』の中に、この男がいるように。

「今のセンセイに会えなくても、イアイの中でセンセイが話をしてくれるんじゃない?」ノナコはカラスの目を見つめている。底なしのマンホールじみた目を。今自分は、カラスにどんな風に見えているのだろうか。

 カラスと一緒にいて、こんなに緊張する沈黙はなかった。不思議とこの男との沈黙は居心地がよかったはずなのに。ノナコの唇が焦って言葉を紡ごうとするが、その前にカラスが手をあげた。ノナコは殴られることを一瞬覚悟した。

 伸びてきたカラスの手は、ノナコの鼻をつまんだ。きょとんとしたノナコに、カラスは困ったような笑みを浮かべた。「お前がそんな顔するな。俺はそんなにヤバそうに見えたか」「……見えた」もがもがとした声が出て、カラスが吹き出していた。

「何さ、心配して損した」ノナコがわざと怒った顔をすると、カラスはノナコの肩に腕を回して、やや強引に胸元に引き寄せてきた。「悪かったよ。悪かった」「ふん」口では怒ってみせたが、ノナコは安堵の息をついた。
「次はお前だ。何がしたい?」カラスの声が、耳と胸から伝わってくる。ノナコは少し間を置いて答えた。「海が見たい。あなたが前に言った、晴れた日の明るい海」「お前、諦めてなかったのか」ノナコは陽気な声をたてた。「アタシは諦めが悪いし、雨女だから」

「ノナコ」「なぁに?」「見たいか、海」ノナコは笑った。自分でも驚くほど乾いた声だった。つれてってくれるの? という言葉を、奥歯で砕いて飲み込んだ。「晴れたらね」「そうか」二人にあの心地良い沈黙が戻ってきた。

「アー……今まで言ってなかったけどな」突然シリアスな声音で切り出したカラスに、ノナコは思わず顔を上げた。「実は晴れ男なんだ」瞬きを数度した後、ノナコは吹き出した。

 仕事を終えたノナコは、ロッカールームで着替えていた。あの後カラスに「また来る」と言わせたことが、彼女を上機嫌にさせていた。その後にやってきた何人かの客にも、いつもよりサービスできたと思う。仕事上がりのソバを贅沢にスシにしてもいい。
 着替え終わったところで、入ってきたのはオコノだった。「あ、ノナコ=サンちょうど良かった。聞いてくださいよォ」先日のハゲタカとネンゴロになったらしく、オコノの増長はますます激しい。女王めいて振る舞い、気に入らないオイランをハゲタカの権力を笠に追い出し始めた。

 ノナコにも小さな嫌がらせは続いていたが、全て無視していた。相手にするのがバカバカしいのだ。溜息をついてオコノに向き直る。「何の話」「私見ちゃったんですけど」「だから、何を」「ノナコ=サンがお気に入りのタナカ=サンが、女の子とコインランドリーから出てくるとこ」

「……ふゥん」ノナコは無表情でロッカーからバッグを取り出した。さっきまでの機嫌は、どこかへ行ってしまった。「別に、あの人だって女ぐらいいるでしょ」声に苛立ちがまざる。

「女子高生ぐらいだったかなァ。ノナコ=サンよりかなり若い女の子でしたよ。なんかワケありっぽい―」「それで?」「エッ」ノナコの鋭い声に、オコノは怯む。

「……それで?」「エト……その」「アンタね、客の詮索して回るのよしな」ノナコはバッグから『少し明るい海』を取り出してくわえた。なぜかそんな気分だった。「その調子で、他の客のことも触れ回ってないでしょうね」「し、してませんよォ」

「ならいいけど。アンタおしゃべりが過ぎるよ。アタシ達は、客のプライベートに立ち入るべきじゃない」タバコに火を点けながら睨むと、オコノは皮肉っぽく笑った。「オカシイ人。嫉妬してるならさっさと寝取ればいいのに」

