
Spikemuth Are Alright #2
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5
ローズタワーへ向かうホップたちをきっちり九〇度のおじぎで送り出したネズは、エール団を「奢ります。ハメ外しすぎないように」とパブに突っ込み、妹を連れてホテルへ戻った。
ホップたちなら無事ダンデに会えるだろうし、そうなれば後はダンデの仕事だ。まあまあ楽しい夕暮れ時を過ごしたが、もう知るか。
ネズはリーグからあてがわれた部屋で私服に着替え、数階離れたマリィの部屋へと向かう。その間、ゲリラライブ中に届いていた、明日のトーナメント表を確認する。初戦の相手は燃える男カブ、そして、カブを破れば次に待つのは、トップジムリーダー、キバナ。
(カブさんも手強いですけど、キバナ……コータスはカブさんへの対策が流用できるとして、すなあらし軸で来られるとつらいですね)
するりとトレーナーの思考が始まる。ここまで調子を戻せたのも、多忙とトラブルによる体調不良を見かねた事業部による強制休暇のおかげだ。
セミファイナルの数日前に降ってわいたオフ。その前半を、ネズはまるでカビゴンのように暮らした。その後は手持ちたちと、トーナメントの構成を検討しながらコミュニケーションを取る。シュートスタジアムに入ってからの非公開調整で自分と彼らのチューニングを本格化させ、トレーナーとしての自分を取り戻した。妹の前で兄として振る舞えるぐらい落ち着いている。
(あの少年と当たるとしたら、決勝ですね。マリィはどっちを応援するんだろうね)
例年なら、このトーナメント表が出た時点でネズは部屋から一歩も出ず、最後の詰めに入る。徹底した対戦相手の分析と、事前プランの練り直し。
けれど、今は二度も邪魔された妹との時間が最優先だ。
エレベーターを降り、妹の部屋をノックする。
「アニキが来ましたよ」
「はーい」
自分を招き入れた妹は、髪をおろし、失くしたと思っていたネズのパーカーを部屋着にしていた。
「それ、おれのですよね」
「着心地がいいけん」
でしょうね、と、ネズは微笑んだ。
「着たい服を着たらいいけどね、おれの物を借りるなら、声をかけてくださいね」
妹は聞いているのかいないのか、はぁいと返事をしてソファに勢いよく座った。そのマリィに、好きな物を注文しろと自分のカードを渡したが、妹は軽食のハンバーガーとフィッシュアンドチップス、モルペコ用にきのみの籠を頼んだだけだった。
そんな慎ましい事をしなくても、と思ったが、妹はスタジアムからホテルに戻る道中で、お菓子を紙袋二つがいっぱいになるほど買い込んでいた。それをローテーブルに広げ、部屋履きを脱ぎ捨てるとソファに立ち上がる。
「今日はね、『悪いことの夜』するけん」
「ああ。なるほど」
悪いことの夜、とは、ネズが時折過ごす自堕落なひとりの夜を、妹と一緒に過ごすこと。
例えば深夜に放送される映画のきわどいジョークに笑ったり、ソファに寝そべってデリバリーのケバブと付け合わせの山盛りポテトや、一抱えあるバニラアイスを容れ物から直接食べたりする。
ホテルのレストランも良い店だが、連れ立って行ってマリィを「ネズの妹」と見られるのが嫌だった。だから部屋にしよう、と伝えたのだが、妹は妹でその方が良かったらしい。
やってきたルームサービスをネズが受け取って、相場より多めのチップを掴ませる。芝居がかった仕草でマリィの前にサーブし、準備は整った。
「改めまして、お疲れ様でした妹よ。事故なく無事に再会できたこと、まずは喜びましょ」
ホテルの冷蔵庫から出した瓶入りサイコソーダで乾杯する二人。
「旅はどうでしたか?」
「楽しかった……!」
沢山の思い出を込めた妹の声だった。ネズに聞かせたい様々が、話す前から溢れているような。
「うん。アニキにも教えてください」
何かあったら連絡しろと口酸っぱく伝えていたが、緊急のSOSも、他愛ない連絡さえなかったのは、妹の決心だったのか、我慢だったのか。
それほど、妹の小さな口はよく食べ、よく喋った。
エンジンシティで三人に激励されたときの高揚。ワイルドエリアの天気に翻弄された日。迷子になったモルペコを探し回った思い出。キルクスでは試合が終わってから、お兄さんに似て強いと褒められて、くすぐったかった。ネズとの試合は試験みたいで緊張したけれど、本気で戦ってくれて嬉しかった。
妹が聞かせてくれる宝物たちに相槌を挟みながら、ネズは内心で驚いていた。こんなにおしゃべりな妹は、ネズも知らない。
「セミファイナルは、あの子と全力でバトルできて、ずっとドキドキしたったい。負けたのは悔しいけど、あんなに楽しいバトル、初めて! ね、モルペコ!」
「うらら!」
妹の膝に抱かれ、おこぼれに預かるモルペコが、元気よく返事をする。
「次は絶対勝つけん!」
あんまり眩しくて、ネズは目を細めた。この子はあの少年と「次」をやるつもりでいる。もしあの少年がダンデから玉座を簒奪するような事があれば、マリィの今後も含めて、面白い世界が待っていそうだ。自分がそうはさせないが。
(この子に推薦状を渡してよかったね)
スパイクにはマリィと同じ年頃の子どもが少ないし、彼女をネズの妹と知っている人間にお嬢、お嬢と可愛がられている。
それではマリィの世界は閉じていく。マリィには、自分の妹という肩書きのない世界を見てほしい。
この願いだけは、誰かが叶えてくれたようだった。勝負事で悔しさと楽しさが口の端にのぼる相手は得難い。
「良いライバルに出会えたじゃないですか、妹よ」
「うん! でもね」
マリィはパーカーの裾に膝をしまうように畳み、ソファで三角座りをする。
「勝てなくて悔しいだけじゃなくて、なんか……胸がモヤモヤしとる」
ネズは首をかしげ、続きを促す。妹は口を山なりに曲げ、しばらく迷った末、こう口にする。
「チャンピオンになるって言ったのに、アニキにもスパイクのみんなにも、良いとこ見せらんかったけん……ガッカリさせたんじゃなか?」
「マリィ」
ネズは妹の肩を抱きよせるが、マリィはパーカーの襟に顔を埋めるように下を向いた。
「聞いて。おれも、みんなも、マリィにがっかりなんか、するもんですか。大丈夫ですよ」
「ほんと? アニキみたいにカッコよくできんかったけど……」
ネズは眉を寄せて微笑むと、小さな肩を撫でる。
「いいですか、妹よ。おれはおれ、マリィはマリィです。アニキ、ずっとそう言ってきましたよね」
ネズは守るもののためなら、どこまでも戦える。試合の勝敗に関わらず、故郷や、誰かのハートに火を灯せれば、それがネズにとっての勝利だ。
妹は違う。クールに見えて負けず嫌いの妹は、自身から湧き上がる闘争心を燃料に、高みへ駆けあがるのが似合う。そんな妹だから、自分なんかより、ジムリーダーに向いているとネズは思っている。
「同じズルズキンの育て方だって、おれたち全然違うでしょ。おまえの友達だって、戦い方も、バトルへのモチベーションも違うはず。比べるもんじゃありません」
