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Singing in the rain

シンギング・イン・ザ・レイン

ニンジャスレイヤーファンフィクション

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 ウスイ・ヤマモモが見る曇ったヘルメット越しの景色は、フィルターがかかった映画のワンシーンめいていた。

 通りの向こうでは「安心の個室です」「ボディコン」などの煽情的なネオン看板が薄曇りの中で存在を誇示している。周りを行くは、ユーレイゴス、サイバーボーイ、ゲイマイコ、両腕を女性用サイバネ腕に置換したフェティッシュ者、彼らやウスイに遠慮無くカメラを向ける観光客。

 ここはネオ・カブキチョ。貪婪なネオサイタマに於けるあらゆる欲望の最後の受け皿、マイノリティのオアシス。昼日中の大通りであってもネオン看板は輝き、夜の残り香を引きずっている。この界隈にあっては、ウスイの潜水服も違和感なく通りに溶け込んでいられた。

 最初の頃は怯えていた無遠慮な観光客のカメラにも慣れた。呼び込みマイコや黒服たちも、客引きせずに素通りさせてくれるようになった。そこでようやく、ウスイはネオサイタマに歓迎されたように思えた。

 高校でも、そうだったら良かったのに。ウスイはうつむく。皆と同じでないとを笑われ、教師からも面倒なものを見る目を向けられ、昨日ついに移動教室の後、誰かに潜水服を切られてしまった。だからウスイは今日のスクールバスに乗らなかった。命に関わる物を傷つけて笑う人にも、それを見ているだけの人にも、もう会いたくなかった。

 重金属酸性雨の水たまりを、慎重すぎる足取りで避けて通る。ダクトテープで応急処理はしてあるが、浸水しては大変だ。生まれつき体が弱いウスイは、様々なものへの重度のアレルギーがあった。

タマゴ、生魚、建材に使われる防腐剤、そして、重金属酸性雨に含まれる有害物質。

 父の転勤にともなってキョートからネオサイタマに越してきたその日に、彼女のアレルギーは突如重篤症状となった。そして数日の入院と精密検査により、彼女にとってネオサイタマの雨が、命に関わることだと分かったのだ。

 次に雨へ当たれば、運が悪ければほぼ即死、そうでなくてもネオサイタマの大気が相手では、備え無しに半日も保たない。

 あらゆる治療を試みたものの効果はなく、行き着いたのが潜水服だった。父が誕生日にどこかから買ってきてくれたもので、それがカロウシした父の最後の贈り物となった。

 それ以来二年間、潜水服がウスイの命綱。そして、この電子戦争前の旧型潜水服を修理してくれる店は、現在ネオ・カブキチョに存在する、マニアック衣装専門店「テンクサ」だけだ。半地下の入り口前には、「十種」というネオン文字がぼんやり浮かんでいる。

 狭い入り口をカニめいて横向きに下りて行く。「準備中な」のプレートは無視して、ドアを開けた。「ドーモ。ウスイ・ヤマモモです。修理をお願いします」潜水服とヘルメットの留め具を外して、ヘルメットを脱ぐ。肩のあたりで切りそろえられた黒髪の、やや陰気そうな少女の素顔が露わになった。

 薄青い照明の店内には、様々な水着やマニアック衣装が吊るされている。中でもひときわ目を引くのは、店の真ん中に置かれた巨大金魚鉢。テンクサは週に何度か夜にバーとして営業しており、その時には下半身に人魚型のスイムスーツを着た女がこの中を泳ぐのだ。

 その金魚鉢で新作スイムスーツを試していた女がウスイに気づき、水から上がった。「店長、ウスイ=サンだよ」「アイ、アイ」ユウレイクラゲを頭からかぶったような髪型の女店主が奥から出てくる。

「今日はどこ?」「左足のここ、切れてしまったんです。あと、ファスナーが上がりづらくて」「アー、ここねえ」女店主はダクトテープを剥がすと、何か言いたげにウスイと潜水服を交互に見る。

「なんでこんなに切れたの」「ちょっと、不注意で」不注意に間違いはない。自分が目を離さなければ良かったのだから。「……不注意ねェ。ま、いいわ。とりあえず、後ろ向いて」「はい。アリガトゴザイマス」

 女店主にファスナーを下ろしてもらい、ウスイは潜水服を脱ぐ。陸に上がったダイバーめいた軽装になったウスイは、ゆっくり首と肩を回した。「見てくるから、待っててね」潜水服を受け取った店主は、奥の作業場へ消えていく。ウスイはオジギし、バーカウンターに腰掛けた。

 あの傷では、膝下からのゴム素材を総交換することになるだろう。頬杖をつき、ウスイはうつむいた。「……ねえ、ウスイ=サン」金魚鉢の人魚がウスイに声を掛ける。「アンタに言おうか迷ったけど」淵に手を掛けた人魚は、ウスイに言う。

「ケンワ・タイってボンズの噂、知ってる?」ウスイは首をかしげる。人魚は続ける。「そのボンズ、どんなビョーキも治してくれるんだって」「あの……気持ちは、嬉しいんですけど」ウスイは椅子を反転させて笑う。体質のことは、店の人間には話している。「わたしは、これで、いいんです」ゆっくりと、言い聞かせるように答える。

 人魚の尾が水面を打った。「アタシだって、冗談でこんなこと言わない。アンタが良く行ってるナントカって店のオーナーも、それでビョーキ治ったって言うから。聞いてみたらホントかどうかわかるでしょ?」「エート……」「ウスイ=サン、このままじゃ勿体ないよ。オオヌギにいるって言うから、行くだけ行ってみたら?」

 ウスイが返答に窮していると、女店主が戻ってきた。「足の方は、半日くれたら使えるようにする。ファスナーは交換。ヘルメットを磨くのはサービスね」ヘルメットだけ抱えた店主が尋ねる。「何の話?」「何でもないんです。お店が開くまで、ここにいても?」「ドーゾ」

 ウスイはバーの開店時間まで、潜水服を修理する女店主やスイムスーツの人魚といつものように話したり、店の開店準備を手伝ったりして過ごした。ここでのデリケートな所まで踏み込まない距離感が、ウスイは好きだった。

 切れた部分は裏地のゴムを旧時代のコーキング剤で補修、上から弾性包帯で補強し、更にコーキング剤を重ねることで安くしてもらえた。ここの人たちは、優しい人たちだ。

 客が入る前に、ウスイは女店主から潜水服を受け取った。「ありがとうございました」ウスイはトークンを店主に渡す。潜水服を履き、袖を通し、背中のファスナーをあげる。「スムーズ。いつも助かります」「仕事だからね」ヘルメットをかぶり、留め具をかける。 そして、対重金属酸性雨の装備を着込んだウスイは丁寧にオジギして、テンクサを後にした。

 ウスイを見送った二人の女は視線を合わせて苦笑する。「店長、あの子良い子ですね」「それが心配っていうか、良い子すぎるんだよね」「デスネー。それに、潜水服の切れ目。あれ不注意じゃないよね?」「私もそう思う。あんまり溜め込むとマズイんじゃないかな」女店主は溜息をついた。

「……さっき、ケンワ=サンの話教えたんだけど、あの子行くかな」それを聞いて、女店主は険しい顔になった。「アンタ、それ言ったの」「だって、マジな話みたいだし……治ったらいいじゃん?」「バカ!」女店主は人魚を怒鳴りつけた。「アンタ、その話はもう―」

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 クリアになった視界で、ウスイはいつもの店に向かっていた。たまたま雨宿りしたところを招き入れられてから、すっかり気に入ってしまった店だ。そこで大柄なオーナーの人柄に励まされたこともあるが、自分と同じ年頃の少女がカウンターにいるので通っていた。

 人魚の話を信じるならば、そのオーナーに訊けば、真偽ははっきりする。アレルギーは治るのかどうか。ウスイの足取りは、少しずつ速くなる。訊いてみよう。久しぶりに行くけれど、覚えていてくれるだろうか? 通りの向こうに、明るく「絵馴染」の看板が点滅していた。

