
Spikemuth Are Alright #1
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1
成長した妹は、自分のメンバーを前に、粗削りながらもしっかりと実力を見せた。通したのは兄の贔屓目ではない。強いチャレンジャーには次のジムへ進む権利がある。それだけだ。
ただし、ジムリーダーとして妹を見ると、チャンピオン打倒には、まだ足りない。この後どこまで実力を伸ばせるか。兄としては、ただ悔いなく旅を終えてほしいと願うばかりだ。
そんな妹の挑戦と伸びしろを喜ばしく思う兄の顔を一瞬で切り替え、ネズは、哀愁のネズの顔になる。陰気な幽霊のようで、眼光だけが鋭い痩せた男に。
ネズは、スパイクタウンのジムトレーナーを、一人残らずコートに集めた。
「みんなを不安にさせて、本当に不甲斐ないジムリーダーでした。すみません。でもね」
伏せた目を上げたネズは、突き刺すような瞳を、彼を避けるように固まった一団に向ける。
「なんて真似をしてくれやがったんです」
地獄から吹き上がるような怒りが、ネズを覆っていた。その理由は、集められたトレーナー達も理解している。
「ジムトレーナーがチャレンジャーを妨害するなんて、前代未聞ですよ」
妹が絞り上げたのは聞こえていたが、あの話しぶりだと、マリィも事の重大さは分かっていない。妹は子どもだから仕方ないが、大人がそれでは困る。
マリィの過激なファンがやらかしただけなら、まだ良かった。このままエール団の事を隠匿はできない。それはジムリーダーとしての責任感もあるが、こんな不発弾を後任に残すのはバカのやる事だ。
「上に申告します。エール団に関与していたトレーナーは、おれにボール預けて事務所に戻れ」
ネズはコンテナボックスを足元に置き、エール団のトレーナー達を睨む。エール団のトレーナー達は、互いを伺うように顔を見合わせていたが、ネズの眼光に負け、最後にはボールホルダーをネズに託した。
「残ってくれたみんな。悪いけど、このままジムチャレンジャーを相手してもらいます。いけますね?」
この不祥事で妹の前途が台無しになったら。想像するだけで、嘔吐感で喉が詰まった。それを押し込んで、強いてふてぶてしい笑みを見せる。
「さあ、スタンバイお願いします。もし負けても、おれが仕留めてやるから安心しなよ」
手を叩きトレーナーを送り出すと、壁際のPA卓へ大股で歩く。自身のスマートフォンを掴み、事務所のスタッフに連絡を入れた。
「インシデントです。各地でチャレンジャーに妨害行為を働いてたの、ウチのトレーナーでした」
電話の向こうで、ネズも良く知る広報スタッフの悲鳴が聞こえる。
『ウソでしょ! な……え、え? 何考えてんですか!』
「今からそいつらが事務所行きますから、おれの代わりにヒアリングを。現場はジムチャレンジ続けますので、何かあればスマホにメッセージください」
『ちょっ、ちょっと待ってください! オレじゃイエスって言えん話やけん、ボスに繋ぎます』
「ああ……そうですね。おれも慌ててました」
広報スタッフが、会長職に就く女性を呼ぶ。保留にもしていないので、電話の向こうが水を打ったような静けさであると、ネズにも伝わっている。
「代わりました。サビナです。今広報の子から聞きましたけれど、もう少し詳細は分かりますか?」
普段より上ずった女性の声。スパイク出身のサビナというスタッフだ。地元を飛び出したバックパッカーだったが、数年前に戻ってきた。ネズより少し年上で、ネズのジム運営方針を汲みながら、実際の経営を担っている。
「おれも、さっき分かったばかりで。関与していたトレーナーが、どの程度の妨害行為を働いたか把握していません。そちらで聞き取りを」
「分かりました。この通話が終わり次第、第一報を委員会に上げて、指示を待ちます。聞き取り後に連携しましょう。現場も混乱していると思いますが……」
ネズは、強く瞼を閉じてから、息を吐いた。
「大丈夫です。どうにかします。おれたちのジムトレーナーは、やる時にはやれる連中です。大丈夫」
自慢の、と胸を張れなくなった原因を自分が作った事が、ただ悔しかった。
◆
ネズがジム運営において、他のジムリーダーに比べて大きな決定権を持っているのには理由がある。単純な話で、スパイクジムの資金源がネズなのだ。
運営委員からの資金援助は前年度の戦績で額が決まるが、リーグ上位につけているスパイクに降りてくるそれは、他のジムより一桁少ない。ダイマックス対応スタジアムに支給される、通称ダイマックス手当が適用されないためだ。当然、スタジアムに関わる雑費を『ダイマックス試合による』で通せる他のジムとも、財務の回し方が異なってくる。
とはいえ、アーケード全体をジムチャレンジの舞台とする以上、町の老朽化、災害対策の拡充なども必要になってくる。他にも、スタッフの給与、保護したポケモンのケアにかける費用、消耗品の購入……とかくジムを動かすには先立つものが必要だ。
そこで、ネズはシンガーとして稼いだ実入りのほとんどを、ジムと、スポンサーであるスパイク商工会に寄付する事にした。そうやってカネを出すのだから口も出す、という理屈を通している。
スパイクタウン移転計画をネズの一存で止められたのも、運営に食い込んでいたからできた荒業だ。
だから、エール団の件についても、何も知らないジムリーダーとして振る舞う事は許されない。責任はこの職に就いてからずっと抱えていた。
エール団の件が発覚した翌朝。バトルコートに向かう前、ユニフォーム姿のネズは、少し早めにジムのオフィスに顔を出す。昨夜は簡単に今後の方針を定めたところで、ネズはもう休めと追い出された。
古い新聞社を居抜きで使っている事務所には明かりがついている。中を覗くと、サビナだけがデスクでラップトップを睨みつけていた。
「おはようございます」
キーボードを叩くサビナに声をかける。
「どうも。全事業部に通達ありました。ファイナル終わるまで、絶対に選手にも外部にも漏らすなと。関与したトレーナー達は自宅待機です。明後日、委員会から調査委員が派遣されてきます」
声をかけられた方は、ネズを見るなり主語もなくスラスラ話しだした。主語について把握しているネズは、頷いてから問う。
「実態の把握は、どうなってますか?」
「ウチのトレーナー以外にも、郷土愛の強い若い子が自然と参加してて、統制が取れてなさそうですね」
サビナはそう言って、業務用タブレットをタップしてネズに渡す。
受け取って確認すると、昨日の聞き取り内容がまとめられている。ネズはサビナの、昨日と同じ服と、椅子にかかる備品のブランケットを見た。
「ここで寝ました?」
サビナは答えず、エナジードリンクの缶を開けて口をつける。
彼女らが聞き取った話では、誰がリーダーシップを取ったわけでもなく、スパイクタウンのためにできることをしたい、という若者が集まったらしい。
「で、みんなして見当違いの方向へ頑張ったんやって! ネズさんの首とマリィちゃんの将来の話ししたら、やっと分かってもろうたけど」
サビナが地元の言葉を出すときは、皮肉か冗談、そうでなければ腹を立てている。溜息とともに、ネズは手近な椅子を引っ張ってサビナの脇に座る。タブレットを見ながら尋ねた。