「うん……そうやね」
妹の山なりになった唇がほころぶ。笑顔が苦手と言う妹だが、兄の贔屓目にしたって、愛らしく笑う。
「おれは、おまえの試合、好きですよ。攻めっけの強さがマリィらしくて」
ネズはソファから立つと、ローテーブルを少し足でどかし、妹の正面で膝を折った。
「おまえの兄が、今日の試合を見て誇らしい気持ちになった事は、伝えておかなくちゃいけなかったね」
妹を見上げ、片手を取る。
「最後まであきらめず、その時の最善手を選び続けたおまえは、勇敢でした。マリィの戦いに、兄はパワーを貰いましたよ」
マリィはそっぽを向き、口を結んだ。頬が赤い。
「……よかった」
ネズにしか聞こえない声で囁くと、妹は顔をネズに向ける。見た事のない、大人びた表情だった。
「マリィも、アニキみたいに、誰かのエールになる試合ができたんやね」
今度はネズが、口を手で覆い目を逸らす番だった。
「あー! アニキ照れとる」
「あんまりからかわないでください」
マリィの額を指でつつくと、ネズは立ち上がり、テーブルに投げていたスマートフォンを手に取った。照れ隠しだ。
「確かに! アニキとしては誇らしいですけどね。ジムリーダーのネズは、チャレンジャーマリィの試合に、言いたい事があります」
パーカーにしまっていた足を伸ばしたマリィが、受けて立つとソファの上に立ち上がった。
「ここにおまえのジムリーダー戦アーカイブが入ってます。反省会しますか?」
スマートフォンを振るネズ。力強く頷くマリィだったが、数秒のにらみ合いの後、根負けしたように目を逸らした。
「……いっぱい褒めてくれる?」
ネズはこらえきれずに笑った。
「もちろんですよ」
それからふたりで映画を見る夜のように、部屋の照明を落とすと、スマートフォンをテレビに繋げて妹の戦いぶりを見返した。
ローテーブルに乗ったスナック菓子やクッキーを消費しながら、戦略、判断の理由、その時のポケモンたちの状態などをできるだけ言語化させる。それを聞いては褒め、妹の意図どおり戦う場合の修正点を伝える。今度はネズもよく聞き、よく喋った。
これが、思いがけず、ネズにとっても自身の戦い方を見直す機会になった。ネズなら引くラインで更に踏み込んでいく妹の戦い方や、持ち物、わざの選び方。マリィとバトルについて話しながら、自分の頭も整理されていく。
妹の返事にあくびが混ざり始め、ネズは映像を止めた。
「やはりおまえの戦い方は、おれとは違いますね。参考になりました。マリィはきっと、良いトレーナーになれます」
ネズも、明日のトーナメント戦では、あまり臆病にならず戦っていいかもしれない。
「でも、そろそろ良い子も悪い子もおやすみの時間ですね。ひとりでベッドまで行けますか」
「……んー」
目を擦って、マリィは両手を前に突き出した。妹を抱きかかえる。自分の首に腕を回す妹が、半分まどろみながら、ネズの耳もとで言う。
「アニキみたいにはなれんけど、バトルは好きやし、応援してくれたみんなに、応えたかよ」
ベッドに横たえると、自分でシーツに潜り込んだ。モルペコもベッドに飛び乗って、マリィの隣で体を丸める。
「ほんとに、アニキがアタシでいいなら……」
ほどなく聞こえる寝息。ネズは妹の頭を撫でる。
「おまえで良いなんて言わないでください。おまえじゃなきゃダメなんです」
6
ネズはダイマックスが嫌いだ。理由は色々と重なっているが、一番の理由は、ダイマックスありき、というポケモンバトルにガラルを変容させたローズに対する怒りだ。
故郷を軽んじられたあの悔しさを、ネズは覚えている。ローズの理想にタダ乗りする役員たちが、露骨に扱いを変えたことも許せない。メインストリームに乗れないスパイクタウンは、緩やかに窒息すればいいと言いたげな態度。
己の誇りを傷つけられ、ネズは反抗した。
ダイマックスを使わない、ガラルの異端児、哀愁のネズ。勝っても負けても、地味な試合だと言われたこと数知れず。そんな外野のノイズは無視して、これまで戦ってきた。ダイマックスバトルがなくても強さを示せるのだと、それがネズとスパイクの矜持だと。
それもあと数試合だ。ネズの最後の舞台である、チャンピオンカップ。今日は、本気でダンデを狙うつもりでいる。
初戦で対戦したカブも、ネズが普段と違うと感じたようだ。試合後の握手で、「その勢いで燃え上がれ。今日のきみは頂点も狙えるよ」と厳かなエールを送ってくれた。
その灯火を背に、ネズはキバナと相対している。
「ここで会うのは久しぶりだなネズよ! オマエを食い破って、オレはダンデと戦う!」
「そうはいきません。妹にリベンジを託されたんでね。勝ちあがらせてもらいます」
握手しながら、キバナは獰猛に、ネズは挑発的に笑い合った。
◆
「いくぜ、最初はいかくのズルズキン! 小柄だとナメたら痛い目を見ますよ」
ズルズキンはボールを飛び出し、下から相手を睨む。コータスがたじろいだところに、ネズの指示がすかさず飛ぶ。
「ズルズキン! かわらわり!」
「コータス! 挨拶がわりのソーラービームだ!」
このコータスで、次のバクガメスに繋げるつもりだろう。想定していたよりも体力を奪われた。
(いのちのたまですか。面倒ですね)
しかし、コータスには退場してもらう。
「とんだご挨拶ですね、キバナよ! やっちまえズルズキン!」
ズルズキンは、片手に持ったレッドカードをコータスに叩きつけた。
「マジかよ!」
キバナの試合は、天候を軸に美しいタペストリのように織り上げられている。ならば、それを破いてしまうのがネズのやり方だ。
「ボールにお帰りくださいな! さあ、飛び入り希望のポケモンはどいつです?」
引きずり出されたのはヌメルゴン。キバナが目に見えて動揺した。
「くそっ、まだ早い! コータス、もう一度だ!」
「シッポ巻いて逃げるんですか。随分弱腰ですね!」
マイクパフォーマンスはオーディエンスのご期待通り、悪さを幾分トッピングした挑発だ。キバナの舌打ちが聞こえる。
「ズルズキン、もう一度かわらわり!」
ヌメルゴンが引っ込まなければ最高だったが、このままズルズキンで押し切ってしまえそうだ。三発目の攻撃を入れ、流れを引き寄せたいが……キバナが楽しげな呼気を漏らした。
「悪いことすんのは、オマエの専売特許じゃねえんだよ! コータス、あくびだ!」
ネズはキバナに触発されたように、不敵に口の端を引っ張り上げる。ピンチの時ほどふてぶてしい態度を取るのが、ネズという人間だった。
「……やるじゃないですか。面白い!」
ネズは眠気でふらつくズルズキンをボールへ戻す。
「ありがとう、ちょっとインターバルですよ」
囁くようにズルズキンへ礼を言う。日差し照りつけるコートでは、コータスが蒸気を吹きだしていた。
気持ちを切り替え、すぐさま次のポケモンを呼ぶ。
「次のメンバー紹介! あまのじゃくのカラマネロ! ひねくれちゃいましょ!」
そこから試合は一進一退だった。コータスはカラマネロで突破し、カラマネロを見せたことで場に出てきたバクガメスのトラップシェルを、ストリンダーで空振りさせる。