 通りを渡って扉を開ける前に、「勝手ながら臨時休業」の張り紙を見つけた。ウスイはしばらく、その案内を眺めていた。キマリテのスモトリがウスイに声を掛ける。「ドーモ。どうしましたか?」「ドーモ。あの、ザクロ=サンはまだゴビョーキなんですか?」

「ああ、それならケンワ=サンの所に行って、すっかり良くなったそうですよ」ウスイは、自分の鼓動が大きく潜水服に反響するように思えた。「そう、ですか。じゃあ、今日のお休みはビョーキじゃないんですね」スモトリは頷く。「……ありがとうございます。失礼します」

「ドッソイ、ウスイ=サン待って―」ウスイには、スモトリの制止は聞こえなかった。ヘルメットはネオンを反射し、ウスイの表情を隠した。大通りでタクシーを拾う。彼女の身なりを見て面倒くさそうな顔をした運転手に告げる。「あの、オオヌギまで、お願いします!」



『タマチャン・リバーのラッコは、ブッダの慈悲が働いていることの現れです。深刻な環境破壊を止めるようにというメッセージです。ですから―』タクシーの車載モニタでは、母がコメンテータをしているニュース番組が流れていた。ウスイは外していたヘルメットをかぶった。音が遠くなる。

 母とは、もう随分と会っていない。自宅にほとんどいないのだ。母はもともと敬虔なブディストであったが、ウスイの重金属酸性雨アレルギーが発覚してからは更にのめり込み、多額の寄進によりほどなくカスミガセキのカテドラルに招かれた。

 現在はそのカテドラルで、ウスイの病状についての講演や闘病記の執筆などを行っては、その講演料などを寄進しているらしい。ウスイがそれを知るのは、いつも母が出演するテレビか書店の店頭だ。ウスイと母を繋ぐのは、今や毎週送られてくる生活費の入ったトークンだけだ。

 雨アレルギーが治れば、母はどうなるだろうか。家に帰ってくるようになるだろうか。「お客さん、ここでいいですかね」「アッハイ」ウスイは我に返り、タクシーの運転手に高額のトークンを渡した。『全ての悪しき出来事はブッダが与える試練なのです。それを越えることで魂はより高みへと……』

 釣りも渡さず急発進で去るタクシーを見送り、ウスイは歩き出す。禍々しい警句が掲げられた、オオヌギ・ジャンク・クラスターヤードの「絶望の橋」。ここを渡るのは初めてのことだ。人魚から教わった位置情報を入力した携帯IRC、その合成マイコ音声が「直進ドスエ」と告げる。

 橋を渡ると両岸には崩れかけたプレハブ小屋や、崩れかけた屋台などが建ち並ぶ。潜水服越しにも分かる臭気に、ウスイはヘルメットの奥で眉をひそめた。カブキチョのアルコール臭とも違う、処理されていない汚水の臭いだ。((こんなところに、ほんとにいるのかな……))

「いいパーツ。千でいいよ、取り替えるよ」「要らない部分を売ってください」通りすがるウスイに声を掛ける、ボロを纏ったジャンク屋を必死に早足で振り切り(潜水服の彼女は走れないのだ)、目的のテンプルへと急ぐ。やはり、この界隈でこの格好は悪目立ちしてしまっている。

 ヘルメットから見える景色は薄暗く、ウスイの足をともすればすくませる。けれど彼女は強いて前へ前へ進んだ。((大丈夫。治ったら、帰りは潜水服は、持って帰ればいいんだから))無心に案内音声に従う。「まもなく目的地付近ドスエ」

 汚水の臭いが強くなる。ウスイは浅い呼吸のなか、それを見つけた。道中のトタンやコンテナ、プレハブ群とは比べものにならぬほど朽ち果てた、そこは廃屋だった。

夜だというのに、あばら屋を取り囲むように、沼に浸かってドゲザ礼拝をする者たちがいる。

 勇気を振り絞り、沼に足を踏み入れる。細い道を、たどたどしい足取りで進む。ドゲザ礼拝者は口々にネンブツを唱えながら、泥まみれになるのも厭わず、機械仕掛けめいて礼拝を続けている。その異様さに、ウスイは気圧された。
 ブッダに祈ることで全てが解決するわけではない。しかし、ドゲザ者らの祈りは、困窮ではなく感謝から来ているように見えたのだ。そうした祈りを、ウスイは初めて見た。潜水服の足が沼を跳ね返す。ウスイは、意を決してあばら屋に足を踏み入れた。「オジャマシマス」

 あばら屋は無人だった。人がいるような気配も、生活している様子もうかがえなかった。ただ、部屋の中央に祭壇めいて置かれたチャブには、大量の花束、センコやマンダリンが置かれていた。

 それはある既視感をウスイにもたらした。父の亡くなったあと、帰って来た亡骸の前に供えられた物たち。ウスイは、よたよたと外へ出るとドゲザ者の一人に尋ねた。「あの……あの、ケンワ=サン……ケンワ・タイ=サンは、どこに?」

 沼から顔を上げた女は虚ろに笑って答えた。「あの方はお亡くなりになりました。ブッダのみもとへと向かわれたのです。私達をビョーキから救ってくださった……おお……ナムアミダブツ……」ウスイは女の返答を最後まで聞けなかった。かたちばかりのオジギをし、朽ち木の墓標に背を向けた。

『タマ・リバーをわたるとき、すべての希望を捨てよ』

橋を渡るときに目にした警句が、ウスイの頭の中で反響していた。

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 夜のオオヌギを、茫然自失とした潜水服の少女が彷徨っている。潜水服の頭を垂れたまま、ショートしたドロイドめいた足取り。ウスイ・ヤマモモだ。

 酔っ払いにぶつかり、反射的に謝る。その背中が別の少年にぶつかり、また謝る。その少年が、ウスイのバックパックから財布をスった事にも気がつかず、元来た道をふらふらと歩いて行く。

 何を呪えばいいのか、何に怒ればいいのか、今のウスイにはわからなかった。((軽はずみに、治るなんて思ったから、こんなに落ち込んでるんだ。きっと、そうだ。今までだって、充分やっていけていたんだから))
((このままで良いんだ。学校は、母さんに頼んで通信にしてもらって、卒業して、在宅のお仕事を見つけて……それでいいんだ。それで……))夜空は段々と暗さを増し、今にもひと雨来そうだ。うつむくウスイは空模様に気づかない。前を歩いてくる猫背の男にもだ。

「痛ッ」「グワーッ!」猫背の男と真っ向からぶつかり、ウスイは尻餅をついた。猫背の男も肩をおさえてうずくまっている。「ス、スミマセン。大丈夫ですか?」「肩関節が外れた! 医者代を出せ!」「エッ」ウスイは混乱した。「あ、エト……」「グワーッ! 痛い!」男はのたうち回っている。

「あ、あの……」ウスイは言われるままにトークンを差し出そうとバックパックを探し回るが、ナムサン! 彼女の財布はすでに無い!「あ、あれ……ナンデ? 財布……」「カネ払いたくないからって嘘つくんじゃねえぞッコラー!」「アイエッ!」ウスイは震え上がった。「本当に、無いんです」

 潜水服の奥で震えながらウスイは答えるが、猫背男はウスイを睨み上げる。「信じられねぇなァ?」そして猫背男は両手で彼女の右腕を掴み、プレハブの影へと引きずろうとする!「あ、あの、肩は」「ダッテメッコラー! アバラも折れたんだオラー!」

 もはや猫背男の言いがかりだとウスイにも分かる。「やめてください! ヤメテ!」しかし、大人の男には力で敵うわけもなく、抵抗虚しくプレハブの裏手まで引きずられる。

「そいつの下に、良いものを隠してるかもしれないからなァ……」猫背男が彼女を突き飛ばし、馬乗りになる。潜水服を舐めるように見る。

 男はもがくウスイを軽々と押さえつけ、力任せにヘルメットを引きはがす。「助けて! 誰か! イヤだ! 誰か! 助けて!」ウスイの叫び声は誰にも届かない。否、誰も拾わない。ここはオオヌギだ。サヨナラ&ファックが常習の当たり屋に掴まった少女になど、誰も関わらない。