「それで、首はおれ一つで済みそうですか?」
「何とも言えないです。でも、あなたの監督責任を強く問うことは妥当です。事態の把握が遅れたってことは、トレーナーも管理できん、ジムリーダー失格野郎という事になりますけん」
彼女のこうした物言いにも慣れたものだ。ネズはタブレットから目も上げない。
「じゃあ、昨日の打ち合わせ通りで行けそうですね」
一部関係者しか知らないことだが、ネズが今シーズンでジムリーダーを退くことは決まっている。
それを円満退職ではなく、引責辞任、あるいは免職という形で手打ちに持っていくのがネズの思惑だ。そのぐらいの傷を引き受けないと、妹に申し訳が立たない。
「そう。その件でサビナに見てほしいのでした」
ネズがタブレットから顔を上げた。仕事用に持つスマートフォンから文書ファイルを呼び出し、オフィスのプリンタに繋いで印刷する。
「おれの引退に関する諸々、いったん、全部凍結させます。家で関係先に送る文章の草案を作ったので、必要なら直して、おれの署名つけて送ってください」
サビナが立ち上がり、印刷された文章を手に取って流し読みする。
「私たち、休めって言いましたよね?」
サビナは、エナジードリンクを飲み干し、缶を握り潰した。ネズは曖昧に笑って誤魔化す。
休めるわけがない。今回の件で、自分の責任で済めば上々、ジムの責任になって、ジム自体の廃止が最悪だ。最悪を回避するために、打てる手は全て打たないと落ち着かない。
「まあいいです。ネズさん、今日の予定ですけど」
何人かのスタッフで分担して関係トレーナーの自宅に赴き、個別に事情を聞くという。調査委員会を納得させるシナリオは、ジムチャレンジ中の業務を縫って、あと二日で仕上げなくてはならない。
ネズは聞き取りの内容を読み終え、額をおさえた。思っていたより酷い。
「……今日面談のトレーナー達に、これを。非公式のものとして渡してください」
持ってきたアパレルのショッパーをサビナに渡す。中に入っているのは、ジムの業務用封筒だ。
「これ、何ですか?」
「手紙です。みんながジムに残れるよう、俺も約束するっていう内容で。おれも、あいつらの事考えずにキレちまったので、詫びも兼ねてます」
「この、エール団宛てになっているものは?」
「これ以上他のチャレンジャーを妨害せず、節度を守ってくれれば、マリィの兄としてもジムリーダーとしても、活動を認めるっていう私信です。必要なら使ってください」
昨夜、ありあわせの五線紙に書きつけたものだが、自分がエール団に関わったトレーナー達の信頼を取り戻せるかどうかは、とにかく素早く、行動で示していくほかない。さっきから非公式のものだと繰り返しているのは、これを公的な声明として渡すと不都合だからだ。
「ネズさん寝ました?」
「おかげさまで、事務所で寝る人間よりマシです。あなたも休んでください」
ネズは壁の時計を見る。そろそろ行かなくては。
「じゃあ、おれはジムチャレンジャーとじゃれついてるんで。何かあればすぐ連絡ください」
ネズは立ち上がり、椅子を片付ける。
「あーもう……ネズさん!」
サビナに呼び止められ、振り向く。
「ネズさんだけのせいじゃ、ありませんからね! 外野のバカが何か言ってきても、いつも通り笑ってりゃよかですよ。私たちがそんなバカ、ここには寄せません」
サビナが真顔で言うから、ネズは苦笑いでたしなめる。
「大人がそんな言葉遣い、するもんじゃねえですよ」
ネズはだるそうに手を振って、事務所を後にした。やることは、多ければ多いほど良い。集中するべきことは、他の些末な事を忘れさせてくれる。
2
「ダイマックスできたら勝ててたのにね」
今日最後のチャレンジャーが、去り際マホイップへかける声は、ネズに聞こえていた。
「……そう思っているなら甘いんですよ」
ネズは聞こえていないだろう少年に呟いた。少年の言い方が、大雨で外出の予定がなくなったような響きだったからだ。ままならないものを、ままならないと受け入れてしまっては、ネズに勝つことはできない。
キルクスまであって当たり前だったものを突然取り上げられ、このジムでつまずくチャレンジャーは多い。チャンピオンを見据えて訪れるチャレンジャー達も、ネズを破るには少々苦労する。あの少年はどうだろう。立ち上がってくれるなら、また歓迎したい。
「みんな、お疲れさまでした。今日はもう終わりです。休みましょう」
手持ちのポケモンたちに声をかける。みんなバトルに向いたメンバーだが、それでも連続した試合には許容範囲がある。できるだけ負担はかけたくないが、一日のバトル量が去年のジムチャレンジより明らかに増えていた。
「今日は結構ハードワークでしたが、音を上げずに頑張りましたね。偉かったよ」
ジムチャレンジ中は、ライブステージも兼ねたバトルコートの物販スペースに、ジム備品の回復装置を数台据えてある。そこで自分たちのポケモンを回復させていると、空いている装置を使おうと、チャレンジャーと戦っていたトレーナー達が声をかけてきた。
「すみません、ネズさん……おれたち、全然勝てなくって」
「アタシも結局、半分ぐらいのチャレンジャー通しちゃったし……悔しいなあ。保護した子と、もっと仲良くしとけば良かった」
ネズは、とんでもないと首を振る。
「おまえたちも、ポケモンも、よくやってます」
実際、よくやってくれている。本来稼働するはずのトレーナーが、エール団の件でチャレンジャー対応業務を外れてしまった。その穴を埋めるため、よちよち歩きのバルチャイのようなトレーナーまで、ヘルプに担ぎ出されている。
そんな新人に、安全なバトル以上のものを求められない。ポケモンたちも無理はさせられないため、ベテランは保護ポケモンと即席のバトルチームを組む事になる。精彩を欠く試合が続いていた。
「この前も言いましたけど、プレッシャーは感じなくていいです。勉強だと思って、おまえたちものびのびやって良いんですよ」
そうは言うが、イレギュラーだらけの業務体制に加え、本部からやってきた調査委員会が試合を見ているとなると、調子が出ないトレーナーがいても不思議はない。
「あの……ネズさん。あのコら、どうなりますか」
「おれたちだって、あいつらにお咎めナシって事は、ないと思うんすけど」
後輩を案じるトレーナーに、ネズは答える。
「地元有志が集まるファン団体で妨害行為に関与した、ってところでしょうか。どういう処遇になるかは、委員会との話し合いを重ねていくしかありません」
仕事用のスマートフォンが震える。『調査委員の皆さん、帰りました。事務所寄らなくて大丈夫です』のメッセージを受信。
「大丈夫ですよ。おれも、あいつらがトレーナー続けられるよう、働きかけますので」
ボールをホルダーに戻し、次のトレーナーに譲ると、ネズはスマートフォンを片手に回復ブースから離れた。メッセージに返信する。『連絡ありがとうございます。今日はこのまま帰宅します』
トレーナー達に、信じて待て、の一言でも言えれば、気が利いていただろうか。
◆
「……帰りました」