相手がフィールドを使って優位に立つなら、付き合ってやる。天気の変化も永遠には続かない。その間隙を突くように、ネズはフィールドに出すポケモンを次々に変え、キバナに対抗した。
今のネズは、一戦一戦がラストステージだ。負ければ、二度とここには立てない。全てを出し切って、どんなに無様でも勝利に手をかけることに集中する。
……思い出した。バトルというのはこんなにも自分を振り絞り、楽しむ物だった。
ネズは喜悦と共に思考を回転させる。今、お互い残りは三匹ずつ。キバナがこちらを牙にかけるべく場に出すのは、恐らくフライゴンだろう。
「吹けよ風! 呼べよ砂嵐! すなおこしだフライゴン!」
フライゴンの巻き起こす砂嵐が、フィールドを支配する。ネズは読みが当たって高揚した笑みと共にフライゴンを出迎え、新たなメンバーをくりだした。
「おいで、うちの頼れるアタッカー、いのちのたまスカタンク! どくどく!」
砂で悪くなる視界のなか目をすがめ、スカタンクに指示を出す。スカタンクが尻尾の先端から毒液を飛ばし、紫の霧が砂漠の精霊に纏わりついた。
ネズは覚悟を決めた。メインアタッカーのスカタンクを、ここで失う覚悟だ。そのうえで、双方の状況を比較する。このまま粘れば、フライゴンは倒せる。次にジュラルドンを引き出せれば、まだ勝ちは掴めるだろう。数手先を読み、作戦を立てる。
「続けて行きましょう、ふいうち!」
スカタンクが四肢を伸ばして飛び、空中で回転しながら長い尾でフライゴンを打ち据える。急所に当ててくれた。スカタンクは着地と同時に自慢げに体を揺らしたが、その揺れの種類が変わった。
「これ以上好き勝手させるかよ! オレさまのフライゴンはこれからだ! じしん!」
スタジアムの宙を舞う美しいフライゴンの鳴き声が地を揺らした。スカタンクは大きく跳ね上げられ、バトルコートに何度も叩きつけられ、体力が尽きる。特性の「ゆうばく」は発動しなかったが、充分だ。
「お疲れさま。最高の仕事でしたよ、スカタンク」
倒れるスカタンクをボールに戻す。弱々しいが、内側からボールを叩く感触があった。
ネズたちは、要所でネズが読みを外さず、ポケモンたちのチームワークで勝利するのが定石だった。彼らは相手に倒されるのも、立派な仕事のひとつだ。ネズは次のメンバーをステージに上げる。
「さあズルズキン! もう一度悪いことしましょ! いかくにねこだまし!」
いかくで攻撃力を下げ、今まで見せなかった「ねこだまし」で、フライゴンをひるませる。もうどくのターンを稼ぐのが仕事だ。すなあらしなら、フライゴンが「じしん」を打つのが、最も安定して勝てる行動だ。それを読んでの「ねこだまし」は、想定通りに決まった。時間を稼いでくれたズルズキンは、次にフライゴンの「かみくだく」で沈んだ。
ネズは砂嵐に巻かれるまま、挑発するように笑う。
「さあ、面白くなってきたね。ゲームはこれからですよ」
「言ってろよ。速攻で畳んでやる」
キバナの手持ちは、どくで倒れそうなフライゴン、いまだ無傷のジュラルドンとヌメルゴン。数の上では有利だ。だが、その荒い息遣いには余裕がない。当然だ。キバナには、ネズが何をするか分かっているのだから。
ネズは、飛び出すのを待ちわびる最後のダークボールをアンダースローで放り、そのまま右手を天に突き上げた。
まだおれたちのステージは終わらない。
「ショウ! マスト! ゴーオン! ようやく出番だタチフサグマ! 行くぜ!」
フライゴンのじしんに対して、ネズの指示とタチフサグマの動きは、ほとんど同時だった。
「ブロッキング!」
この、自分とポケモンの間にリズムのズレがなくなる瞬間が、ネズは好きだ。お互いがどうすべきか分かっているからこその、完璧なユニゾン。
モノクロの相棒は両足をしっかり突っ張り、じしんの衝撃を受け流す。どくのダメージも合わせ、フライゴンは、ついに羽ばたきを止めた。
「よく頑張ったぜフライゴン!」
墜落する寸前、ボールへフライゴンを戻すキバナ。その砂漠に煌めく宝石のような青い瞳が、悔しげに細められる。ネズはその目に向かって叫んだ。
「まだまだやれるでしょう、ドラゴンストーム!」
キバナにとっての最善は、ヌメルゴンに交代し、雨乞いからのかみなり。けれど、それで良いのか? ネズはキバナに問う。
「おれたちの最高の時間、まだ幕を下ろすには早すぎませんか? 足りねえんですよ!」
ネズはマイクに手をかけ、煽るように手招き。
「もっとだ! もっと寄越せ! おれに、全てを見せてくださいよ! キバナ!」
こいつを倒し、妹のリベンジもして、ダンデに手をかける。そのための、キバナへの「ちょうはつ」。
通ってくれ。祈るようにマイクを握る。
「……にくいこと言ってくれるじゃねぇか! そんなに見たけりゃ見せてやるよ!」
キバナが鉤爪のように曲げた指で空を裂き、両腕を開いて吼えた。ネズの目が細くなる。
「こいつを倒せば、ダンデまであと少しだ! 行くぜ相棒!」
ジュラルドンが現れる。
「スタジアムごとヤツを吹き飛ばす!」
磨き上げられたジュラルドンの体が、キバナのダイマックスバンドと反応した。
ネズはマイクスタンドで身体を支え、苦しそうに顔を歪める。耳の良すぎるネズには、ダイマックスしたポケモンの鼓動、息遣い、ガラル粒子がダイマックスバンドに反応する音の全てが、耐え難いノイズだ。
ジュラルドンの勇ましい雄叫び。ネズは両足を突っ張った。腹の底まで震える衝撃がネズを突き抜けて行く。
ガラル粒子の雲をいただき現れたジュラルドンは、高層ビルじみた姿を現す。比較して、タチフサグマの大きさは、高層ビルを訪れる人間と変わらない。
けれど、その傷だらけの背中を、ネズは小さいとも、頼りないとも、思った事がない。ジグザグマの頃から一緒に戦い抜いてきた相棒だ。
「ジュラルドン! キョダイゲンスイ!」
だから、ガードを破られ急所に一発食らったタチフサグマが砂塵にかき消えても、ネズは焦らない。ブロッキングを嫌ってキョダイゲンスイを打ったこと、後悔させてやろう。
「そんな甘えたわざ、おれたちには効きませんよ」
弱点でないダイマックスわざなら、急所に当たろうが、一撃は耐える。そういうチューニングにしてきた。わざの衝撃で一瞬風速があがり、ネズの長い髪が暴れる。その風に乗って、妹の声がネズに届く。
「アニキ! タチフサグマ! がんばって!」
ネズの瞳が砂嵐の中で燐光のように揺れる。腹に力を入れて相棒を呼ばわった。
「タチフサグマ!」
土色の視界の向こうから、まだ戦えると相棒が吼える。消えぬ闘志を纏うその雄叫びを、ネズは世界一美しい声だと信じている。聞き惚れるように瞳を閉じ、余韻が消えたところで目を開いた。
「よく耐えました! エールに応えましょう! カウンター!」
右手の人差し指をキバナたちに突き付ける。
砂に霞んで見えないが、ネズには聞こえる。タチフサグマはいつものように両手を前に構えて突進し、そしてあの頑強な爪で、怯まずに挑みかかるのだ。