「ヒューッ! 意外とマブ!」猫背男の手が、ウスイの細い首にかかる。「カネが無いならしょうがない、しょうがないよなァ……ヒヒヒ……」首の脈をしめられ、視界がじわじわと赤く染まる。弱々しく男の背中を叩いていた手が、力を失い、汚れたコンクリートにぶつかった。

((苦しいな……ここで死んじゃうのかな……父さん、潜水服、壊しちゃってごめんなさい。母さん、こんなところで死んだら困るよね……ごめんなさい))

 ウスイの記憶はそこで終わっている。

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 ―どれほど経ったろう? ウスイは生ぬるい水に浸かる感覚で目を開いた。潜水服の中に、何かが入り込んでいる。その正体を悟り、ウスイは悲鳴を上げて跳ね起きた。「ウワーッ!」雨だ。雨に当たっている。はぎとられて露わになった頭部から、潜水服の中にまで汚水と雨水が入り込んでいる。

「い、いやだ……! どうして……どうして……!」死の雨に当たったウスイは涙ぐんだ。((治ったら良いなって……思っただけなのに、どうしてこんな……!))ウスイは泥水の中に手をつき、うずくまった。
 呪う相手を見つけられないまま、ウスイは涙をぼろぼろとこぼし、水たまりを叩いた。何度も、何度も叩いた。跳ね返った泥水が彼女の顔を汚した。その泥水に映った物を見て、ウスイの手が止まった。

 泥水に映るウスイには、何も起こっていなかった。その顔には、発疹も、じんましんも、爛れもなかった。ぎょっとして、水たまりをのぞき込む。

 歪んだ水たまりの中には、見慣れた陰気な少女の顔があった。這うように、打ち捨てられた潜水ヘルメットへ向かう。映り込むのは、やはり同じ顔。ウスイは顔に触れて感触を確かめる。何もない。

 篠突く雨の中、彼女は一種の閃きを得た。やおら立ち上がり、潜水服を脱ぎ捨てた。顔を上げ、雨を全身で受け止めるように手を広げた。しばらく雨に打たれても、ウスイの肌は綺麗なままだ。

「ア……ア……」ウスイの瞳が輝く。体じゅうに、生まれて初めてのエネルギーが沸き上がるのを感じる。犬めいた仕草で頭を振り、額に張り付く前髪をかきあげる。土砂降りの中、ウスイは両手で水たまりを叩いた。何度も、何度も叩いた。ウスイは泣きながら笑っていた。

「ヤッター!」ウスイの上げた歓喜の声は、誰にも顧みられることなく、雨のオオヌギに響いた。その背後に、ドロドロに溶解した男の死体があったが、彼女がそれに気づくことはなかった。



 オオヌギからの帰り道。雨に打たれながら、ウスイは父が好きだったミュージカル映画の歌を口ずさんでいる。潜水服は大ざっぱに畳んで両手で抱えて潜水ヘルメットをかぶっている風体だったが、ウスイは特に気にしなかった。映画めいて雨の中を歌いながら帰るのは、ウスイのひそかな憧れだった。

 どうせ今日もひとり。熱いシャワーを浴びて、トーフを少し食べて、父のオブツダンに手を合わせて寝るだけだ。母には明日の朝連絡を入れなければ。そう思いながら見上げた部屋の明かりを見て、ウスイは母の帰宅を知った。彼女の表情に緊張がみなぎった。
「ただいま」「こんな時間までどこにいたの」母はホット・サケを片手に寝室へ向かうところだった。「先生から連絡がありました。学校もサボったそうじゃない」「お母さん、私ね」母はそれを遮るように手を振った。「言い訳は聞きません」「聞いて。私、雨が平気になったの」

 寝室に向かう母の足が止まる。棘のある声で言い捨てる。「悪い冗談はやめてちょうだい」「嘘じゃないよ」ウスイはベランダに向かった。「証明する」ベランダへ出て、窓を閉める。潜水服をそっと置くとベランダによりかかり、ひさしの外へ両腕を差し出す。信じて貰えなくて当然だ。自分だって、まさかと思ったのだから。

 雨に当たってからベランダの窓を開けると、リビングのテーブルにサケを置いた母がこちらを見ていた。母にこうやって見られるのは随分久しぶりだった。「見て。なんともないんだ」両手を広げて、母に見せる。「大丈夫になったんだよ」「ああ……! ああ……!」駆け寄った母が、ウスイを抱きしめた。

「ママの祈りがブッダに通じたのね……!」ウスイがその背中に手を回す前に、母は体を離してしまった。ウスイの手が空をさまよう。「NSTVに連絡しないと!」母親は携帯IRCを片手にきびすを返していた。ウスイは淡々と潜水服をベランダに吊し、ヘルメットを室外機の上に置いた。

「ウスイ、明日はママと一緒に取材を受けなさい。良いわね?」ウスイは顔を上げて母を見た。母はウスイに背を向け、電話で話し始めていた。「そうです。明日の撮影の件で―」ウスイはうつむいて、バスルームへ向かった。「明日は九時までに出かける支度なさい」通りすがりに母が言った。

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「今日はありがとうございました」華やかなネオンピンクのキモノを着たオイランインタビュアーに、ウスイはぎこちなくオジギをする。「ありがとうございました」「五分押しね。タクシーを呼ばないと」母に急かされて、グリーンバックのスタジオを離れる。次はカテドラルに礼拝だ。

 あの夜から、ウスイの生活は慌ただしくなった。「ブッダの奇跡」「献身的愛情」といったキャッチコピーで母の出演するテレビ番組での共演、メディアの取材、医師の検査にまでカメラが入った。検査結果は、重金属酸性雨のアレルギー症状のみが改善されている、ということだった。

 初めてメイクをし、髪を上品にセットされ、まるで今までの自分とは別人に見えた。何をするにもひとりだったウスイの周りに、彼女を取り巻く大人が増えた。けれど学校へは行けず、母は相変わらず帰宅せず、タクシーでウスイを自宅に送ったらそのままカテドラルへ帰ってしまう。

 父が眠る墓は、カスミガセキのカテドラルにある。ウスイがそこにお参りに行きたいと言ったところ、何らかのセレモニーめいた扱いとなってしまった。父に報告したかっただけなのだが、それは許されなかった。

 ひとつアレルギーの症状が消えただけで、こんな暮らしが待っているなんて。もちろん治ったことは嬉しかったが、彼女が欲しかったものは手に入らなかった。

 けれど彼女はそれを言葉にする術を持たず、奇跡の娘とウスイ・ヤマモモの距離が、どんどん離れる。ウスイは、潜水服よりも重苦しいなにかが、自分と周囲を隔てているような気がした。

 潜水服を着ていた頃は、こんなに息苦しくはなかった。きっと、自分の呼吸を楽にしてくれた人たちがいたからだ。そういえば、あの人たちにも会っていない。ウスイは彼らが懐かしくなった。((今夜、会いに行こう))

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「ドーモ、ウスイです。お久しぶりです」「エーッ? ウスイ=サン?」従業員のゲイマイコが声を上げる。「テレビ出てたよね?」ウスイは気恥ずかしそうにうつむく。「アラアラ、今日はアータおめかしして。雨、大丈夫だった?」カウンターの奥にいた大柄なボンズヘアの男がウスイを振り返った。

 その姿が思ったより元気そうで、ウスイは安心した。「ザクロ=サンこそ、大丈夫ですか? ビョーキしたって聞きました」ボンズヘアの男、ザクロは頬をおさえた。「ヤダ! そんなに噂が広まっちゃったの? もう治ったから心配ご無用よ」そうして右手でガッツポーズを作る。

「このところバタバタして、落ち着かなくて。ザクロ=サンに会いたかったのに遅くなっちゃいました。元気そうで良かった」ウスイもつられて顔をほころばせる。「ウスイ=サンも、アレルギー治ったんでしょ? ブッダのご加護で」「エート……」ウスイは言葉を濁した。