「嫉妬?」「あれ? 違うんですかァ?」「ばかばかしい。アタシがなんで嫉妬しなきゃなんないの。こっちはオイランで、あっちはただの客でしょ」あの部屋では恋人じみたことも言うが、それはそういう仕事だからだ。「言い訳にしか聞こえないですって、それ」

 オコノは嘲笑して続ける。「ここにいる必要もないのに、行くアテないから残ってるだけなんでしょ? 可哀想な人! 実際安いプロ意識なんかじゃ幸せになれないのに」ノナコの眉間に皺が寄る。

「私はあなたとは違うし、ちゃんとステータスのある男使って、キャリアアップ目指しますけどね」そして、オコノは下からノナコを見上げる様に言った。「場末のオイランが下らないプライド持ってると、男寝取るのも大変ですねェ」乾いた音がロッカールームに反響した。

 バッグを放り投げたノナコがオコノの頬を打った音だった。「何すんの!」目を見開き、頬をおさえて激昂するオコノを、ノナコは睨んだ。「アタシは仕事でオイランやってンだ! 踏み台用の男漁ってるお前とは違うんだよ!」

 タバコを吸いつけ、煙を一気にオコノの顔に向かって吹きかける。「確かにアタシに行くアテは無いけど、アタシ目当てにくる男が何人もいる。だからここで、カネ貰って、仕事してるの。ワカル? わかんないよねきっと」

 オコノは咳き込み、煙を振り払った。荒い息を吐き、押し殺した声でノナコを脅す。「いい気になってられるのも今のうちだからね」「楽しみ」そううそぶくと、オコノの厚底オイランサンダルで脛を蹴りつけられた。思わずうずくまるノナコに唾を吐きかけ、オコノは踵をかえす。

「……忠告しとくけど」蹴られた脛を片手で抱えながら、肩を怒らせ歩いて行くオコノに言う。「あのマッポ、キャリアアップには向いてないよ」オコノは答えず、ロッカールームを出て行った。

 ノナコはそのまま足を投げ出して座り込む。蹴られた脛が酷く痛む。内出血ぐらいしているかもしれないが、それより今後のことだ。オコノはハゲタカに言いつけて、自分を辞めさせるよう店に圧力をかけるだろう。「せっかく次の約束したのになァ……」

 耳鳴りがするほどの静けさの中でタバコをくゆらせながら、カラスとの穏やかな静寂を懐かしく思った。「またって、言ってくれたのに」低くノナコの耳を揺らす笑い声に、楽しげに細くなる目元に、傷だらけの体に、無性に会いたかった。

 ノナコは自嘲した。彼女の心は今まで気づいていなかったのだ。そしてやっと今、気づいた。

 自分の中で、あの男が客ではなくなっていたことに。



 バントー・マネージャーに呼び出されたのは、思っていたより早かった。「悪いな、店を盾にされたら、こっちも頷くしかない」マネージャー室で差し向かい。お互い手には吸いかけのタバコ。「元はアタシが悪いんだから謝らないでよ」

 ノナコの予想は的中。ハゲタカがノナコを辞めさせなければ店を摘発すると脅してきた。「今の予約客が捌けるまでは粘ったから頼む。それまで働いた分は、最終日に現金で」「助かる」「なに、ゴシューギぐらい出すさ。役得もさせてもらったしな」「役得ねェ」二人は共犯者の笑みを交わした。

「でも、実際お前、ラッキーだよ」バントーが新しいタバコをくわえる。ほとんど反射的にノナコはライターを差し出す。「ここ、近々あのマッポの仕切りになる。あいつがバックにいる限りは摘発ナシ。見返りにカネと女だ。オコノは厄介な客に取り入ってくれたぜ」「やめとけって言ったんだけどね」

 バントーはノナコの言葉に溜息をついた。「あいつ。オコノな。お前が羨ましかったみたいだぜ。なんでお前に固定客が付いて、自分はダメなんだって。あの性格じゃ無理な話なんだけどな」ノナコは鼻を鳴らした。それが嫌がらせの真相か。