すなあらしは、未だ止まない。フライゴンの持ち物が悪さしているのだろう。けれど、そんな逆境だろうが切り裂くのが、ネズの誇らしいメンバーだ。
「まだだ! ジュラルドン――」
ダイナックルでも打って終わりにするつもりか。そうはさせない。
「イバンは美味しいですか? タチフサグマ!」
普段はとつげきチョッキやきあいのタスキで耐えるスタイルのタチフサグマだったが、妹が見せた、攻撃的な編成を参考にさせてもらった。これで、ジュラルドンより早く動ける。
「それじゃ、おねんねしてもらいましょ!」
妹へのリスペクトを込めたネズのハイトーンボイスが、風を裂いてキバナを突き刺した。
「じごくづき!」
ネズがマイクを蹴り上げる。同時に、タチフサグマは砂嵐を振り払う白黒のつむじ風になった。
一歩、二歩、ジュラルドンの巨体を軽々と踏み、跳躍する。体を大きくのけぞらせ、その喉笛目掛けて両の鋭い爪を振り抜く。数秒。
ジュラルドンのシルエットが今度こそぐらりと傾いて、爆炎に包まれた。相棒が甲高い声で吼える。
「聞こえたかキバナ! 届いたか愛すべきスパイク! これが! おれたちの最高のナンバーだよ!」
渾身のシャウトが、シュートスタジアムに響く。
一拍置いて、事態を把握した観客が、スタジアムを揺らした。
◆
体力を使い果たしてマイクスタンドにもたれる。どうにか立ち上がり、自分を破ったドラゴンストームの待つコートのセンターへ。砂とシャウトで枯れた声で、キバナへ言う。
「最高の時間でした」
自然、会心の笑顔が浮かんだ。最高のメンバーと、最高のパフォーマンスをした。それで負けたのだから悔いはない。
「オレも楽しかった。オマエ、めちゃくちゃ強いじゃねえか!」
「やっと気が付きましたか、この野郎。それより、おれの挑発に乗ったのはどうしてです?」
キバナはネズに右手を差し出し、興奮冷めやらぬ声を弾ませた。
「こんな面白い試合で、安定勝ち選んでハイ次なんて、行けるわけないだろ!」
「……おまえと戦えてよかったね。健闘を祈ります」
キバナの手を握り返し、ネズは、バックスタンド側へ退場する。自分の名を呼ぶ観客たちの歓声に、コートを去り際、右の拳を高く突き上げる。ネズを呼ぶ声が一段と大きくなった。
通路に入って、観客が見えなくなったところで立ち止まる。その場で軽く跳ねると、海水浴の後のように、全身から湿った砂がこぼれ落ちた。キバナ戦はこれだから。
ネズはスタジアムを振り返った。持てる全てをぶつけ、全てを飲み込んだ、強欲な熱を孕む場所。もう立つ事のないステージ。
それを無人の通路から眩しそうに眺め、満足気に小さく頷いた。ネズにアンコールはない。
こうして、スパイクタウンジムリーダー、ネズの最後の試合は終わった。
7
メインスタンド側の関係者席。ネズがマリィやエール団と決勝戦が始まるのを待っていたら、不気味な揺れとともに、ローズから大変な横槍が入った。
妹をかばったまま睨むオーロラビジョンには、パワースポットを抱えた七つのジムのバトルコートが映る。
そのバトルコートから吹き上がる赤い粒子の柱に、自分が試合で得た高揚感も、観戦する試合への期待もかき消えてしまった。
ナックルの地下プラント。懸念していた場所から、想像だにしなかった事態が起こっている。
(ウチのスキャンダルが、どうでも良くなりそうな事やらかしましたね……)
「……アニキ」
腕の中から、妹が不安げに声を上げた。
「大丈夫かな……」
「ダンデたちなら一旦下がりました。大丈夫ですよ」
友人の心配をしているのかと思ったら、妹は首を横に振る。
「あの子らもだけど、スパイクが心配ったい」
「そうですね……」
故郷の事を思ったとき、ネズに閃くものがあった。あの映像に、スパイクジムが映らなかった理由と、だからこそネズがやるべき事。
驚愕と狼狽の色濃かったネズの顔に、冷静さが戻ってきた。
「妹よ。兄はジムリーダーとしてやる事があります」
ネズは席を立つと、客席の落下防止柵から身を乗り出した。あの男はきっと、ここから飛び出す。
「キバナァ!」
予想通り飛び出してきた男に、ミュージシャンの全力の声量で叫んだ。
肩を震わせたキバナの視線がこちらを捉えると、手すりを掴み、ネズは続ける。
「うちで! ナックルから避難する人を受け入れます! おまえの事業部に伝えて!」
キバナは大きく頷くと、口の周りを手で囲った。
「分かった! サンキュー!」
体を逸らして返事をすると、そのままボールからフライゴンを出し、キバナはナックルへ飛んだ。ネズは少し咳き込んで息を整えると、妹を振り返る。
「妹よ。おまえは、エール団とここを離れなさい」
「やだ! アニキが残るなら一緒にいる」
妹は聞き分けなくネズにしがみついた。
「アタシだってモルペコがいるもん!」
「マリィ。聞いてください」
呼びかけるが、妹はネズの細い腰を離さない。
「……おまえの気持ちは嬉しいけどね。返事はノーですよ」
マリィを叱る時に似た、少し厳しい兄の声で告げる。個人としてのネズは家族を最優先させるが、ジムリーダーのネズは違う。最も大切なものは、妹も含んだスパイクタウン全体だ。等しく大切になるので、妹にも特別扱いがなくなる。
「すみません。でも、おまえには、エール団が無茶しないように見張っててもらわないと」
妹には、今後の予行演習をしてもらう。
ジムリーダーになれば、人を使う機会も増える。妹を慕ってくれているエール団なら、練習としては丁度良いだろう。
「どういう事?」
「エール団! スパイクジムのネズから、頼みがあります!」
マリィを抱きとめたまま、ネズは声を上げる。ペイントを施した数多の顔が自分を見た。
「おまえたちには、困っている人のてだすけをしながら、妹をホテルまで届けてほしいのです」
元はといえば、自分の不甲斐なさが原因で生まれたエール団。マリィとスパイクタウンへの情熱は筋金入りだ。
「お願いします。マリィのためにも、おまえらが人から言われるほど悪くないってとこ、見せてやってください」
ネズは頭を下げた。こいつらは、やり方が分からないだけだ。道筋をつけてやれば、きっと。
「いいじゃん。やろうよ」
よくエール団の声出しを纏めている女性の団員が、ツーブロックのベリーショートをかきながら言う。
「お嬢困らせたぶん、ウチらも挽回したかったんす」
「っす! やろう!」
ぽつりぽつりと上がった賛同の声は、エール団の総意に変わった。ネズは妹を自分の体から離すと目を合わせる。
「こういう事です。あいつらのこと、まとめられますか?」
妹に「挑戦できるか?」と聞くと、妹はいつもこう答える。
「……やる」
マリィはネズの腰に回していた腕をほどき、片手を胸の前で握った。
「さすがおれの妹です」
ネズは妹の髪型が崩れないように前髪を撫でてやると、「行きなさい」と囁き、背中を押す。
「よし! みんな! マリィと一緒に行くよ! アニキ、無茶しないでね!」
「おまえも!」