「アー……それが、どうしてか雨のアレルギーだけ治ったんです」「ンマー! おめでとうじゃないの!」やや大げさな仕草で、ザクロがカウンターから身を乗り出す。「ありがとうございます」「今日は祝杯ね。でもお酒はダメよ。いいわね?」「ハイ。ホット生姜ください」

「分かった。うんと甘いやつね?」ザクロはグラスを用意する。「にしても、ほんと、おめでたいじゃない。アタシにも良いニュースだわよ」「今日ここに来る前にテンクサにもお礼しに寄ったんですけど、店長さんも喜んでくれました」「良かったわね。今度は修理以外のお客さんで遊びに行きなさい」

「ウン。同じ事言ってくださいました。わたし、迷惑なお客だったのに」うつむくと、磨き上げられた木製のカウンターに見慣れぬ化粧の女の子が映り込んで、ウスイは慌てて顔を上げた。「迷惑なんてするモンですか。アータはどこのお店でも、いいお客サンよ。ドーゾ」ザクロからグラスを受け取る。

「アータ、もうちょっと自分に自信持った方が良いわよ」出されたホット生姜ドリンクを一口。こってりした生姜シロップとハチミツ。「お洒落したり、誰にも気兼ねせずにお出かけも出来るようになったんだから。もっとカワイイになれるわよ。ワカル?」「でも、お洒落って興味なくて」

「アラ」ザクロは首をかしげた。「今日なんてお洒落してるじゃない」「母が買ってきた物なんです。さっきまで、母と一緒にいて」「フゥーム? お仕事?」ウスイは頷く。「それで、メディアの前ではふさわしい振る舞いしなさいって、母が」

 ふさわしい。何にふさわしいのだろう? 母がメディアに対し誇らしげにしているのは、ウスイにとって悪いことではないはずだった。しかし、自分が角砂糖めいた存在であることは、素直に喜べないのだ。コーヒーに添えられた角砂糖は、使われずに捨てられるか、溶けて無くなってしまう。

「アータ、どうなの」「どう?」「お母さんとのお仕事、楽しい?」ウスイは返事に困った。居心地が悪いのだと認めてしまっては、いけない気がしたのだ。無言になったウスイの表情を見て、ザクロが溜息をつく。「アータはね、そこがダメ!」「エッ」「アータはね、そこがダ! メ!」

「あの」「何が楽しくて何が好きかってことを、ちゃんと分かってなきゃいけないわ! アータは年頃の女の子なんだから、これからでしょ! キョートでも、何か楽しいことや好きなこと、してたんじゃない?」ウスイはグラスをかかえて、控えめな間接照明を見る。灯火めいた明かり。

 ややあって、ウスイは答える。「古い映画を、家族でよく見に行ったんです」キョートの奥ゆかしい町並み。遠い思い出。「それから、映画を観るのが趣味なんです」「良いじゃない! アタシも好きよ。『ファンイチとオモヨ』とか」ウスイも知っている、電子戦争前のロマンス映画だった。

「マァ、色々経験して、自分の好き嫌いを知ることよ。なんにしたって、アータは選択肢が広がったんだから。まずは楽しむことね。それに」ザクロは微笑んで、ウスイにウインクした。「カワイイってのは、姿形のことだけじゃないわ。カワイイはアータの内側で寝てるのよ」「寝てる」

「で? どうなの? お母さんとの仕事。楽しい?」ザクロの目がウスイを見る。ユーモアと冷静さと手厳しさを、ウスイは見て取った。ウスイは、消え入りそうな声で言う。「……寂しいし……楽しく、ないです」

「それを、お母さんにちゃんと言ってごらんないさい」「でも」「でも、じゃない! アータ楽しくないんでしょ? なら、つらいって相手に話さなきゃ。アータもお母さんもそのまますれ違ったままよ。そんなの底なし沼よ。行く先はジゴクだわよ!」ドン、と、ザクロはカウンターを叩く。

「嫌がることを無理矢理やらされるなんて、アータが保たないの! ちゃんと家族会議なさい。いいわね?」「……」「ことと次第によっちゃ、飛び出して来て良いわよ。しばらく泊まるところは世話するから―ちょっと、アータ! ナンデ泣いちゃうのよ!」

 ウスイは、グラスを抱えたままボロボロと泣いていた。「アタシちょっと言い過ぎちゃった? ゴメンね」ザクロが自分に視線を合わせて謝罪する。ウスイは慌てて首を横に振った。「違うんです。ザクロ=サンが、気にかけてくれたの、うれしかったから」

 誰かに親身に話を聞いて欲しかった。だから、ここに来たのかもしれない。「私、はじめて誰かに、良かったって言ってもらえて、一緒に喜んで、もらえて」ザクロが差し出すティッシュで鼻をかむ。「ごめんなさい。私、ザクロ=サンに甘えてる」

 ザクロはウスイを見て苦笑した。「おバカさん。ごめんなさいじゃないでしょ。ありがとう、でしょ?甘えられる人には甘えときなさい」「ありがとうございます、ザクロ=サン」「よろしい。……泣き止んで、それ飲んだら帰りなさい。もう遅いわ」ウスイは鼻を啜って頷いた。

「お母さんに、話をしてみます。ごちそうさまでした」「おそまつさま。その調子で、頑張りなさい。アータは、もっと笑って暮らしていい子だわよ」この人は、いつも柔らかく背中を押してくれる人だとウスイは思った。「また来ます」代金を支払い、オジギをし、店を出る。

 外に出ると、バチバチと明滅する「絵馴染」のネオン。それを見上げて、ウスイは思う。((でも、ザクロ=サンはつらいとき、誰かが背中を押してくれるのかな―))

 ウスイが退出した店内では、ザクロが鼻を動かして、難しい顔をしていた。「ただいま。……ザクロ=サン?」しばらくして店に入ったジャージ姿の少女、ヤモトが首をかしげる。「ザクロ=サン、どうしたの?」

「おかえり。何でもないわ。アータだったみたい」「え?」「冷えたでしょ。なんかあったかいもの出すわ」ザクロは牛乳と抹茶粉末を取り出す。((でも、ヤモトにしちゃあ、なんか違うのよね……))




〈「日刊コレワ」の三面記事〉
【神隠しか? 夜のネオサイタマで失踪事件】
ブッダからの加護を受けた市民に降りかかった痛ましい事件! 某ブディスト・ヘルス・ワーカーとその子供を乗せたタクシーが炎上し、運転手が死亡、乗っていた親子のうち子供が行方不明となっている。親子はこのほど様々なメディアで取り上げられ、睦まじい姿は多くの人も知るところだ。なんたる悲劇! こんな痛ましい事態を引き起こさぬ為には今すぐ政権交代だ。

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 霧雨がけぶるハイウェイを、一台のタクシーが走る。『空気にアリガトー いたわりこれがイチバンー』ポップソングが流れる中、乗客ふたりは静かだった。ウスイとその母である。ウスイは母の隣で、話をする機会をうかがっている。

 ザクロの発破から二週間経ったが、結局母と話はできていない。大事な話をしようとすると、母はいつもはぐらかす。仕方なく、ウスイはいつものようにぼんやり笑ってやり過ごすことにした。諦めるのは慣れている。

「ああ、そうだ。明日は学校へ行きなさい」やおら口を開いた母に、ウスイは困惑した。そして、続けて聞いた母の言葉に、数秒言葉を失った。「お母さん、それ……本当?」

 潜水服を切り裂いたクラスメイトと和解する様を、カメラに収める。母はこともなげに頷いた。「無理だよ」「学校へ連絡した後、お相手の親御さんから申し出がありました」なんたるメディアの影響力を鑑みた双方の親たちによる欺瞞ショー! ウスイは隣に座るのが、不気味な生き物に思えてきた。