誰もいないが、つい声に出してしまう。ブーツを脱ぎながらボールからタチフサグマを出してやると、のんびりとリビングへ向かっていった。楽な履物に替えて、自分もリビングへ。ボールがおさまったままのホルダーを、ネズが横になれる大きさのソファ、丸まった毛布の横に寝かせてやる。
マリィが旅立ってからというもの、一晩、一食の「今日は雑でいいか」が一日、一週間と続き、今ではすっかりこのソファ周辺が根城になっていた。寝起きも食事もここだ。
ジャケットを脱いでボールホルダーの隣に座ろうとしたところを、両腕を交差させたタチフサグマに阻まれた。座るとそのまま横になると思われている。
「分かりましたよ」
素直に相棒の助言に従ってシャワーやメイク落としを済ませ、部屋着に袖を通す。キッチンの冷蔵庫からビーンズ缶ひとつととエールの瓶を二本取り出し、肘でドアを閉めた。
相棒の拍動も聞こえそうな静けさの中、ネズはソファに沈み込む。瓶の蓋を開けて、一口。
「……まずは一山、どうにか」
会長から追って送られたメッセージには、調査委員会の聞き取り内容、その反応に対する感触などが続き、『切り抜けられそうです』と、結んであった。
トレーナーも含めたエール団と、たった二日で話をまとめる事ができたのは、事業部のお手柄だった。エール団の件が発覚した夜、ショックで固まった頭を無理やり動かして書いた手紙も、話し合いで助かったという。
自分を兄貴分のように慕ってくれるトレーナー達を、ネズは弟妹のように思っている。手紙には、その個々人の能力、長所を記し、それを活かせる場を用意できなかった事を詫び、ジムの信用に関わるからと頭ごなしに叱ったことも詫び、まだ自分なんかを信じてくれるなら、任せてほしい、とした。
「どうにか、越えましたね……」
吐き出す声には、疲労しか残っていなかった。
ネズはソファに体を預けたまま、片手に瓶を持った姿勢で固まっている。食事も睡眠も億劫な自分のコンディションの悪さを理解した。
日中は忙しいので放っておいている自分の感情が、夜に紛れてネズにのしかかる。それは自己嫌悪と名乗る日もあれば、不安と名乗る日もあった。
そいつらを追い払うため、過度に仕事を詰め込み、寝付きの悪さをアルコールで誤魔化して、体力切れで寝落ちするまで起きている。良くないループだ。
おまけに胃が荒れて食欲はないが酒は飲めるので、ビーンズ缶をスプーンで口に突っ込み、エールで流すような有様だ。とても妹に見せられない。
その、とても妹に見せられない姿勢のまま、ネズは壁かけテレビをつけた。対戦予定のチャレンジャーが、キルクスでメロンと戦う映像を流す。
ターフタウンでは三桁いたジムチャレンジャーも、手足の指で足りる数になった。そのチャレンジャーが期日内に来れば、ジムリーダーとしての仕事は、ファイナルに向けての調整だけになる。
どこかのタイミングで、本部に顔を出せと言われるだろう。そのことを考えると、また胃が痛んだ。
今映っている少年は、ダンデの弟。ホップと言ったか。メロンに苦戦しながら、バッジをもぎ取っている。ラテラルからパーティー構成に変化をつけているが、本人の表情や采配から、試行錯誤の途上であると見て取れる。ジムリーダー戦でも新しい事に挑戦する気概は買うが、これはスパイクでも構成が変わっていそうだ。
「ん……」
私用のスマートフォンが電話の着信を告げる。ちょうど画面で大写しになっているメロンからだった。ネズは見ていた録画を止めて、テレビも消し、上体を起こした。
「はい。ネズです」
その声に反応し、タチフサグマが顔を上げた。
『ネズくん、寝てた?』
「いえ……そろそろ、とは思いましたが。何かありましたか?」
『何かじゃないよ。ネズくん、ジム大丈夫かい? ウチの若い子が様子おかしかったんで聞いたら、えらい事になったじゃないか』
メロンの気遣いに答えるより早く、ネズは、顔見知りであるキルクスのスタッフを憐れんだ。メロンは、その手が有効だと知っている相手には、厳格な母親の顔で嘘や隠し事を暴く。
知っているなら遠慮も必要ない。ネズは再び姿勢を崩してソファにもたれかかる。
「こっちはビークインつついたような騒ぎですよ。おれも突然のことで……正直かなりキツいですけど、なんとか回してるところです。迷惑かけます」
『先回りして謝るんじゃないよ! それより、マリィちゃんはどうだい。行けそうかい?』
メロンとは、妹の事がきっかけでプライベートでも仲良くなった。妹がキルクスに挑むまで直接面識はなかったはずなのに、ネズの妹だからと、メロンはマリィの事も気にかけてくれる。
「あの子は大丈夫です。そんなに大ごとだとは思っていないので」
息を継ぐようにエールを空にし、瓶をもてあそぶ。
「いい意味で、まだ世間を知らないので……地元の連中がバカやったと思っています」
『あの年頃ならそれで良いさね。ネズくん、これからどうするつもりだい』
「どうもこうも。聞いたんでしょ。ファイナル終わるまで、平常どおりですよ。面の皮なら分厚いですからね」
電話の向こうでメロンがからからと笑う。
『言うようになったね。マリィちゃんが高熱出したって、試合前に真っ青になって家に帰ろうとした男の子がさ』
メロンと距離が縮んだのが、この件だった。あの時の事を思い出し、気恥ずかしさに口の端が吊り上がる。
『で、どうなの。辞める事になりそうかい』
軽い調子で言ってくれるのがありがたい。ネズも世間話のように答えた。
「でしょうね。いい加減妹に譲りたかったので、この機に面倒ごとは平らげるつもりです」
メロンが呆れたと溜息をつく。
『あんたねぇ……チャンピオンカップは?』
「出ますよ。それが実質引退試合ですかね……あの、今の話オフレコで」
『当たり前だよ! それと……』
メロンの声の調子が変わる。
『どうにも我慢ならない事があれば連絡しといで。あたしで良かったら聞くよ』
ネズにとってのメロンは、強く厳しいジムリーダーであると同時に、頼れる先輩のような存在だ。彼女はその豊かな愛情を家族だけでなく、彼女が慈しむべきと感じた相手には、きっぷよく投げてよこす。
「痛み入ります」
『なんの。遅くに悪かったね。じゃ、言う事言ったから切るよ。おやすみ』
「ありがとうございます。おやすみなさい」
切り際に、スマートフォンの向こうで幼子の声。
『お電話だれ?』
『マクワお兄ちゃん?』
『お仕事の友達だよ。あんたたちはもう寝なさい!』
家庭の風景はそこで途切れた。
ネズはスマートフォンをテーブルに滑らせて、天井を仰いだ。今、無性に妹に会いたかった。
マリィのことだ、ネズが不調であると見抜くや、可愛く怒りながら雑事を交代し、温かい飲み物を自分に持たせ、何もするなと寝室に押し込もうとするだろう。何より、ネズが愛情と信じて行う様々を、過剰であれば不要だと突っぱねてくれる。
ストレスが溜まるほど世話焼きになるネズは、妹に叱られるのを、ある種のバローメーターにしていた。
「……ああ」
ネズは呻く。瞳を閉じて、見ないようにしていた、夜に訪れる面倒な客を直視する。今日のそいつは慙愧と名乗り、喉元にネズの過ちを突き付けていた。
妹を見守り、育むように、みんなを守ればよかった。ネズはそう気づいてしまった。
家族のように思ってきた町にも人間にも、本当に家族のように接していたか?