最後に兄としての顔を覗かせ、ネズは妹とエール団の姿が消えるまで、その背を見守った。
「……さて」
ネズは妹の座っていたベンチに腰掛け、スマートフォンを手に取った。混乱するスタジアムは、徐々にスタッフの誘導による避難が進んでいた。ネズの周辺はほぼ空席だ。
「やりますか」
マイク付きのワイヤレスイヤフォンを片耳にはめる。ジムのスマートフォンに、ビデオ通話を繋ぐ。
『……はい! スパイクジムです!』
「ネズです。連絡が遅れてすみません」
電話に出たのは会長のサビナだ。背景から、ジムのバトルコートにいるようだった。
『よかった! かけようと思ってたところで』
「こっちは全員無事です。そちらの状況は?」
ネズはかぶせるように尋ねる。
『バトルコートにいるみんなは、何事もなく。みなさん! ネズさんから連絡来ました!』
そう言ったサビナが、カメラを切り替えてくれた。ステージにスクリーンを出してのパブリックビューイングの最中だったらしい。スパイクジムの事業部とトレーナーが全員揃っている。エール団のフェイスペイントを施した、町の知った顔も多く詰めかけていた。
『アーケードの方は、今、商工会のみなさんが見に行きました』
「分かりました。そっちも混乱していると思いますが、やってほしい事があります」
試合を映していたというプロジェクターで、スマートフォンの通話画面を繋げてもらう。まだ使えると買い替えずにいた機材の関係で、ネズから見えるジムの景色は、機材を風雨から守る安いテントの天井に変わった。
『オーケーです。お話してください』
サビナのキューサインが画面に映り込む。
これで、ステージから自分が見えているはずだ。静かに息を整えて話し始める。
「どうも。ネズです。誰もケガがなかったと聞いて、安心していますよ。今外は大変ですが、みんなに話したい事があるので、通話を繋げてもらっています。聞いてください」
ネズは一呼吸おき、呪文のように繰り返してきた言葉を、今までで一番確信をもって声にした。
「スパイクタウンは大丈夫です」
数時間前、キバナと戦った時よりも緊張していた。試合やライブで最高のパフォーマンスを見せるのは簡単なのに、裸の言葉を誠実に届けることは怖い。
「こんなセリフ繰り返して、何もできなかったおれの言う事ですけど……今回は掛け値なし、事実です」
この異変には、ガラルのパワースポットが関わっている。パワースポットを持たないスパイクタウンは、今ガラルで一番安全な場所と言って良い。
「だから、スパイクタウンには役目があります。それを、おれは……みんなにお願いしたいんです」
最初からジムリーダーとして「命令」をすれば、了解はされるだろう。けれどネズは、自分と町の、いびつな愛情で繋がる関係を変えたかった。
「もっと早くに、みんなから力を借りるべきだったのに。おれはだめなやつでした。謝ります。おれ一人でやれると思って、みんなの意思を理解していたのに、長い間、無視してしまって」
ネズは目を伏せる。血色の悪い肌が、いよいよ白さを増していた。
本当は、チャンピオンカップの後できちんと謝罪するつもりだった。
ずっと、スパイクタウンを愛している人たちのエールを背中に受け、みんなの分まで戦うつもりでいた。それでも、職と安定を求めて離れる人々を、採算が取れないと撤退するテナントを、自分では引き留められない。
……自分は間違っているのかもしれない。それに気づいてからは、エールをくれる後ろを振り返れなくなった。そしてますます周囲を遠ざけて、孤独なわるあがきを続けた。結果、ジムトレーナーも掌握できず、エール団の騒動が起こってしまった。
そんな道化にできる事がまだあるなら、逃げるような歩みを一度止めて、向き合うことだけだ。
「もし、こんなおれでも助けても良いと、思ってくれるなら……どうか。力を貸してください」
ともすれば俯きそうな己を叱咤するように、スマートフォンを持つ手に力が入る。
「今、おれからは、みんなの様子が見えません。だから、声でも何でも構いません。おれに、みんなの意思を聞かせてもらえませんか」
言い終わるより前に、勢いよくホイッスルが鳴った。イヤフォンに叩きつけられた高音に、ネズの体が跳ねる。それに呼応するように、歓声、ドラムの音、ネズを呼ぶ声。
『やるに決まってるでしょう!』
瞬きを繰り返すネズに向かって、サビナの呆れたような声。
『こっちは、あの試合の! あなたの声が届いてるんです! スパイクジムは……いえ、スパイクタウンは、あなたの隣にいます。ですよね!』
背後で聞こえる町の意思が、大きさを増した。ネズは眉が下がりそうになるのをこらえ、引きつったように口角を上げる。画面の隅に小さく映る、とんでもなく下手くそな自分の笑顔に呆れた。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。両足で客席のコンクリートを踏みしめ、改めてみんなに声をかける。
「それじゃあ、おれからのお願いです。無様に負けちまったおれの代わりに、おまえらがヒーローになってください。まず、会長」
彼女へは、ナックルへの公式な申し出を頼む。避難する人をスパイクで受け入れるという内容だ。
「渋られたら、ジムリーダー同士で了解した話だと押し切っていいです。これは今すぐ」
『承知しました!』
サムズアップし、サビナの腕が画面から消える。それからネズは、実力のあるトレーナーに向けて、七番道路まで向かうよう伝えた。避難者の誘導、野生ポケモンに変化があった時の対応を任せる。
「謹慎していたエール団のトレーナーも、一緒にお願いします。ロッカーで昼寝してるダイマックスバンド、ちゃんと持って行くんですよ」
スパイクのトレーナーたちは、ネズのスタイルを真似たがる。そのため、常にダイマックスバンドを携帯していない。よく誤解されるのだが、ネズが強いているわけではなかった。
「使える場所なら使って、身を守ることを優先させてください。いいですね」
先輩たちが動くのを見たのか、先日のジムチャレンジで急遽公式戦デビューした若手から、待ちきれない様子で「自分たちは?」と声があがる。
「みんなには、シャッター前を任せます。仕事は先輩たちと変わらないけどね、何かあったら最後に町を守るのはおまえたちです。頼んだよ」
それから、やや事務的な硬さをもって、事業部へ指示。商工会と合流して、アーケードのシャッターを閉めるように伝えた。
「締め出すためじゃなく、念のための措置です。避難者は横から誘導してください」
頭に入れてある災害対策マニュアルをベースに、ネズは指示を続けた。うかうかしていると、これが災害に進化すると踏んでいるからだ。
「すみませんが……」
ネズは、自分に避難を促そうと近づくリーグスタッフに片手を挙げ、カメラに映らないところで『電話中です』とスマートフォンを指さした。
「手の空いた人がいたら、テナントを片付けて、避難者が使えるようにしてください。繰り返すけど、自分の安全を最優先で……」