「不如帰」のネオン看板が窓の外を流れる。ウスイは意を決した。「私、いやだ」沈黙。カーラジオの音がうるさい。母が口を開く。「……ふざけないで」「ふざけてない」ウスイは母の方へ首を向ける。「お母さん、学校で私が何をされたか知ってて、言ってるの?」

 母はハイウェイを流れるダルマボンボリの軌跡を眺めるだけだった。「お母さん!」「……もう、カブキチョやニチョームに入り浸るのはよしなさい。印象が良くないでしょう」「知ってたの」しかし、今そんな話はしていない。ウスイが答えるより先に、母が続ける。
「あんなもの、もう直す必要ないでしょう?」

 ウスイは、愕然と母のようなものを見た。古く、型落ちの潜水服は、あんなものでも父の形見で、ウスイを守っていたのに。ウスイは目の前が暗くなるような感覚に襲われた。そして次の瞬間、ウスイの見る風景が一変した。土砂降りの、闇の地平。ウスイはかつてのように潜水服姿で、そこに立っていた。

『分かったろう? 奴等はそなたをなんとも思っておらぬぞ』どこからか、聞き覚えのある少女の声。『ドーモ、ウスイ=サン』杯をひっくり返したような笠をかぶり、笠のふちから垂らした薄布で顔を隠している。「ドーモ」ウスイもオジギを返す。

 ウスイは彼女を知っていた。それを今思い出した。ヨタモノに襲われた時、彼女は生まれた。そして、ウスイの中に溶けて消えたのだ。『思い出したかえ? あの女たちがしてきたことを』少女は、笠の下でクフフ、と笑った。

 少女の声は雨の中でも不思議とよく通る。『妾は忘れぬぞ。奴らの行った非道を。全ての悔しさを。怒りを』少女がマイめいて片手を差し上げる。

『そなたにも、今ひとたび見せてくれようぞ』潜水服のヘルメットに、ソーマト・リコールめいて過去の光景が流れる。

 ネオサイタマに来た日、目覚めたら病院でアドレナリン注射と酸素吸入を受けていた。キョートには帰れない。ウスイの家に、家族が分散して暮らせる余裕はなく、歓迎されぬ街で、マンションから出ない生活が始まった。

 恐る恐る父の買ってきた潜水服を装着し、やっと外に出られた。待っていたのはヘルメット越しのくすんだ色彩と、新しい玩具を見つけた顔のクラスメイトだった。父が見せた笑顔を思い出し、ウスイは学校へ通い続けた。両親には黙っていた。

 父の葬儀だった。母から参列を止められたウスイは、自分の部屋で潜水服を眺めていた。こういう日のために着るべきではなかったのかと思ったが、悲しむ母にこれ以上辛い思いをさせたくなかった。キョートに居た頃の家族写真を見て、少し泣いた。

 アークボンズに勧められて母が書いたウスイの闘病本は、思いの外売れた。講演会のオファーがたくさん舞い込んだ。母は帰ってこない代わりに、生活費のトークンを置いていった。たいして使い道のないトークンは貯まっていった。

 母にはいつも、テレビで会っていた。「我が子の病はブッダが遣わせた試練なのです。試練に迷った我が子を導くことが、私の終生の幸福であり―」用事がなくても、テンクサや絵馴染に通うようになった。父との思い出を大切に繕ってくれ、ウスイの淋しさを埋めてくれたのは、彼らだった。

 ヨタモノに襲われたウスイの前に、ニンジャを名乗る女が現れた。「妾の力を振るうがいい、娘よ」そして女の言うがまま、ヨタモノに怒りをぶつけた。ヨタモノは簡単に彼女の手に掛かって死んだ。ウスイはニンジャと己の怒りを恐れ、それを押し込めた。

『よくもまあ、耐えに耐えたものよの』少女は低い声で囁く。怒りが滲んでいる。「だって、私が我慢すれば収まったことだから」『その結果がこれだ! 誰が妾たちを顧みた! 答えろ!』ウスイは答えられなかった。少女は嘲笑した。

『挙げ句、妾はお前からも殺された。もう! 我慢! ならぬ!』フェイスカバーの水滴が視界を曇らせる。少女の激昂が雨脚を強めたようだった。ウスイのぼやけた視界の中で、少女の背中が遠くなる。「どこへ」『外よ』外。嫌な予感がした。「ヤメテ」

 ウスイは彼女に手を伸ばそうとしたが、かなわなかった。いつの間にかウスイの潜水服が糸で吊され、身動きが取れなくなっていたのだ。『クフ、クフフフ! 似合っておるわえ。ジョルリの姿』少女が笑う。ウスイは聞き覚えある声の正体を思い出した。彼女は、ウスイだ。

「今から、妾が、そなたじゃ」

R

 うなだれてしまった娘を見やり、ミズエ・ヤマモモは今後のスケジュールを組み直す必要を感じていた。娘はやや情緒不安定になっている。予定を詰め込みすぎた弊害があらわれているのだ。しかし、もう少しメディアに出ておかなくては。ネオサイタマでは話題の鮮度が短いのだから。

 今いっとき不便や理不尽を我慢すれば、ここで得た金銭や人脈が、今後娘の助けとなる。聞き分けの良い娘は、今は無理でも、きっとミズエを理解してくれているだろう。ミズエは娘が憎いわけではない。ただ、娘を見ると、己を責められてるように感じてしまうのだ。

 結果、ミズエは救いをブッダと、娘を慈しむ母親像にもとめた。実際、献身的な母としての評価が上がる度、彼女は救われた。

そして、それが何の上に成り立っているかも知らず、今もそれにしがみついている。「ウスイ=サン?」ミズエは、なおも黙りこくる娘を呼ぶ。「クフフ」耳障りな笑い声とともに、娘が顔を上げた。

そこに、数秒前までの卑屈さはなかった。「ドーモ。ミズエ・ヤマモモ=サン。スコールブリンガーです」娘は、嗜虐的で冷たい眼光をミズエに向けていた。「金輪際、そなたのジョルリにはならぬぞ」

「何を言っているの、ウスイ=サン」ミズエはその様子に本能的な恐怖をおぼえた。「妾はウスイではない」尊大な抑揚をつけ、娘は酷薄な笑みを深くした。「妾は、ニンジャぞ」「ア、アイエエ……!」

 震えたミズエを見て、スコールブリンガーは拍子抜けした。((……こんなものか))ミズエがとても卑小なものに思えた。スコールブリンガーはミズエを嘲けった。同時に、無意識にスコールブリンガーを抑えつけていたウスイも。あいつは今まで、こんな女のために何を我慢していたのか。

 スコールブリンガーはタクシーの運転手をぞんざいに見やった。「車夫。車を止めろ」運転手はミラー越しにこちらを見て震えている。返事はない。「そうか。イヤーッ!」鋭いチョップがシートを貫通し、タクシー運転手の心臓を正確に貫いた。「アバーッ!」運転手は死んだ。

 スコールブリンガーは哄笑した。晴れやかだ。思い通りにならぬ怒りを発散する心地よさよ!「愉快、愉快!」「アイエエエエ!」ミズエが失禁する。運転手を失ったタクシーが左右に揺れる。スコールブリンガーは右のドアを吹き飛ばし、車内から飛び出した。「ミズエ=サン。カラダニキヲツケテネ」
 タクシーは迷走の果て、中央分離帯にぶつかって炎と煙を噴いた。それを見届けて、スコールブリンガーの唇が満足げな弧を描いた。これで自由だ。何にも囚われず、己が好きに笑い、怒り、生きることができる。

 しかし、両目からは涙が流れ、やがて口元からも笑みが消える。「おかあさん」((ウスイめ……))スコールブリンガーは涙を流しながら舌打ちした。この涙はウスイのものだ。

遠くマッポのサイレン。「おかあさん……!」体は明け渡さぬ。スコールブリンガーはアスファルトに張り付く足をニンジャ脚力で引きはがし、その場を離れた。

「ちがう」ウスイが喧しい。「ちがう」「違うものかよ。妾がそなたの代わりにやってやったのじゃ。喜べ」ウスイは泣き出した。「ヤメテ……!」「クフフフ……やめぬぞ。妾はそなたじゃ」「いやだ!」「この期に及んで嫌だ嫌だと! 虫の良い!」スコールブリンガーが吼える。