「いいえ」
ネズは己の問いに、首を横に振った。
スパイクタウンのために、良かれと思って一人で様々な物を背負ってやってきた。それが、町やジムから選択肢を奪って、ネズがいなければ動かなくしてしまっていたのだ。
それは、支配だ。ネズが最も嫌うところの。
ネズの手からエールの空き瓶が転げ落ちる。拾うこともせずにいると、床で寝転がっていたタチフサグマが上体を起こし、ネズの膝に頭を預けた。
すっかり大きくなったタチフサグマには不似合いなポーズだが、ジグザグマだった頃からの、心配している、のサインだ。
「すまんね。おれはだめなやつったい」
瓶を拾いあげ、タチフサグマの頭を抱きしめる。
苦楽を共にした相棒は、それを愛情だと信じ切った様子で目を細めた。
(……今日みたいな夜に、マリィがいてくれたら)
けれど、彼にねがいぼしは降らない。
3
シュートシティにそびえるローズタワー、ガラルポケモンリーグ委員会の会議室。
会議用の長机を平行に並べられた、入り口側にネズたちは座っている。距離を置いて対岸に、法務部、規律部の部署長、調査委員会のリーダー、数名の理事、中央にはリーグ委員長。
スパイクジムのチャレンジャー受け入れ期間が終了してから間を置かず、エール団の騒動について、リーグ委員会で臨時の役員会が開かれた。スパイクジムの事業部責任者として、会長職のサビナと、ゼネラルマネージャーとして、ネズが召喚されている。
数年前のスパイク移転は、ネズだけが呼び出され、表面上は和やかな言葉の応酬で終わった。今回はどうなるか。
相当の臨戦態勢で臨んだ役員会は、時間の半分を調査委員の報告書と、スパイクジムが提出した顛末書に齟齬がないかの事実確認に費やされた。
「……以上の内容に誤りはないですか?」
「ありませんね」
ネズは答える。
「法務の見解を申し上げます。エール団そのものとスパイクジムに直接関連がないのであれば、エール団に関して我々が責任を負う必要もないでしょう。現状、我々にも警察にも通報はありません」
頭で髷を結った法務部長の発言に、隣でサビナがゆっくり息を吐くのが聞こえた。
その後幾つか想定通りの質疑が挟まった後、眼鏡に青いスーツの理事がネズに尋ねた。
「調査委員が経緯を伺ったところ、スパイクのトレーナーがエール団に合流したのは純粋に応援のためとのことでしたが、我々はその見解に疑問を持っています。ジムリーダーの方針に対して思うところがあって離脱したのでは?」
この男はスパイクを潰し、自分のホームタウンにジムを引き込みたいという思惑がある。我々と言ったのは、恐らくスパイクを煙たがる人間の総意として受け取ってほしいのだろう。が、この程度の悪意に反応するほどネズは幼くない。
「トレーナーたちは、調査委員に対して正直だったとしか言えないです。存在しない意志を証明しろと言われても、こちらも困ります」
怒りを引き出したがっている相手の言う事に、いちいち乗っていてはきりがない。
「貴方たちの監督責任はありますが、ジムリーダーの辞職やトレーナー活動の停止に比べて、該当トレーナーが奉仕活動と公式試合の出場停止では、私は、少し処分のつり合いが取れないように感じます」
規律部の部長である女性は、大きなイヤリングに触れて険しい表情を見せる。
「ジムリーダーはそこまでする必要がないのでは?」
彼女は、スパイクタウンに同情的だ。だからこそ、かばってくれている。ありがたいが、話の流れがまずい方へ進みそうだ。
「それは」
「ネズ」
ネズの言葉を遮って、ローズの穏やかなバリトンが場を支配した。先ほどから、しきりに机上のスマートフォンを気にしていたが、話はきちんと聞いていたらしい。
「きみはこれまでも再三、スパイクは問題ないとか大丈夫とか言っていたけれど、具体策がないままだったようだね」
子どもの悪戯をたしなめるよう細められるローズの目。机上でゆったり指を組み、ローズは続ける。
「それでは、いずれ『こう』なる事も、予測できたんじゃないのかな? きみだけの処分で収めたいのでしょうけれどね。難しいですよ」
その眼差しを心底嫌悪してきたネズだったが、ひとつも反駁できなかった。ローズの慈愛を装った支配を拒んでおいて、同じことをネズがしていたと、諭すように道を塞がれる。
ネズの視線が下を向きかけたその時、隣で鋭く息を吸う音を聞いた。
「トレーナー管理や運営ビジョンの甘さは、ジムリーダー本人も認めています。我々フロントも、ジムリーダーの打ち出す施策に甘え、過度な裁量と業務を請け負わせていました」
サビナがアドリブで話しだす。
「今回の件はフロントと、会長職である私の責任でもあります。こうした体制は今後改めるよう、委員会側からのご指導も仰ぎます。追って送付した対策プランにも記載しましたよね」
ネズは思わずサビナに視線を向けた。そんな文章を読んだ覚えはない。しかし、この場で指摘するわけにもいかない。
「だいたい、年一で監査に来ていたにも関わらず、スパイクジムの体制を黙認していましたよね。今更掌を返されるんですか?」
「会長、そこまでで」
これ以上はまずい。ネズがサビナを制すると、まだ何か言いたげだったサビナだが、前に置かれた水を飲みほして口を結んだ。
「話が飛びましたが、ジムリーダーとしては、トレーナー達に再起のチャンスを与えてほしいと願っています。トレーナーたちの至らなさを、こちらが引き受けるということで。自分はどう処分されても、納得して受け入れますから」
スポンサー交渉に使う口説き落としの表情まで引っ張り出して、ネズはなんとか話を着地させる。それを聞き終えたローズが机上のスマートフォンを手に取り立ち上がった。
「……すまないが、呼び出しが入ってしまったので、失礼するよ。スパイクについては、また後日でいいかな?」
ローズはそのまま電話に出ながら会議室を立ち去ってしまった。ネズは目を細め、マナー違反を承知で耳をそばだてる。自分の良すぎる聴覚は、こういう時に役に立つ。
……地下、施設、耐性、エネルギー。
ネズの眉が寄る。なんの話だ?