『ネズさあん!』
サビナの声がフェードインしてきた。
『ネズさん! ナックルからオッケー出ました!』
「ありがとうございます! トレーナー、忙しくなります……よ……」
客席の対岸からあがる、どよめきとも悲鳴ともつかない声。ネズは顔をあげた。
『ネズさん? 今のなんの音ですか?』
観客のつれていたらしいヌイコグマが、コート上でダイマックスしている。一瞬険しい顔を見せたが、すぐ切り替える。
「こっちは気にしないでください。それより、スパイクチューン、準備はOKか?」
ライブ前の口上に、返ってくる声、声。
ネズは目を閉じる。
アーケードのどん詰まり、薄暗い街路に輝くピンクのネオン管とステージ。割れた屋根から差し込む天然のスポットライト。
自分はそこにいないが、確かに声を上げる輪の中にいるような気持ちになる。ゆっくり目を開くと、見えない仲間たちに言う。
「いい返事です。落ち着いたら戻ります。おれたちのスパイクを頼みました」
ネズは通話を切ると、大きく息をついた。自分に声をかけたリーグスタッフを振り返る。
「おれは、あれをどうにかします。客を避難させてください」
バトルコートの中央に視線を戻す。突然大きくなったヌイコグマは戸惑い、パートナーを探しているようだ。
ネズはボールホルダーの相棒たちに声をかける。
「おまえたち、まだおれと付き合ってくれますか」
相棒たちはボールを揺らして返事をしてくれる。
「ありがとう。それじゃあ、掟破りのアンコールと行きましょう」
ネズは立ち上がった。
8
チャンピオンタイムにピリオドが打たれてから数週間。
ローズ出頭のニュースは、あの交代劇をもってしても世間から消えることはなかった。掘り返される過去や因縁が針小棒大に報じられ、スパイクジムも、メディアに不躾な訪問を繰り返され迷惑していた。取材はジムを通すよう声明を出したにも関わらず、聞かないふりで訪れる人間もいる。こんな具合に。
「プレスリリース、見てないとは言わせませんよ」
ネズが相対するのは、観光客を装ったメディアの男だった。社員証を抑えられ、縮こまっている。
「このまま帰るか、うちのプレス席を出禁になるか、好きな方を選んでください。お帰りならあちらです」
ネズが向ける敵意は、無慈悲で冷たい。半開きのシャッターを示せば、男は縮み上がって踵を返した。
「災難でしたね。また来たら、おれに連絡ください」
絡まれていた細工職人の老人を振り返ったネズは、ピンクのレザージャケットと黒スキニー姿。肩からポケモン用のスリングをかけていて、そこにエレズンをすっぽりと収めている。
「助かったばいネズ坊。あいつ、しつこくて困っとったんよ」
「ああいうの捌くのも、おれの仕事ですから。それより、今夜はよろしくお願いします」
「もちろん。これからは、坊も顔出してくれるって聞いたけん、嬉しかよ」
今日は商工会のミーティングがある。避難者を受け入れた時に片づけた空きテナントについての集まりだ。ライブハウスや宿泊施設にリノベーションしないかという提案を検討……というのを口実に、集まってパブで引っ掛けたいというのが本音らしい。
「夜、待っとるけんね、ネズ坊」
老人と別れたネズはエレズンを抱きなおし、慣れ親しんだ通りをゆっくりと歩く。
くすんだ天窓から入って来る細い光。整備の追いつかない歩道。パブの仕込みの匂い。シャッターでたむろしていた誰かの捨てた、吸い殻や空き瓶。
いつも通りの景色だ。あの日起こった事件が、まるでなかったかのように。
実際、あの日のスパイクタウンは、驚くほど何事もなかったと後で聞いた。避難者の出入りによるトラブルも起きず、誘導していたトレーナー達もそのポケモンたちも無事。幸いなことだった。
町の姿は変わらないが、あの出来事をきっかけに、空気が変わったと、ネズは思う。形はどうあれ、スパイクタウンに外から入ってきた人間たちが、礼を言って帰っていった。それが、住民にとって良いきっかけになってくれたようだ。
変わったと言えば、ネズもそうだ。ずっと一人で抱えていた商工会とジムの雑事を、それぞれふさわしい人間に任せることにしたのだ。
その一環で、業務を整理してジムの総務に渡したら、過労死ラインを越えていると大目玉を食った。自分なら人件費がかからないからと言い訳したら泣かれたのも、つい数日前だ。
そうやって空いた両手を自由と呼ぶべきか、寂しさと呼ぶべきか、ネズにはまだ答えが出ていない。
ポケットから出した鍵を使い、バトルコートへ入る。PA卓のスイッチを入れ、明かりをつける。
エレズンを抱き上げるため絶縁グローブをはめようとしたところで、仕事用のスマートフォンがメッセージを受信した。キバナだった。
『結果出た! 客入れてもいいって! ありがとな、ネズ!』
ナックルシティは人的被害こそなかったが、スタジアムの損壊が大きく、設備や建造物の安全確認が行われていた。その結果がネズに入る理由は、ネズが、マクロコスモス系ではない企業をナックルに紹介したからだ。スパイクのアーケードを見てくれる業者から、古い建造物が得意な業者を紹介してもらい、ナックルにつなげた。キバナの頼みだ。
「良いお知らせじゃないですか」
スリングごしにエレズンの背中を叩いてやりながら、ネズは片手で返事を送った。
『お疲れ様でした。これからの事は、そちらで頑張ってください』
ネズは少し考え、追ってもう一文送った。
『ジム同士で話せることは、業務時間内に答えます』
キバナは振替試合の日程が決まるまで、自分のジムでの諸々に加え、ダンデの見舞いだの、SNSで情報発信だの、寸暇を惜しんで動き回っていた。そのオーバーワークにかつての己を見たネズは、同僚の範囲で付き合うと決めている。それでもキバナの事は、まだ、うっすらと苦手だ。
ネズはあらためてグローブをはめ、エレズンを抱き上げた。最近保護されたばかりの個体で、ボールを嫌がる、すぐ癇癪を起こすで、トレーナー達も手を焼いていたのを預かった。エレズンから面倒を見るのは久しぶりだ。
エレズンをバトルコートに降ろし、自分はステージの階段に腰かける。モンスターボール型の柔らかい玩具を取り出し、そっと転がしてやった。ネズのストリンダーがエレズンだった頃使っていた物だ。
ヨチヨチとボールを拾いにいくエレズンを見ながら、ネズは仕事用のスマートフォンをチェックした。委員会からの連絡は、まだ来ない。
リーグの上の方は、現場を放り出しての大騒ぎが続いているらしい。当然、自分の進退やエール団トレーナーについても、なんの音沙汰もない。リーグ委員長の席に誰もいないのだから、仕方ないのだが。
ただ、ひとつだけ予感はあった。きっとあの空席を埋めるのはダンデになるだろう、と。
同時に、そうでなければ良いとも願っている。ダンデには、まだ、こんな七面倒な世界にやってきて欲しくなかった。
「愛してーるのエールを……」
鼻歌交じりにエレズンとボール遊びに興じていると、ネズの耳が足音を拾った。革靴。男。アポイントの予定はない。誰だ?