「そなたがいるかぎり、妾にまことの自由は訪れぬ!」その瞳が、ふとある看板の上で止まった。「クフフフフ! クフフ! そなたの残り香を全て消してやらなくてはのう! 例えば―」その看板―案内標識を読み上げる。
「ネオカブキチョ」「ダメ!」ウスイが悲鳴を上げた。

「ヤメテ!」「やめぬ!」「ヤメテ!」「やめぬぞ! クフフフ! クフフフフ!」一つの口から悲鳴と笑いを交互にあげ、少女は雨に消えた。



「―こんな政府は今すぐ政権交代だ……だってサ、ザクロ=サン。記事のお母さんどうなったんだろうね?」「アータ、そんな記事ウチで音読するのやめてちょうだい」絵馴染のカウンターで、仕事上がりのオイランが日刊コレワを広げている。「暇なんだもーん」

 ザクロはオイランが空にしたグラスを取り上げた。「そろそろ店じまいよ」「エー」「エーじゃない!」「だって、雨全然止まないしー」「だからってあんまり居座られても困るの! アタシたちも休みたいんだから」カウンターの内側で、ヤモトが苦笑いした。

 オイランは渋々飲み代を払うと、やや危なっかしい足取りで立ち上がる。「気をつけて」ヤモトが声を掛けると、手を振って退店した。その後ろ姿を見送り、ヤモトは言う。「雨、やまないね」「困っちゃうわねえ」頬に手を当てたザクロも心配顔だ。昨晩から、カブキチョを大雨のカーテンが覆っていた。

 このままの勢いでは、数時間で地下や半地下の店に水がつく。それ以外にも、ザクロには気になることがあった。この雨の匂いだ。ザクロはこの匂いに覚えがある。より正確には、この匂いのニンジャソウルに。思案顔の二人に割り込むように、絵馴染の電話が鳴った。ザクロが受ける。嫌な予感がする。

「モシモシ。あら、キリシマ=サン? ……ええ……ええ。そう……カブキチョね。分かった」電話を置いたザクロは、じっと自分を見上げるヤモトに気づいた。「大丈夫よ。キリシマ=サンから頼まれ事。ちょっと出てくるわね」「アタイも」「アータはお留守番してて。誰が来るかわからないから」

 今の絵馴染は、ある一行の臨時ブリーフィングルームとして機能している。彼らがやってきた時、店にヤモトかザクロがいなければまずいのだ。「あの人が来たら、引き留めてちょうだいよ? ヨロシクね」冗談めかしてウインクし、ザクロは、耐重金属酸性雨仕様のラメコートを羽織って店を出た。

 雨を受けながらビルを跳び渡る。キリシマからの連絡は、彼と繋がりのあるカブキチョのマニアック衣装専門店から、ザクロに来て欲しいという依頼だった。詳しく聞いたところ、店が何者かに襲われ、その関連でニチョームの顔役と話がしたいということらしい。

 カブキチョの中にも様々な縄張りや複雑な利害関係がある。ニチョームのザクロを呼ぶのはお門違いではと思ったが、場所がニチョームに近い事、襲われた店の名前を聞いて、ザクロは出向くことにしたのだ。嫌な予感は続いている。目的の店を見つけると、ザクロは路地裏に着地し、表通りへ出た。

 ザクロは周囲のニンジャソウル痕跡が今までよりもやや濃くなったのを感知し、険しい表情を見せた。半地下の入り口には土嚢が積まれていた。破壊されたと思しき枠ネオン看板の上から、殴り書かれた「テンクサ 都合によりしばらく休業」の紙が貼られている。階段を下り、中へ入る。

「ドーモ。ニチョームのザクロよ」荒れた店内には、ユウレイクラゲをかぶったような髪型の店主だけがいた。放心気味にカウンター椅子に座っている。店主はザクロを認めると、気丈に笑った。「ドーモ。来てくれて助かる。この雨でニチョームも大変なのに」

「テンクサ=サンほどじゃないわ」ザクロは店内を見渡す。吊されていた衣装やボンボリもバラバラだ。おまけに店中が水浸し、割れた分厚いガラスが散乱している。「ここにいた何割かが救急車。死人が出なかったのが不思議なぐらい」「それは何よりよ。ホントよ? で―ここらはどこが元締め?」

 店主は、この界隈で幅をきかせるヤクザクランの名をあげた。「でも、ウチはミカジメを払ってない。だから連中は来ない。面倒な話にはならないよ」それに、と、店主はザクロから視線をそらし、タバコをくわえた。「それに、あの子が、ニチョームに行くって言ってたから」ザクロの目が細くなる。呼ばれた理由が分かった。

「しんどいでしょうけど、何があったか教えて」店主は、震える指でタバコに火を点けた。「笠をかぶった女の子が、突然入ってきてさ」

その少女は、店の中央にあった巨大金魚鉢を破壊し、溢れた水で店内をめちゃくちゃにしてしまった。

 壁を跳び渡り、マニアック衣装が吊されたハンガーを壁から引き抜き、なぎ倒し、客に向かって投げつけ、笑いながら雨雲が去るように消えたという。「信じて貰えないかもしれないけど、人間離れしてて―まるで」何かを口にしかけ、店主は恐ろしげに首を振った。「大丈夫。信じるわ」

 ザクロが優しく肩を叩くと、店主は意を決して口を開く。「まるで、ニンジャ……」再び恐怖に襲われたのか、店主は軽くえづいた。ザクロは店主の背中をさする。店主は片手を上げて詫びた。「そいつ、名乗った?」店主は頷く。「スコールブリンガー」

 店主は自分を落ち着かせるようにタバコの煙を吸った。「つらいのに、悪かったわね。話してくれて有難う」「まだ、ある」店主が顔を上げてザクロを見る。「顔を見た」「その、スコールブリンガーの」店主は頷いた。ザクロは店主を見つめ、続きを促す。

「ウスイ・ヤマモモ=サン。そっちも知ってるよね」ザクロは息をつき、目を閉じた。店主はタバコの火を作業用サイバネ指でもみ消す。「あの子のこと、気に入ってたんだけど。優しい子だったし」ニンジャリアリティショックもあるのだろうが、相手が顔見知りだったことも、こたえた様子だった。

「そうね。悪い子じゃなかったわね。でも、それがマズかった」店主が顔を上げる。ザクロは、なんでもないわ、と手を振った。「あの子」「大丈夫よ。なんとかする」

そう言って笑うザクロの顔から、店主は何かしらの覚悟めいたアトモスフィアを読み取った。「分かった。気をつけて」「アリガト。早くお店再開できるといいわね」

 ザクロはテンクサを出ると、携帯IRCで知り合いのジャーナリストに一通のメッセージを送信した。確認したいことがあった。返事はすぐに来た。ザクロは短く謝意を飛ばし、雨にけぶる通りの彼方を見た。

R

「ンアーッ!」スコールブリンガーは吹き飛ばされ、雨の路地を転がった。「フン……ニンジャ可能性と聞いて来てみれば」

行き止まりに衝突しアスファルトをバウンドする彼女へぎらついた目を向けるニンジャ。アマクダリ・フランチャイズのグレイリングリーである。

「まだガキだったとはなぁ! ヘヘヘ……オシオキのしがいがあるぜ」橙色のニンジャ装束をまとったグレイリングリーは、スリケンのカトンを燃え上がらせた。彼はこの辺りを縄張りとするヤクザクランの用心棒。テンクサの騒ぎを聞きつけたヤクザから用心のため派遣されたのだ。

「お前のような奴がシマを荒らすのは困る。秩序が乱れるんだ。分かるかァ?」分からない。スコールブリンガーはよろよろと立ち上がる。その起き上がりにすかさずカトン・スリケンが飛ぶ!「イヤーッ!」「ンアーッ!」スコールブリンガーは吹き飛ばされ、今度うつ伏せに倒れる。

 這いつくばって咳き込むスコールブリンガーから、車を飛び出した時の高揚感は消えていた。今のスコールブリンガーはいたぶられるカラテ弱者、母が振るう優しい圧力に屈するウスイと変わらぬ。((ふざけるな……妾は、ニンジャぞ!))