「これからどうする? 別の店行くなら、紹介しようか」「まだ考え中だから」オコノの言うとおり、ノナコは借金があろうがなかろうが、ここ以外に行く場所も帰る場所も、待つ者もいない。「……一稼ぎして、リゾートにでも行ってこようかな」

 バントーとの話し合いを終えたノナコは、ロッカールームに立ち寄った。話を知っているらしい何人かのオイランが、同情や優越感に充ちた視線を投げてよこす。ノナコは無視して、ロッカーにしまっていたジュエリーボックスを持ち出し、自分の部屋に戻った。

 薄暗い彼女の城。ベッドに正座する。蓋を開けてひっくり返すと、客が置いていった名刺や連絡先のメモが散らばった。「ハト、ツバメ、クジャク、モズ……」めぼしい物を一枚ずつ取り上げて並べる。備え付けの電話を手にした。「モシモシ、ノナコです。お久しぶり。会いたくなっちゃって」

 本当に会いたい男は、連絡先も知らない。

 最後の夜。タバコをふかしながら、やり残したことについて、ノナコは考える。「渡り鳥は掃除してから出ていく」のコトワザもある。できるだけさっぱりとして、後悔のないよう出ていきたい。あの男が「やり残したこと」と呟いたのは、こんな気持ちからだったのだろうか。

 連絡が取れた客はノナコを惜しんだ。けれど、彼らはノナコがいなくなっても、それぞれの淋しさに寄り添う止まり木を見つけるだろう。ノナコは呟く。「アタシはどうしろッてのよ」

 鳥の来ない止まり木は、ネオンの森に孤独に突っ立っているしかない。そもそも、もうすぐその役目も終わるのだ。長くオイランを続けてきたノナコには、次という選択肢がいつの間にか無くなっていた。「あの人も来ないし……」

内線。受話器を取る。バントーがデッドラインに設定した最後のリザーブ客が来たのだ。この客が帰ったあとは、就業時間中に飛び込み客を待つだけだった。「ガンバロ」ノナコは灰皿に煙草を押しつけた。

 その真夜中に、カラスが飛びこんできた。いつもこんな遅い時間には来ない男だったが、珍しいと思う暇もなく、ノナコはベッドに沈み込んでいた。二人の視線が交差する。瞬間、互いのアトモスフィアがいつもと違うことを読みとる。「……待ってた」「約束したろ?」

………………

「肩、痛そう。怪我?」「仕事でな。きっちりやり返した、し、実際平気だ。気にするな」「そう。辛かったら言ってね」「お前こそ、脛、どうした」「店の子に平手打ちしたら、やり返された」「喧嘩か」「そんなとこ」「お互い災難だな」「お互い頑張ってるよね」

………………

「ちょっと、ダイジョブ?」「アー……ゲホッ……悪い」「部屋、ちょっと寒かったかな。お風呂であったまる?」「いや、いい。時間が無い」「時間なんか気にしないでよ。あなたが最後のお客さんなんだから」「いや……」「なぁに?」「いや……なら、まぁ、焦らないことに、するさ」

 シャワーの音が聞こえる。その合間に激しく咳き込む声も。随分久しぶりに一緒にバスルームへ入って、けれど出たのはノナコが先だった。彼女はバスタオル一枚で濡れた髪を拭くことも忘れ、ベッドに腰掛ける。「時間がない、って……そういう」

 ノナコは自分の勘違いに気づいた。カラス自身の時間が無いのだ。彼の抱えている病は、恐らくそこまで悪いものになっている。この部屋を訪れたカラスに抱いた違和感の尻尾を彼女は掴んだ。相手も今夜が最後のつもりだったのかもしれない。