エレズンを呼んで、抱き上げようと中腰になったところで、バトルコートに現れた人影が手を振った。
「ネズ! ここにいると聞いて通してもらったぞ!」
ダンデだった。ネズはエレズンを抱きあげるのをやめ、座りなおした。こちらはオフだし、堅苦しい挨拶もお互い苦手だ。
「体のほう、平気なんですか」
言いたい事は幾つもあったが、とっさに出てきたのは、ダンデの怪我の心配だった。ダンデは両手を広げ、この通りすっかり元気だ! と笑う。あっけに取られているネズを置き去りにしたダンデは、「スパイクタウンの道は分かり易い」とかなんとか言いながら、ネズの隣に座り込んだ。
「オマエが普段の格好じゃないと、なんだかヘンな感じがするな」
「おまえこそ、何です? その服」
ネズはダンデの全身を眺め回す。あのダンデが、ユニフォームにマント姿ではなかった。
体型に合ったシャツに、セットアップベストとスラックス。マントと同じ色のタイを締めた姿は、リーグの公式な集まりで見るダンデだ。
「ボトムス汚れちまうでしょ。おれに用なら事務所で聞きますよ」
ダンデは緩やかに首を振る。ここがいいんだ、と、ステージの段差に肘をかけた。
「実はな。リーグ委員長を引き継ぐ事になったんだ」
ダンデの声に影はなく、自ら引き受けた事を窺わせる。ネズは目を伏せた。
「今日は内示が出たから受け取って、ハロンに帰る前に寄った。正式に公表されるのは来週だ」
そう言いながら、ダンデはエレズンの頬に触れようとし、拒否されている。嫌がられたにも関わらず、おくびょうな性格だな、と目を細めるダンデ。本当にポケモンが好きなのだ。しかし、もう、無邪気にポケモンを愛でるだけではいられないだろう。
「やっぱりおまえが継ぐんですか」
知らず、少しの憐憫を込めた声になる。
「驚かないのか?」
「火消し人事なら、おまえが適任ですからね。納得させられる実力も、自然なバックストーリーもある。役員側は、『みがわり』のつもりで声かけたんですよ」
ダンデには、任期いっぱい委員長の椅子にとりあえず座ってもらって、その間に役員内でゴタゴタとやりあい、それなりの誰かが新たに座るのだろう。その間のダンデは、まるで意味のない置物だ。ネズはローズよりも、むしろ、そうした役員連中の方に嫌悪感を隠さない。
「やっぱりオマエもそう思うか? オレもだぜ」
ダンデの声は、バトルで格下から挑発的な試合運びをされた時のそれだった。
「おまえ……やる気で引き受けましたね?」
およそポケモンバトルに関係することで、こいつが手を抜くはずがない。決して置物なんかで終わらないと、ダンデの声は何より雄弁だった。
「もちろん、しっかり仕事をするつもりだぜ。だから今日、オマエに会いに来た」
「委員長として来たってことですか?」
頷くダンデは、試合のように真剣な顔を見せた。
「エール団のトレーナーについてはスパイクの要求に応じる。だから、ネズにはジムリーダーを辞めないでほしいんだ!」
「……ハァ?!」
理解に全休符を要したネズから発せられたのは、怒声だった。
ネズがジムリーダーを退く話は決まった事だ。後任は来季が始まるまでに指名し、遅滞なく引き継ぐと話はまとまっていた。当然、妹を指名するつもりだった。それを今更、体制が変わったからとひっくり返されれば、こんな声も出る。
ネズが腹から出した声に、エレズンがびくり、と体を震わせた。
「ああ……ごめんなさい。おまえに怒ったんじゃないんですよ」
泣き出したエレズンを慌てて抱き上げ、慣れた手つきであやすネズ。エレズンが落ち着いてから顔を上げ、ダンデに敵意を含んだ視線を刺す。
「どういうつもりですか」
「それはこっちの台詞だぜ。エール団についてのレポートと、役員会の記録を見たぞ」
エール団の件で、ネズがトレーナーの資格まで手放そうとしたのを把握したようだ。
「どうして、トレーナーまで辞めるなんて言った!」
「あなたに言っても分かる話じゃありませんよ」
ネズはダンデを突き放した。これ以上話しても、きっと平行線だ。トレーナーとしてのネズを手放したくないからとネズの意志を無視するなら、こちらも正面切って反抗するまでだ。
「帰れ。異議申し立てますから役員会で会いましょ」
顎で出口を示すと、ダンデは狼狽えた。
「いや、違う! 怒らせるつもりは……すまない。まずは謝らせてくれ」
エレズンを降ろし、視線で続きを促す。ダンデは背中を丸め、ライラック色の髪に手を突っ込んだ。
「話し合いというのが、どうしても苦手なんだ。オレは何か間違っているんだろう? だからオマエも怒らせてしまうし、ローズさんも止められなかった」
やりすぎたと、ネズは直感した。
「……いいえ。今のは、おれが大人げなかったね。こちらも謝ります」
ローズの件で深く棘が刺さっていると想像できなかった、自分の落ち度だ。
「色々考えて引き受けたんでしょうけど、こっちのルールも勉強しないと、今みたいに敵を作るだけです。話し合いにも、駆け引きとかあるんですよ」
ネズの隣でしょぼくれる男は、ことポケモンバトルにおいては、妥協とか、譲歩とかを嫌う。その調子で、元から結論ありきで譲らないローズと対話を試みたのなら、さぞ平行線で終わったことだろう。
いっそ、実際やらせてみるか。
「仕方がないね。おれが練習台になってやります」
ネズは本心を隠して、溜息をついてみせた。
「おまえとの話次第で、トレーナー続けますから」
「本当か?」
勢いよく顔を上げるダンデ。ネズは片方の手のひらをダンデに向け、続ける。
「話次第、と言いました」
ネズはダンデに向けた手でエレズンを手招きする。寄ってきたエレズンを、自分の腹を背もたれにして座らせてやった。
「こういうのは、お互いどれだけ譲れるかです。バトルでもあるでしょ? そういう状況」
「相手の戦術を通して良いラインの話か。それなら、なんとなく分かるぜ」
「まあ……今はそういう理解でいいですよ。さてダンデ。おれの要求をどこまで通します?」
ネズは薄い笑みを浮かべる。ダンデは顎に手をやってから、ピースサインを突き出した。
「……二分くれ。考える」
ネズはスマートフォンでタイマーを起動させた。
「どうぞ」
ダンデは聡明だ。ポケモンに関する知識は深く、バトルでの洞察も鋭い。その上で周囲の求める「チャンピオンらしい」試合運びを続け、この前まで負けなし。その化け物じみたセンスを応用できれば、委員長業も上手くやれるはずだ。
ダンデが沈黙している間、ネズはエレズンとボールで遊んでやる。段々慣れてきたようで、自分からネズの持つボールを触りたがるようになった。
「ネズ、良いか」
タイマーが一分少々を残すところで、ダンデがネズの名を呼んだ。
「まとまりましたか。ダンデ委員長」
ネズのジョークにも答えず、ダンデは頷き、一字一句確認するように言った。
「オレは、オマエにバトルを辞めて欲しくない。なら、ジムリーダーについては、ネズの意思を尊重して問題ない」
正解を確認するように、ダンデはネズを見る。
「おれを伺うんじゃねえです。続けて」
「オマエがトレーナーを続けてくれるなら、オレは、エール団トレーナー達の選手活動に加えて、マリィのジムリーダー就任を保証する」
譲るところさえ決めてしまえば、ダンデは持っているカードを適切に切る。自身の独断で決めるような口ぶりには、王様気分が抜けていないなと、思わず吹き出してしまったが。
「妹をジムリーダーに据えるのは、どういう意図ですか? おれの我儘を通すだけじゃないでしょ」
「若いジムリーダーやチャンピオンの業務体制を、再整備したいんだ。これは、次のシーズンが始まる前に手を付けたい」
ダンデが言う若い、というのは、未成年たちのことだろう。アラベスクは代替わりして少年になるし、ラテラルの主人は引き続きオニオンが勤める。加えて、新たなチャンピオンは、ダンデの弟と同い年。