 スコールブリンガーは、あらゆる力に屈しないと決めたのだ。母を殺し、ウスイの大切にしていたものを片っ端から破壊して、ウスイからも自由になると。スコールブリンガーはよろよろと立ち上がった。どうすれば良いかはソウルが知っていた。

 痛む両手を空へ差し上げた。雨空を睨む。掌を下に向け、勢いよく下へ振り下ろす。「イヤーッ!」振り下ろされた手の動きに合わせ、周囲の雨脚が強くなった。まるでアマゾンに降るスコールめいて。

「ハァーッ! ハァーッ!」肩で息をしながら、スコールブリンガーは集中した。ニューロンに何らかの負荷がかかり、よろめく。その頭部を覆うように椀をひっくり返したような笠が生成され、垂れた薄布が顔を隠した。「ハハハハ! なんの儀式だ」グレイリングリーが嘲笑しながら路地を歩み来る。

「もう何発か食らわせてからゆっくりオシオキだ! カトン・ジツ!」グレイリングリーはカトン・スリケンを生成―できない!「何だと!」グレイリングリーの炎が、スコールブリンガーの呼んだ雨に打たれ、瞬時に蒸発して消えてしまったのだ。

「イヤーッ! イヤーッ!」グレイリングリーは再度カトンを試みるが、ついに種火すら生み出せなくなった。そして気づく。雨にさらされた彼の手甲が、蝋細工じみて溶け始めた。スコールブリンガーは何かを確信したように頷いた。「これが妾の力だ……妾の!」「イ、イヤーッ!」

 グレイリングリーはカトンなしのスリケンを投擲する。しかしそれも、スコールブリンガーに届く前に溶解消滅! 驚愕に目を開くグレイリングリー。その橙色装束がみるみるうちに溶け出し、露わとなった体にも容赦なく雨が降り注ぐ。

 肉を溶かし、骨をさらし、神経に染みる酸の雨。「グワーッ! グワーッ!」ネオサイタマをしとどに濡らす重金属酸性雨より強力なそれを浴び、グレイリングリーはのたうち回る。喉に入った雨で声を潰され、やがて悲鳴も上がらなくなった。

 彼が転がる路上に出来た水たまりも、スコールブリンガーの降らせた雨によるもの。嫌な匂いの煙を噴き上げながら、グレイリングリーは塩まみれのナメクジじみて見る間に体積を減らしていく。カトンの炎が超自然の炎ならば、この雨も超自然の雨だ。

 その昔、江戸戦争において、降雨を自在に操る恐るべきアマゴイ・ジツをもって敵も味方も押し流し溶かし尽くした邪悪なニンジャがいた。武田信玄すら恐れたそのニンジャの名は、ヒサメ・ニンジャ。スコールブリンガーに憑依したのは彼女であった。

 ウスイ・ヤマモモの重金属酸性雨アレルギーが治まったように見えたのも、ニンジャソウルが関係している。ヒサメ・ニンジャは己を中心にタタミ1枚ぶんに当たる雨だけは、毒性を持たぬ物に変ずることができた。さもなくば、数多の戦場でヒサメ・ニンジャは生き残れなかったであろう。その応用だ。

「申してみろ。妾に、何をするだと?」グレイリングリーにでたらめなストンピングを見舞う。「ア……アバ……」

「妾のジツは古今無双ぞ。それをカトンごときで! どうにかなる代物とでも思うたか!」苛立ちを右足に乗せ、スコールブリンガーは溶けかかったグレイリングリーの頭を踏み抜いた。

 飛び散った残骸が足を汚し、彼女は我に返った。笠の薄布が消え、雨脚が弱まる。「ハァーッ! ハァーッ!」ただの殺しは、甘美なものではなかった。獲物を痛めつける快楽に比べて、無感動で、消耗するものだった。ニューロンの奥で泣きじゃくる声を、彼女は無視した。新たな得物の気配だ。

 果たして、路地の入り口。大柄な男のシルエットが雨のネオンに浮かび上がった。彼女は男を知っている。眼を細めて、その人影を見つめる。丁度いい。ウスイの残り香を自分から消すには、あいつを殺さなくてはならない。

R

ザクロはニンジャソウル痕跡と戦闘の気配をたぐり、その路地へ辿り着いた。そして、少女がニンジャの頭を踏み抜く様を見た。所々が焼け焦げた、お嬢様然とした青いAラインワンピース。頭には市女笠。ひどくいびつだった。

 少女がこちらに気づく。顔を上げる。笠の下には、泣きそうな目を見開き、痙攣したような笑みが張り付いていた。「ちょうどいい。そなたに用があったところ」少女はザクロをみとめ、狂気の境界線で揺れる顔で笑い声をあげた。その笠から超自然の薄布が垂れて、少女の目元を隠した。

「ドーモ。ネザークイーンです」ザクロはアイサツした。「クフフフ……ドーモ、ネザークイーン=サン。スコールブリンガーです。そなたは妾を殺しに参ったのかえ?」スコールブリンガーの唇が楽しげに歪む。ザクロは険しい表情でカラテを構え、言った。「……助けに来たのよ」




 ウスイ・ヤマモモが見る曇ったヘルメット越しの景色は、フィルターがかかった映画のワンシーンめいていた。ジョルリじみて吊された中、雨が叩き付けてぼやけた視界には、ここで会うはずのない人が立っている。その大柄なボンズヘアーの男は、コートの下にニンジャ装束を纏い、メンポ姿で現れた。

 そして、スコールブリンガーのアイサツに、ネザークイーンと名乗った。彼はニンジャだったのだ。グレイリングリーの残骸を一瞥した彼は、決然とした足取りでこちらへ歩んでくる。「助けに来たと? 片腹痛い!」スコールブリンガーが再びアマゴイ・ジツを行使する。「イヤーッ!」再び、凶悪な雨が辺りを蹂躙する。

先程見舞った雨の所為で、周囲のビル壁はドロドロに溶け、足元のコンクリートもまだらに穴が穿たれている。それらが更に削られる中でもネザークイーンは怯まぬ。ヒールで水溜まりを蹴散らし、一歩ずつ。スコールブリンガーは再びフィードバックを受け、よろけた。

「ネザークイーン=サン! そなたもそこのクズ肉と同じさだめを辿るがいい!」スコールブリンガーは哄笑する。ネザークイーンのかぶっていたコートのフードが見る間に溶け、露わになった頭を酸の雨が侵す。ボンズヘアーが溶け出し、煙を上げている。けれど、彼は止まらなかった。

 溶けかかったコートを脱ぎ、再びスカーフじみて頭に巻く。それもすぐ雨に消える。ニンジャ装束もショウジ紙じみてどろりと溶け始める。しかしネザークイーンは歩みを止めぬ。まるでそれしか知らぬように。しかし、更に数フィート歩んだところでついに、足が止まった。

「ヌゥーッ!」しかし、見よ、ネザークイーンのその光る体を。スコールブリンガーのジツをそのムテキで受け止めている。むろん、そのムテキは本来こうしたジツを吸収するには不向きだ。その証拠に、未だ彼の体からは防ぎきれぬ酸の雨により不穏な煙が上がっている。

「悪あがきを! イヤーッ!」スコールブリンガーが雨脚を強める。「ヌゥーッ!」膝を突くと地面の雨で膝から嫌な匂いと共に皮膚が灼ける。しかしその雨さえ吸収し、ネザークイーンは人ひとりが覆えるほどのエネルギースリケンを、生成した。「イヤーッ!」スリケンは彼の手を離れる。

 速度は殺傷するにはややゆるやかだ。その直線軌道に合わせ、ネザークイーンは疾走! ゴウランガ! エネルギースリケンを瞬間的な傘とした!「なにゆえ……なにゆえ貴様は死なぬ! ブザマを見せぬ!」母たちや、テンクサの者達や、グレイリングリーと、このニンジャは一体何が違うというのか。

 スコールブリンガーには分からずとも、ウスイには分かっていた。ザクロ=サンだからだ。ザクロ=サンは、こんな時きっと、逃げない。ぼんやりしたヘルメット越しの視界に、ザクロの拳が大写しになった。

「ウスイ! この、バカ!」ネザークイーンの鉄拳!