◆
冗談みたいに大きなローズタワーのエレベーターで、ネズは腕を組んだ。
ローズが不在になったため、役員会は流れで解散となった。結局委員長のイエスまたはノーがなければ、話が動かないのだ。
「気味が悪いですね……」
ガラルを自分の庭のように考えている男が、スパイクを剪定する格好の機会に、これだ。こちらが些事になるような事業でもあるのか。
「何がですか?」
「ああ……すみません、こっちの話です」
ネズは左手を自分の右肩に置くと、ストレッチをするように首を傾ける。
「結局、はっきりとした回答を引き出せなかったのが、あいつらに申し訳ないですね」
「……私も言い過ぎました。止めてくれてありがとうございます。心象が悪くならなければ良いんですが」
ジャポのみを齧ったような顔のサビナ。
「時と場合によっては、続きも聞きたかったけどね。それよりも、おれに内緒で報告書ですか」
「そうですよ。事業部のトップで決めました」
エレベーターがロビーに到着する。ネズは肩を落とした。
「おれ、そんなに信用ありませんでしたか」
「信用はしていますが。お話しすると、自分で抱え込まれてしまうでしょ。それが嫌なんです。もっと頼ってください」
耳の痛い話だ。ネズは詫びるように頭を垂れる。
「それは、最近自覚しました。今後は遠慮なく言ってください。長くない今後ですけど」
下に真っ赤なバラが敷かれたガラス張りの床をわざと踏みつけ、ローズタワーを出る。遮るもののない太陽がネズの視界を一瞬白く染めた。睡眠不足にはこたえる日差しだ。
薄青い目を細めるネズに向かって、サビナが小さく手を挙げた。
「それじゃあ、早速あるんですが、よろしいですか」
「はい」
「もう帰って寝てください。大事な話があれば連絡します」
サビナは真剣な顔をして続ける。
「今日シャッター前に来たネズさん、ゾンビかと思いましたけん。ジムには連絡しますから、直帰してください」
どんなに振りほどいても毎夜のしかかってくる悲観と自己嫌悪、加えて妹の不在は、ネズをひどく消耗させていた。昨夜も今日のことで眠れず、空っぽの胃に痛み止めを流し込んで、ようやくソファを這い出たような状態だ。
「分かりました。お言葉に甘えます」
◆
そういうわけで、ネズは家に帰って、着替えもせずソファに倒れ込んでいる。
部屋の中は荒れ放題で、エールの空き瓶と鎮痛剤の空箱がテーブルに散らばっているし、洗濯物は溜っているし、通らない場所には埃が積もっている。気になってはいたが、ロボット掃除機のスイッチを入れるのさえ億劫だった。
ネズがソファで微睡んでいると、仕事用のスマートフォンにサビナから電話が入った。
「ネズです」
寝転がったまま、ネズは電話に出る。
『サビナです。お休み中すみません。話せます?』
「どうぞ」
『どうも。残って探りを入れてみたんですけど、やっぱりチャンピオンカップのファイナルが終わるまでは、ウチの処遇は決定できないみたいです』
「……詳しく教えてください」
サビナの話をスピーカーモードで聞きながら、のそりと起き上がった。ソファを這い出て、冷蔵庫から水のボトルを出す。
『委員長の一声で、処遇は保留って連絡がありました。あの呼び出し、MCエネルギーから連絡だったんですけど、そのままナックルシティに飛んで行ったらしくて。プラントで何かあったのかも』
ナックルに? ネズは水のボトルを開けながら首をかしげる。
『とにかく猶予はできました。ネズさん、来週からシュートに前入りして調整ですよね。それまでオフにしますから、ご自身の体調を回復させてください』
「ありがとうございます。大変な時に、不在になりますけど……」
ひとつ、自分が抱えていたものを返すため言葉を切る。まずはジムの事業部へ。
「ジムをお願いします」
『……私たちずっと、その言葉を待ってました。お任せください!』
託されたサビナの声が頼もしく弾んで、ネズは静かに息を吐いた。
『私たち、ネズさんの試合が大好きなんです。やけん、はよう調子戻して、今年も強いとこ見せてください!』
「急に褒めないでください、恥ずかしい。あの、今年も、パブリックビューイングやるんですよね?」
サビナに例年通り行うと言われたので、エール団に関わったトレーナーも、謹慎を解いて参加させてほしいと頼み、了解してもらう。
通話を終え、ネズはあくびをひとつ。折角だし、もうひと眠りするか。横たわろうとしたネズの体が、呼び鈴の音で止まる。ペリッパー便の配達員だった。受け取った荷は、ヤローの実家からの定期便だ。
以前、交流戦でヤローがスパイクに来た折に、実家で育てた野菜を持参してくれた。それを妹とポケモンたちがすっかり気に入ったので、月に二度の定期宅配を続けている。
一抱えする段ボールを受け取って、L字型になったキッチンの作業スペースに乗せる。すると、匂いを嗅ぎつけたのか、ソファに置きっぱなしのボールたちがカタカタと鳴った。
「しょうがないね。出ておいで」
タチフサグマ、ローのストリンダーが嬉しそうにボールを飛び出し、ネズの隣に駆け寄ってきた。ズルズキン、カラマネロ、スカタンクも後から出てきて、ネズの邪魔にならないところに陣取っている。スカタンクが出てきたのでリビングの空気清浄機が動いた。
「おまえたち、ほんとにヤローの野菜好きですよね」
中を開けると、瑞々しい旬の野菜たちに、いつものおまけのジャムと……
「でけぇウールーですね……」
ヤローのジムで育てているらしい、他よりふた回りは大きなウールーの写真が入っていた。箱の真上で舌をたらすタチフサグマの顔を少しどかしてやりながら、もう片手で写真をひっくり返すと、ヤローの素朴で読みやすい書き文字が並んでいた。
ヤローはたまに、荷物に短いメッセージを同封してくれる。それが今回、写真の裏に書かれていた。
『ネズさんへ
調子はどうですか?