「マリィがいれば、若手がほぼ半数。おまえの願いを叶えるのに、都合が良いんですね」
ダンデは頷く。ただ情で動かれるより、むしろ好ましい。ネズは次の懸念を尋ねた。
「エール団だったウチの連中については、どう言い訳します?」
それに対してダンデは、委員会宛てに、スパイクジムのトレーナーやエール団へ感謝の電話やメールが届いていると教えてくれた。ナックルジムからも、正式に感謝の申し入れがあり、そのおかげで、トレーナー達の処分が少し軽くなるかもしれない、と。
「人助けはオマエの指示と聞いた。これが狙いか?」
ネズは顔をしかめて首を振った。
「ポプラのバァさんなら、『こうげき』と『とくこう』下げてますよ」
打算がなかったと言えば嘘だが、それだけと決めつけられるのも、間違っている。
「なるほど、正解だけど不正解か! オレは、あのクイズが全然答えられなかったんだ」
「おれも歳のやつだけはダメでした」
「ネズは、その時からあまのじゃくだったのか?」
「……本当に正直なやつですね。せめて孤高とか言えないんですか」
二人は視線を交わす。ややあって、ネズは俯き、ダンデは顔を上げて笑い合う。
ひとしきり笑った後、ダンデに尋ねられた。
「オマエは、ポケモントレーナーを辞める事に、未練はないのか?」
ネズはダンデの視線から逃げ、エレズンの丸い腹を撫でた。手はやがて止まり、チョーカーの飾りをいじり、観念してホールドアップした。
「……あんな試合見せられて、火のつかないトレーナーがいますか。責任取りやがれ」
ダンデと新チャンピオンとの試合は、激しく、真っ直ぐで、楽しそうで。ネズが密かに敬意を払っていたダンデの誠実で容赦ない戦い方と、新チャンピオンの素直でポケモンを信頼するバトルは、恐ろしく高い水準で「遊ぶ」ように見えた。
そんな二人を見て、あの準決勝でバトルコートに全てを捧げたと思ったのに、ネズは足りなくなってしまった。
ネズの都合に振り回す手持ちのメンバーたちにも申し訳なかったが、悔やんだところで自分の言葉は取り消せない。
だから、最低でもジムリーダー引退さえ認めて貰えたら、ネズは説得に応じるつもりでいた。妹とエール団の事は、隠しているネタを幾つか見せれば応じて貰えるルートがある。
「お安いご用だぜ。オマエがトレーナーを続けてくれるなら、オレはさっきの件について、全力で委員会に約束させる」
ネズの肩から余計な力が抜けた。ダンデは契約の履行については折り紙付きだ。弟との約束を律儀に十年守り続けたのだから。
「なら、ついでに飲んでほしい要求があります。おれの引退については、あくまでエール団についての引責辞任であること」
ダンデは瞬きしてネズを見た。
「どうしてだ? みんなローズさんの話で持ちきりだし、スパイクタウンには同情的だぜ」
少し苦味をにじませ、ダンデは微笑む。こんな表情もするかと意外だったが、不躾に人の感傷に踏み込むものではない。
その代わりに、片手でエレズンとボール遊びをしてやりながら、冗談めかした言葉を投げかける。
「カブさん言うところの『ケジメ』というやつです。おれを厳しく扱ってもらわないと、後で妹や町の奴らが面倒に巻き込まれます」
ダンデは「そうか」と呟くと顔を上げ、ぐるりとバトルコートを見渡した。ダンデが戦ってきたスタジアムよりずっと小さい、愛すべきネズの城を。
「オマエは、本当に愛しているんだな。スパイクタウンと家族の事」
「そうですよ。だから、ここと妹を守れるなら、おれの首ぐらい、どうってことないんです」
ダンデには理解してもらえないが、それでいい。ネズが誇りに思う事だから、そうするだけだ。しかし、ダンデはネズの返事を聞いて破顔した。
「あの時、オマエを待っていてよかったぜ」
「……あの時……? おまえ、まさか」
ダンデが待っていたと言うなら、それは、セミファイナルの後、駅でホップを頼むと言われた時の事だ。ネズは片方の眉を跳ね上げた。
「あれ、待ち伏せていやがったんですね」
呆れた、と声に出してから、ダンデに問う。
「どうしておれだったんですか?」
「オレは、オマエのバトルを知っているからな。二度目はなかったが、ネズの試合は全部見ていたんだぜ」
過去に一度だけ、ダンデとネズは公式戦で当たった事がある。その時険悪な雰囲気で別れて以来、スタジアムで向かい合う事はなかった。それでも再戦に備え試合を研究する。トレーナーとしては当たり前の事だが、ダンデが自分のバトルで、あんな事を任せるほど信用したのはなぜか。
「理由になってねえですよ」
「そうか?」
それから、ダンデは驚くほどまっすぐに、ネズを讃えた。大きなものに抗い、仲間に義理堅く、自分で決めたルールに忠実で、咄嗟の判断も上手い。
「だからネズに任せた。今日ネズと話せて、オレの目に狂いはなかったと分かって、それが嬉しいんだ」
ガラル最強だった男の言葉に、ネズは表情を険しくした。なるべく感情の滲まない声を出す。
「おれごとき、買い被りすぎじゃありませんか」
「いいや。ネズは、ガラルのポケモンバトルに存在するべきトレーナーだぜ」
ダンデが身を乗り出し、ネズに顔を近づけた。一番星のように煌めく眼差し。
「……委員長様はよく見てらっしゃることで」
ふん、と、ネズは鼻を鳴らした。
「あの時はありがとう。ホップも喜んでいたぜ。ネズが助けてくれたって」
「アンコールはありませんよ」
そう言いながら、エレズンの小さな手を、手袋越しの指でくすぐってやる。喜ぶエレズンに目尻を下げていると、ダンデはそわそわと切り出した。
「……ところでネズ」
「はい」
「今日、おまえの手持ちたちは一緒じゃないのか?」
ネズは半目になってダンデを見る。そのワクワクした顔と、待ちきれないと揺れる体を。
ここまでよく我慢した方だと、ネズは肩を回した。このバトル馬鹿が、トレーナーと会ってバトルをせず帰るなんて、するはずがない。
「三匹だけ。タチフサグマ、ストリンダー、ズルズキンです。いいんですか、おれなんかで」
「もちろん、こちらは、リザードン、ギルガルド、ドラパルトを出そう」
食い気味に提案するダンデに、ネズは首を振った。億劫そうにゆらりと立ち上がると、ステージ上にライブ用の仕切り柵で簡易ベビーサークルをこしらえ、エレズンをその中に降ろした。
「エレズン。おれは少し離れるけど、良い子にできますか」
ぺたんと座ったエレズンは、ニコニコ笑ってネズに手を振った。何が楽しいのか、舌まではみ出ている。すっかりご機嫌のエレズンに手を振り返してから、ネズは手袋を脱ぎ捨て、ダンデに向き直った。
「さて、ダンデ。スパイクタウンはダイマックスもなしですけど」
「大丈夫だ! 望むところだぜ!」
さっきよりも活気づくダンデの声に苦笑いするネズ。ホームタウンの主人として、ステージを背負ってバトルコートに立つ。深呼吸し、目の前にマイクスタンドを立てた。
「ジムの未来も安泰が決まったことですし、おれに勝てたらひとつお願いを聞いてあげましょう」
「それなら、オレのこれからを助けて貰うぜ」
「いいでしょう。おれが勝ったら、ウチの予算増やしてくださいね」
ダンデはバトルコートのチャレンジャー側で、ベストを脱ぎ捨てる。頬を軽く両手で叩き、帽子のつばに触れるような仕草を見せた。
試合前のルーティンを終え、喜びで満ち輝くダンデの姿。こいつ、本当に委員長に収まっていられるのかと、ネズは別の意味で不安になった。
「さあ、準備いいですね、ダンデ!」
元ジムリーダーになる男と、元チャンピオンの男。
ただのポケモントレーナーとして、二人の目と目が合った。
「ああ! 始めよう!」
【Spikemuth Are Alright 終わり】