 自分にやり残したことがあるとしたら、この男だ。自分のカラスに対する思いに気づいてから、カラスに対する距離を、今でも決めかねていた。このままオイランと客のままで関係を締めくくるのか、どうか。
 ぼんやりと長い髪の水気をタオルに吸わせていると、下着姿のカラスがバスルームから出てきた。「ちゃんと体拭かないと、また冷えるからね」「お前こそ」カラスはノナコのバスタオルを奪うと、彼女の髪をばさばさと拭いた。

 そのままカラスは言う。「この間の、お前の話な」「アタシの?」「イアイドーしろって言ったろ。俺に」「言ったね」カラスの手が一瞬止まった。「……センセイに会えた」「そう、よかったじゃない」ノナコはカラスに礼を言って、タオルをリネン籠に投げ捨てた。「そのお話、聞いてもいい?」

 カラスは頷くと、ベッドに足を投げ出し、壁に寄りかかるようにして座った。視線で、隣に来いと告げる。ノナコはカラスの隣に同じように座る。カラスが背中に手を回してきた。「子供をな、成り行きで拾ったんだ」

「子供?」「子供って言っても、女子高生ぐらいで……」そこで、自分の失言に気づいたようだ。「あら、ごちそうさま」わざと意地悪な声を出すと、珍しくカラスが慌てた。「そんなんじゃない。スネるな」きっと、その子が、オコノの言っていた女のことだろう。
「拗ねてない」「俺が悪かったよ」宥める様に髪を撫でられた。「まだ、聞いて貰えるか?」ノナコが頷くと、カラスは続けた。「でな、そいつに今、イアイを教えてる」「……あなたがセンセイ」「そう。俺がセンセイだ。笑える話だろ」ノナコは首を横に振る。

「でも、そうやってると、センセイには会えたし……俺の持ってる物を、そいつに渡したくなってきてな」会ったこともないその少女に嫉妬していると、今なら分かる。ノナコはカラスを見た。「それ、スゴイだよ」「スゴイか?」「人に教えられることがあるって、スゴイだよ」

((それに今度はその子のイアイドーの中に、あなたがいるんだもの))それがノナコには、羨ましかった。「お前に言われると、なんか照れくさいな。けど……ありがとうな。お前のおかげだ」カラスは言った。「まぁもう少し、やれる所までやってみるさ」

「ウン。あなたが思うように、したらいいよ」やることがあるのなら、そうしたらいい。どこへなりと好きに飛んでいけばいい。((でも、一回だけ。アタシに勝ち目はないんだろうけど、勝負ね))ノナコはカラスとの間合いを計り始めた。「なんか急に、悪いな、変な話で」

「ちっとも。聞かせてくれてアリガト」もっと早くにこうしていればよかったのかな、と思っているぐらいだ。「落ち着かなくてな」少しだけばつが悪そうに、カラスは言った。「変なの」今日のカラスは謝ってばかりだ。「こんな時間に。ねえ、アタシと一緒だと落ち着く? アカチャン」

 ノナコの冗談を聞き流し、タバコが売っていないだのとぼやくカラス。ベッド脇の引き出しに隠してあるタバコを思い出したが、渡すのはやめた。「変なの! 他のでいいじゃない」「ダメなんだよ」こだわりのある男は嫌いじゃないと言ったのは、最初の夜だったか。

 感傷をごまかすため、ノナコは笑う。「女の子囲っちゃうなんて」「羨ましいだろ」手探りでシャツを取るカラスの傷だらけの背中に、羨ましいといったら、どんな顔をするだろうか。そう言わない代わりにからかってやる。

「でも、それって、変なのォ。あなたが保護者? そういう趣味? ウェー、最近ちょっと変だよね」「そりゃあ、変さ。俺は死ぬんだ」それを聞いて、ノナコは声を上げて笑った。

カラスの声がヤバレカバレでも、陰鬱でもなく、取り憑いていたオバケが消えたような声だったからだ。この男は、もう死神には掴まらないんだ。ざまあみろ。「またそれ。変なの」「変だよなァ……」