ぼくはもう調整に入ってますけど、そっちはまだ大変ですかね。
去年おんなじこと書いた気もしますが、忙しいからって、自分のこと、ほっといたらいかんですよ。今年はマリィさんもおらんし、いつもより余計、ほったらかしじゃないですか?
うまい食事して、たっぷり寝てください。今年もチャンピオンカップで会いましょうね。
ヤロー
追伸/でっかいウールーでしょう。今季の交流戦の後で見せた子です。えらい育ちました。来季も遊びに来てくださいね』
ネズは眉を下げると、額をおさえて俯いた。通りすがりの優しさほど、今の自分には効果ばつぐんだった。
その様子を見たカラマネロが、ストリンダーを押しのけ、ネズの横に立った。その長い触腕を、ネズが額に当てた手の上からかぶせ、そっと肩を抱いてくる。熱が出たと思われているのだ。
昔体調を崩して高熱を出した時、カラマネロが、ネズの額に触腕を乗せてくれた。朦朧とした頭でその冷たさに礼を言って以来、ネズが発熱すると自分の出番だと思っている。
「カラマネロ。大丈夫、熱はないです」
ひやりとした触腕は離れない。触れた拍子に「覗かれた」のだろう。優しい「悪い子」だ。
「ほら。前が見えないでしょ。おれは大丈夫だよ」
柔らかく叱って、カラマネロの触腕をゆっくり剥がしてやる。
「これを片づけるから……」
段ボールを抱え上げると、十個の目がネズを見た。何を求めているのか、彼らと会話する術を持たないネズにも分かる。
ネズは圧力に屈し、段ボールを置くと、髪を結んだ。固形が喉を通らない暮らしが続いていたが、手持ちからこんな顔をされては、やるしかない。
「分かりましたよ。スープでいいですか?」
そう尋ねれば、メンバーたちはそれぞれのやり方で喜びを表した。少しやんちゃで賑やかに振る舞うポケモン達に、まるでうちに来た頃のようだと、思わず笑みが浮かぶ。
「誰か、一番大きなお鍋出してください」
ズルズキンが一声鳴くと、シンクの引き出しを開け、オレンジ色の鋳物ホーロー鍋を持ち上げた。それをスカタンクが、尻尾に乗せて運んでくれる。
「ありがとね」
鍋を軽く洗ってコンロに乗せ、水のボトルと、チキンブイヨンを冷蔵庫から出す。ボトルをカラマネロへ渡した。
「中身、全部入れてください」
カラマネロが、サイコキネシスでボトルを開けて水を鍋に入れる。ネズはコンロの火を細くし、タチフサグマに火の番を頼む。その間に、箱から出した野菜を洗って、食べやすく切っては鍋に放り込む。皮は面倒なのでそのままだ。
「トマト缶ありますか? 見てきてください」
ポケモンたちがパントリーにバタバタと向かう。スカタンクがストリンダーと幾つか言葉を交わし、ストリンダーに缶を持たせて戻って来た。
「まだ使えますね。タチフサグマ、お願いします」
缶を投げ渡す。器用に爪を使って缶の底が破られ、カットトマトが鍋に落ちていった。その間に、ベーコンと、バゲットの切れ端が入ったフリーザーバッグを冷凍庫から出し、蹴って扉を閉める。ベーコンはブイヨンと一緒に鍋へ。バゲットはカッティングボードの側に置く。
メンバーの全員と食事を作るのも久しぶりだ。たまにキャンプをするとき、ネズのメンバーは味の好みはあまり気にせず、いつも美味しそうに平らげてくれる。ネズは、自分の作ったものを、美味しそうに食べられるのが好きだった。
煮立ったところで蓋をし、スマートフォンでタイマーをセット。タチフサグマに礼を言って火の番を変わると、折り畳みのステップスツールを開いて、腰かけた。自然と集まるメンバーは、ネズを取り囲んで思い思いにリラックスしている。
「おまえたちも、おれの無理に突き合わせちまって、すみません。今年は特に、悪い主人だったよね」
みんなが一斉にネズを見た。もともと不機嫌そうな面構えが、さらに不機嫌になっている。
「……なんね、みんなして」
ポケモンたちの中で、何かの協議が行われる。やがて、スカタンクがストリンダーを小突き、頷いたストリンダーが胸の器官を指で鳴らし始めた。ネズが昔作った曲のベースラインだった。
「また、古いやつを……」
音楽を始めたばかりの頃。楽器が買えず、無料のDTMアプリで作っていた曲だ。自分のポケモンたちに向けて作った。群れが滅んでも縄張りを守り続けたズルズキン、誰かに捨てられたスカンプー、人間から傷つけられ瀕死だったカラマネロ、育児放棄されたエレズン。そして、自分にずっと付き合ってくれるタチフサグマ。
確か、その時の自分はこの曲で、気高い者へ、孤独ではないと歌っていた。その時エレズンだったストリンダーは、機嫌の悪そうな顔で演奏を続ける。
言葉の通じない相棒たちが、音楽をもって伝えようとしていること。
ネズはスツールから立ち上がり、ストリンダーの顎をくすぐるように撫でると抱きしめた。頬を寄せると軽い痺れが走ったが、構わなかった。
「ありがとう。伝わりましたよ」
それから順番に、昔よくやっていたように、抱きしめて、撫でてやる。タチフサグマには断固拒否されてしまったが、彼は一番兄貴分だから、面子があるのだろう。
一通り可愛がってから、ネズは自分の頬を両手で叩いた。大切なやつらが、こんなに寄り添ってくれているのに、何をしていたんだネズよ。
「カラマネロ、ソファのやつ、まとめて洗濯機に入れてください。掃除機も走らせちゃいましょ。タチフサグマはおれと一緒にいてください。他のみんなは、リビングの片づけを頼めますか。瓶は舐めないで。袋に入れて、おれに持ってきてください」
ポケモンたちがネズの指示で仕事に取りかかる。長らくネズの家事を手伝ってきた彼らは、このぐらいは楽々こなせる。
スマートフォンを片手に床に座ったネズは、タチフサグマに視線だけで側に来てほしいと伝える。弟分がいなくなった相棒は、座ったネズの腿に頭を乗せ、腹を出して寝転がった。その硬い毛並みを撫でながら、かかりつけのクリニックに電話する。弛緩しきった表情のタチフサグマをくすぐって、マズルと自分の鼻を擦るように顔を近づけて触れ合っていると、受付に繋がった。慌てて上体を起こす。
予約が取りたいと伝え、ネズはスマートフォンにメモしている診察券の番号を読み上げた。
「急ですみません。明日は空きがありますか? 不眠が少し長引いていて……本当ですか。ありがとうございます。じゃあ、その時間に」
電話が終わったタイミングで、スカタンクがエールの空き瓶が入った袋を引きずって来た。気づいたタチフサグマが、慌てて兄貴然とした顔を作って起き上がる。その姿が愛らしくて、ネズは小さく笑った。そんなところまで、おれに似やがって。
スカタンクに礼を言って袋を受け取ると、シンクで洗って空き瓶を並べる。
そうしているとタイマーが鳴るので、ネズはバゲットを鍋に放り込んだ。鍋から立ち上るトマトの酸味と野菜の甘い香りで、自分がえらく空腹だったことを知る。薄めに塩味をつけてタチフサグマに味見させると、顔をのけぞらせて喜んだ。