「ンアーッ!」スコールブリンガーはコマめいて回転しながらコンクリートに叩き付けられた!「アータの我慢はね、自己犠牲じゃなくてただの臆病だわよ! ちゃんとテメエと戦え!」

 殴り飛ばされ、脳天が揺れる。ウスイの無力感に沈み込んでいた意識が、首をもたげた。ザクロが倒れたスコールブリンガーをの襟首を掴み上げ、笠の薄布を払いのける。

「良く聞きな! アータのお母さん生きてるの! 入院中! アータ、殺しちゃいないのよ!」稲妻めいて、それはウスイを打った。

「聞いてるんだろ! ウスイ!」「離せ! 妾はもうウスイではない!」スコールブリンガーがザクロを振り払い、壁を蹴ってザクロの後背へ回る。集中を切らしたため、酸の雨は止まってしまった。しかし、再びジツを使えば勝てる。「あの臆病者は妾の奥底でブザマに寝ておるわ!」否である。

 ローカルコトダマ空間の中で、ウスイは潜水服ごと己を縛る頑丈な糸を引きちぎらんともがき始めた。黙って見ていたら、スコールブリンガーはきっと母を殺す。そして今、ザクロさえも手にかけようとしている。なんとかしなきゃ。でも、どうやって?

 ウスイは潜水服のヘルメットに映った風景を見た。逆上するスコールブリンガー。そのジツにより体を溶かし、それでも自分を殴ったザクロ。ざあざあと聴覚にこだまする雨音に、ウスイは決断した。

 今のスコールブリンガーは、抑圧していたウスイの鬼火じみた心が、ニンジャソウルと手を繋いだものだ。その彼女が母やカブキチョを傷つけた。全部自分のやったことと同じだ。スコールブリンガーはウスイなのだから。ならば、やれるはず。ウスイは集中する。

 雨水のように、スコールブリンガーのニューロンへ浸透していくイメージ。体を取り返すのでも、彼女を押し込めるのでもない。彼女を自分と合一させるのだ。もう逃げない。ウスイの視界がクリアになった。自分の視界を取り戻した。

 体の感覚が戻ってくるが、抗うニンジャのざわめきが内にある。ニンジャソウルはウスイに制御しきれぬ力のかたまりだ。いずれ体は取り返されてしまうだろう。

「ザクロ=サン。全部、ちゃんと届きました」ザクロが振り返る。「ウスイ=サンね」頷く。ウスイは笠を剥ぎ取り、天を仰ぐ。鈍色の空。ウスイはあの雨の夜を懐かしんだ。

あの夜は、全てが輝いていた。潜水服を抱え、ヘルメットをかぶったままで、オオヌギから自宅の側まで飛び渡ったときの景色。ネオンの明かり。空から見下ろす紫陽花めいた傘の花々。美しかった。けれどまやかしだ。

 夢から覚める時間だ。ウスイは何かを受け取るような仕草で片手を雨空へ差し伸べ、呼んだ。この場で自分だけを傷つける、この街の雨を。『ウスイーッ!』スコールブリンガーが吼える。『貴様ァーッ!』「これでいいんだよ」意識が引きずり下ろされる。少しの抵抗は虚しく、体は奪われた。

 諾々と生きていたウスイが初めて翻した反旗は、数秒のあいだ、体をスコールブリンガーから取り返すので精一杯だった。しかし、それで充分だった。後は、己の呼んだ雨が全てを流すだろう。自分の弱さも、罪も、命諸共に。インガオホー。

「ウスイ、アータ何したの」ザクロが少々のカラテ警戒と共に、こちらを案じている。しかし、恐慌状態に陥ったスコールブリンガーは彼の声が届かぬ。「アアアアアーッ!」憤怒の形相でスコールブリンガーが放つ闇雲なパンチをいなす体からは、先程と違い煙は上がっていない。ウスイは安堵した。

 スコールブリンガーが取り乱す理由が、その身にあらわれはじめた。まぶたが熱く、体じゅうが痒い。腕が赤くなり、呼吸が苦しい。はらわたの内側から刺すような痛み。こらえきれぬ掻痒感。まぶたの熱は顔全体に広がる。

「ウスイ! 貴様! よくも!」彼女はもう一人の己に怨嗟の叫びを上げた。

 ウスイが体を奪い返した数秒、彼女に降り注ぐ雨は、ネオサイタマの雨だった。この街にやって来た日に、無慈悲にウスイを打ち据えた雨だ。重金属酸性雨とその毒性、および即時型重篤アレルギー症状。ニンジャ治癒力を持ってしても追いつかぬ速度で、己の体が壊れていく。

 スコールブリンガーは、どうすることもできぬ。呆然とした表情で、水たまりの中膝をつき、前のめりに倒れた。

((ごめんね。私の代わりに怒ってくれてたのに。もっとちゃんと、外に出せば変わったかもしれないのに))もう一人の自分は応えなかった。((色々遅いよね。ごめんね))ウスイは消える片割れに声を掛け、死に行く体を引き受けた。

R

「ザクロ=サン」細く枯れた声がザクロのニンジャ聴覚に届いた。目の前で急に体をかきむしり倒れた少女が何をしたか、おぼろげながらザクロにも理解できた。ウスイの傍らに膝をつき、下から覗き込むように声を掛ける。「いるわよ」

 ウスイが、声を頼りにザクロのフェティッシュ装束を掴む。「わたし、怪我させて……」「こんなもの、舐めときゃ治るわ」譫言めいて、ウスイは呟く。「でも、また助けてくれたのに」「アタシは、なんにもしてないわ。戦ったのはアータ」がくがくと震えるウスイの体を横たえる。

 仰向けになったウスイの頭を、ザクロは己の膝に乗せた。「お、お母さん、生きてて良かった」「ほんとに……アータは」赤く腫れたまぶたの下から、ウスイがザクロを見ている。そっと額を撫でる。「今までずっと、実際よく頑張ったわよ、アータ」ウスイは笑ったようだった。

「ザクロ=サン」「うん」「全部、ごめんなさい。ザクロ=サンが、来てくれて―」ウスイの口がかすかに何かを伝えた。ザクロはゆっくり頷く。そして、最後にウスイの唇は、別離の形に動いた。

スコールブリンガーは爆発四散した。

 爆発に煽られた水滴や水蒸気が晴れた後、そこには爆風をムテキ・アティテュードで受けたネザークイーンが膝をついているだけだった。「おバカさんね……ごめんじゃないでしょ。ありがとうでしょ」

 ザクロは難儀そうに立ち上がる。「アーア、ボロボロ。ヤモトにまた心配かけちゃう」体のあちこちにケロイドめいた痕が残っている酷いものだったが、ウスイに言った言葉に嘘はない。ザクロの持つニンジャ治癒力で回復できる範囲だ。時間は掛かるが。「ただ、あの人には、ちょっと会わせる顔がないわねえ」

 路地の焼け焦げた痕を見る。何も残らなかったし、ザクロは結局の所何もしなかった。あらゆるものに翻弄された少女が、ひとりで全てさらっていった。来てくれて嬉しかった、そう言われただけ、ウスイにとっては何かになったのだろうか。

 せめて、彼女が気に病まないよう、やせ我慢ぐらいはしてやろう。「イーグルは空腹でもコメを食わないって、マサシも―マサシだっけ? まあ、いいか。どっちでも」

「ウスイ=サン、オタッシャデ」ザクロはボロボロのコートを脱ぎ捨て、路地を後にした。雨は、あがっていた。

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