 ノナコは息をつく。さりげなさを装う。仕掛ける。「じゃあ、アタシもひとつ、お知らせね」TVモニタをONにする。やかましく空虚なジングル音が、薄暗い室内を満たした。浅い息を吸う。初めてカラスに嘘をつく。「お仕事辞めようと思って」切り出す。

「……そうか」カラスは、今までノナコの醸していた緊張感に得心したようだった。少しだけ残念そうにも聞こえたが、カラスの方は向けなかった。中身のないテレビに視線を、カラスには、前に聞いた寝言のような話を投げる。

「お金もあるし。暖かいところに引っ越したいの」オイランと客の線を踏み外さぬ誘い文句は、これが精一杯だった。この男が自分の話に乗ってくれたら、もしかしたら。

 ノナコの言葉にカラスは低く笑った。ノナコが好い男だと思った、あの声だ。「まるでリゾートだな。あやかりたいね」ノナコの言葉はカラスに軽くいなされ、届かなかった。

 ノナコの勝負は決着した。

 カラスを見る。パンツ一枚で、脱ぎ散らかしてどこにあるのか定かでない衣類を探している。その姿が妙に可愛らしく思えた。

「ベルトならアタシの隣だよ」「その前にズボンだろう。お前、どこに投げたんだ」「脱がせたのアタシだけど、投げたのはそっちよ」他愛のない会話が、名残を惜しむように続いた。

 そうしてようやく一式身につけたカラスは、コートを着込んだ。その後ろ姿に、なんと声をかけようか少しだけ悩んだ。言いたいことは山ほどあった。

 けれど、ノナコはこう言った。「あなた、ステキだったよ」その声に振り向かず、カラスはドアを開けると、一歩踏み出す前にノナコに言った。「まあ、また会えたら会おうぜ」

 サヨナラや、オタッシャデ、ではなかった。再会をしようと、言った。

ノナコは、カラスの背中に向かって飛び出したい衝動をこらえた。「会えるでしょ」強いてのんきな声を絞り出す。振り向いてほしかったが、こんな自分の顔を見られたくなかった。

「会えるさ。死ななきゃな」カラスは振り向かず、扉は閉まった。カラスは飛んでいってしまった。振り向かず、真っ直ぐに。彼女の元へはもう帰ってこない飛翔だ。死ななきゃ会えると言い添えたということは、きっと、そういうことだ。

「……うそつき」子供じみた非難の声は、ドアにぶつかってどこにも届かなかった。




 ネオサイタマ、埠頭、天気は雨。

「……晴れ男だって言ったじゃない」拗ねたように呟き、ノナコは傘を回した。珍しく薄曇りの空に期待してタクシーを呼びつけ、ネオサイタマを出る前に、あの男が見た景色を見ようとした。結果はこのザマで、自分の代わりに嘆くような重金属酸性雨。

「結局、これで我慢かァ」女物トレンチのポケットから『少し明るい海』を取り出し、火を点ける。最後の一本だ。「まぁ、生きてりゃ、そのうちどこかでね」紫煙を吐き出す。雨の海を眺めていると、空と海が、雨で繋がっているようにも見えた。それはそれで美しいなと、ノナコはぼんやりと思った。

 カラスが最後にかけてくれた言葉を思い出す。また会おうと言ったカラスの本心は分からない。それでも今は少し、自惚れていたかった。

あの男に、どこかでまた会いたいと思わせる女でいられた。そう思えれば、そんな自分が誇らしくさえあった。
 待たせていたタクシーがクラクションを鳴らす。これ以上待たせると、始発のシンカンセンに間に合わないのだ。ノナコは名残惜しそうに雨のけぶる暗い海を眺め、最後の一口を吸った。

「サヨナラ。カラス=サン」

ノナコは、雨の中にタバコを投げ捨てた。ヒールの音を鳴らし、タクシーへと向かう。センコめいてゆらめいた煙は、重金属酸性雨に打たれ、やがて消えた。

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