「みんな、自分のお皿を出してください。今日はリビングでご飯にしましょ」
このまま彼らと食事をとって、今夜からはきちんと自分のベッドで寝よう。ネズは自分の皿に出来上がった食事をよそった。
4
スタジアムの選手控室からエレベーターで上がってくる妹を、昇降口から少し離れた所で待つ。昇降口のそばにはダンデがおり、その人だかりには混ざりにくかった。人混みはうるさいので嫌いだ。
妹はネズを見つけると、リュックのショルダーを握りしめて駆け寄ってきた。たいあたりをするようにネズに飛びつく。
「アニキ!」
妹がチャレンジャーとしてスパイクに来てからそんなに経っていないはずが、随分と会っていない気がする。
「お疲れ様でした。楽しかったですか? 妹よ」
マリィの表情が、試合後の高揚で輝いている。良いトレーナーの顔になった。
「うん!」
抱きしめてやりたいが、人前でやったら口をきいて貰えなくなるので、代わりにモルペコを撫でてやる。
「本当は一緒にいてやりたいけどね。兄は野暮用があるので、先にホテルへ戻ってください。さっさと片づけて、おまえの部屋に遊びに行くよ。ルームサービス頼んで、そこで沢山話しましょう」
「分かった。待ってるけん、早くね!」
手を振ってスタジアムを後にするマリィを見送り、ネズは特別観覧室へ戻った。さっきまでこの部屋の隅で、都合のついた他のジムリーダーやチャンピオンと妹たちの試合を観戦していた。妹を迎えに行こうと立ち上がった時、キバナから、話があるので戻ってきてほしいと言われたのだ。
「来ましたよ」
「悪いネズ! 時間作って貰っちゃって」
不機嫌を隠さないネズに対し、キバナはいつもの朗らかさを纏ってネズを振り返った。
キバナのことは、実のところ、うっすらと苦手だ。パーソナルスペースが違うので一人分横に離れるとその分詰めてくるし、この人懐こい笑顔で、どんな人間の心も開けると思っている。
「何です? たいして仲良くないジムリーダーつかまえて」
ネズはキバナから二人分離れてベンチに腰掛ける。キバナはそれをきっちり詰めてきて、ネズの真横に、長い足を持て余すように座りなおした。
「ちょっと聞きたい事があってさ。早めに切り上げるから許して」
ウインクして、片手を顔の前に持って来るキバナ。
(見た目で判断するタイプだったら、今のでコロッといくんでしょうね)
キバナは整備が続くバトルコートを見ながら切り出した。
「ウチの地下にあるアレのことなんだけど」
そう言うと、キバナはパーカーのポケットに手を突っ込み、口を尖らせた。
「ネズ。オマエ、何か知らないか? ヤバイ話とか」
「マクロコスモス・エネルギーのプラントですか?」
キバナは頷く。
「最近、ナックル周辺で変な地鳴りあっただろ? ウチは地盤が安定してるし、あんな局所的でおかしな揺れ、前例がないって教授も言ってたんだよな」
キバナはジムリーダーだけでなく、ナックルの大学で、郷土史、気象学、ガラルの芸術史や考古学といった様々を学ぶ一面もある。宝物庫の番人という名誉職を与えられた年の秋には、大学の門を叩いていたというから、行動力に舌を巻いたものだった。
興味にまっすぐなバイタリティと貪欲な好奇心を、ポケモンにも、人付き合いにも発揮できる。広く深く、あの大きな口で食らいつくすのがキバナという男だとネズは思っている。そのキバナが目を向けたのが、自分のホームで起こった異変だった。
「何かあるとしたら『アレ』だと睨んでるんだけど、オレさまの権限じゃ分かんなくてさ。オマエんとこ、委員長対策に情報収集してるんじゃない?」
(なるほど。それでおれですか)
スパイクと委員会……ネズとローズの不仲はガラルじゅうが知っている。ネズならば、公式発表されていないことも把握しているのでは、と期待されているのだろう。
「あの胡散臭いリーフレットでも見てやがれ……と言いたいところですけど、気持ちは分かります。ナックルの事業部は協力してくれないんですか」
「チャンピオンカップに集中しろってさ」
「でしょうね」
残念ながら、どこもこの時期はそう言うだろう。
「メインスポンサーもMC系列だし、スポンサーの圧も無理と」
マクロコスモス・バンクがナックルについたのも、恐らくローズの差金だ。ネズは一呼吸おいて、手持ちのカードを整理する。
ホームを守ろうとする人間は、なるべく助けてやりたい。それが、苦手なジムリーダーであっても。
「詳しくは知りませんので、おれの憶測になりますよ。良いですか」
ネズはそう前置きして、足を組むと、そこに肘を乗せて頬杖をつく。
「エネルギープラントで何かやっていると、おれも思っています。委員長もエネルギー事業に随分とご執心で、大事な役員会を放り出してナックルに飛んで、決議を先延ばし……って話もあります」
伝聞調で伝えると、キバナが口元に大きな手を当てた。キバナはキバナで、何か知っているらしい。
「……前に、ラテラルの壁画をぶっ壊しやがったチャレンジャーがいただろ」
「ポプラのバアさんが弟子にしたっていう、彼ですか」
「そう、そいつ。仮にも文化財に何てことしやがると思って、現場にいた知り合いに詳しく聞いたんだ。そしたら、ローズ委員長のためにって、ねがいぼし集めてたらしいんだよ」
ネズの眉間にも不機嫌な皺ができた。
「引っかかるんだよなあ。ダイマックスバンドが足りないなんて話も聞いたことねえし、だとしてもジムチャレンジャーに集めさせるか?」
「まさか。ねがいぼしは他にも使い道があるし、バンドはあの人の会社で特許取ってるんですよ。外部の素人に集めさせる訳がないよね」
ネズは即座に否定する。
「ってことはよ。委員長が個人的に、何かの用途で」
「ねがいぼしを集めている……」
ねがいぼしに含まれるガラル粒子のエネルギーは、発電もできれば、ポケモンの姿さえ変える。そして、そのエネルギープラントに入れ込む委員長。
ネズとキバナは、嫌な感覚に顔を見合わせた。
「あの、おれのジムに、エネルギー事業部の社員と繋がってる奴がいるので、紹介できますよ」
ネズの声がやや上ずった。キバナもさすがに表情が固まっているが、首を横に振った。
「いや……今のところいい。何かあるかもとは思っとくけど、チャンピオンカップ終わったら、資料揃えてジムに掛け合う。まずは教授から地質調査の結果出してもらって……」
シリアスな表情で考えを整理するキバナは、ネズの視線に気づくと頭の後ろで手を組んで、やや硬い表情で笑う。
「オレさま、ちょっと切り替えてから出るわ。ありがとな。明日はお互い、いい試合しようぜ」
◆
キバナと別れ、ボンヤリとした胸騒ぎを抱いたままのネズは、モノレールの駅へ足を向ける。とにかく早く、妹と過ごしたかった。
「やあネズ! 良いところに来た! 頼みがある!」
なのに、ダンデと鉢合わせた。
(……おれ、今日は運悪いんですかね?)
チョーカーの飾りを引っ張る。嫌な予感しかない。
「引率なら、おまえの相棒に頼んでくださいよ」
「違うんだ。実は……」
ダンデが推薦状を渡したふたりと夕食の約束をしていたらしいのだが、用事ができたので遅れると伝えてほしいのだ、という。二人はロンド・ロゼにいるだろうとのこと。
「ネズも妹さんも、同じホテルだったよな。ついでに伝言を頼めないか?」
「スマホって何のためにあるのか知ってます?」
皮肉をぶつけても、ダンデはびくともしない。それどころか、こちらがイエスと言うまで動かないような目つきをする。
ネズは深い深い譲歩の息を吐いた。
「……まあ、良いですよ」
「そうか! ありがとうだネズ!」
歯を見せて笑うダンデだったが、それはネズが知る普段の様子より精彩を欠いていた。
「何かトラブルでも?」
「ファイナルの日程について、少し……委員長とな。ローズタワーに行ってくる」
「おまえ、それって……」
日程も何も、明日の事だ。今更何を話し合う必要がある?
ネズは詳細を問いただそうとしたが、ローズタワー直通モノレールの到着を知らせる構内アナウンスが、それを遮る。
「じゃあな! 弟をよろしく頼んだぜ!」
翻る悪趣味なマントが、心なしか重たげに見えた。その背中を見送り、腰のボールホルダー、相棒がおさまるダークボールに触れる。
「何かありますね」
低く呟くと、ボールがカタカタと鳴った。
弟に直接連絡せず、わざわざネズを巻き込む意味。弟をよろしくという言葉。胸騒ぎがひどくなる。
「……何かありますね?」
ネズは繰り返す。先程よりも確信を得た声。だとすると、マリィも側に置いておくのが安全か。人手がいるような事になれば、エール団を借りよう。
「何もないのが一番いいんですけどね」
◆
結局、何もない、なんてことはなく、ネズは今、夕暮れに輝くシュートシティの噴水広場で、笑いを噛み殺している。
モノレール乗り場への鍵を持つリーグスタッフを探しているのだが、この状況、考えれば考えるほど滑稽なのだ。ネズからしたら、オリーヴはゲームで足止めする必要はないし、ホップたちも律儀に乗る必要がない。しかし、互いが大真面目なのでこの有様だ。妹までダンデを心配しているのだ。
兄としてはそんな妹たちに水を差すのも野暮であるし、ローズの思惑を引っかき回せるなら痛快であるし、ダンデから弟を頼むと言われている。
なので、ネズは少年少女を引率して、喜劇の舞台を踏むことにした。
「アニキ、あそこ!」
妹が指差した先、噴水広場のそばでポケモンバトルが始まっていた。
「あの子が見つけたみたいやけん、マリィ応援に行ってくるけん!」
「気を付けるんですよ」
ネズは妹を見送る。今リーグスタッフとバトルしているのは、同じトーナメントに出場するトレーナーだ。ディナー前の腹ごなしにちょうど良いだろう。
オリーヴが現れた時は、ホップの身柄を使ってでもダンデを承諾させたい話かと身構えたが、さすがにそこまでの非道は働かないらしい。
オリーヴが滑稽に見えるのも、自分の抱く印象との落差から来るのかもしれない。
(そんなに大事な『お話し合い』なんでしょうかね)
ローズとダンデはネズの知る限り、表面的には上手く行っているように見えた。
(十年やってれば、ダンデもダンデの意思で動くし、不協和音も鳴りますか)
だからと言って、明日の試合をやるやらない、という話になるのも、妙だとは思うが。ナックルの地下で起きている何かと関係しているなら、面倒になるかもしれない。
(何を考えてんですか、あの人は)
「アニキ!」
突然の街角エキシビションマッチに沸く群衆の中から、妹が自分を呼ぶ声が聞こえた。この耳に届くかぎり、どこにいても妹の声だけは分かる。
「どうしました」
ホップの友人が、電話ボックスにいたオリーヴ子飼いのスタッフを見つけたらしい。
駅に逃げ込むスタッフを追い詰めるため妹を先行させ、自分は手近なエール団に、ホップ達への連絡を頼む。
すっかりマリィの私設応援団と化したエール団も、大半は素直で気のいい連中だった。マリィだけではなく、ネズの事もアニキと慕ってくれる。放っておかず、彼らの事も理解するべきだった。ひと匙の後悔を飲み込むと、ネズもエール団と駅に向かう。
駅構内では、モノレール乗り場へ続く階段の前を、数人のリーグスタッフが封鎖していた。誰が目当てのスタッフか、一見して分からない。
ネズはチョーカーの飾りに指を通し、弄びながら構内を見渡す。利用者で混雑している二階に、音楽が好きそうなジグザグマを見つけた。
視線を前に戻すと、拳を握って悔しがるホップと、ボールに手をかけそうなホップの友人、助けを求めるように自分を見るマリィ。三人にとって、状況は思わしくなさそうだ。公共施設で騒動を起こせば、ホップの友人は明日の試合に出場停止もありうる。
「まったく……あのリーグスタッフ、エール団よりタチが悪いね」
近くにいたエール団にニヤリと笑ってみせる。
「しょうがない。教えてやるとしますかね。悪事の働き方ってやつを」
エール団メンバーに何か囁くと、ネズは咳払いする。木を隠すなら森、人を隠すなら人。その由来になった小説ではこう言われている。
「森がない時は、自分で森を作るんですよ」
小さな騒動は、より大きなニュースで覆えば良い。しがないシンガーのステージでも、子どもたちの冒険に彩りを添えることはできるだろう。
ネズは愛用のマイクスタンドを片手に、子どもたちの横へ歩を進めた。
【Spikemuth Are Alright #1 終わり #2へ続く】