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 右腕のダイマックスバンドが、パワースポットに呼応してノイズを吐き散らかす。耳を引っ掻く音に眉をしかめたまま、ネズは両手で抱えた赤いグリッドと化したボールを背後に放り投げた。
 そのまま目を細めて、タチフサグマがスタジアムを見おろす巨躯に膨れるさまを見守る。妹に読み聞かせてやった、豆の木の童話を思い出した。
 ネズは今、キルクススタジアムを借りて、初めてタチフサグマをダイマックスさせていた。ジムリーダー初年度の新人による個人的な頼みごとを、締めの間際なら、と引き受けてくれたメロンには頭が上がらない。
 やがて、頭上に赤い雲をいただく相棒の重たいフォルティッシッシモが、無観客のスタジアムを震わせ……その轟音が、ネズの耳から直接頭を殴った。
 ライブで耳栓もせず、うっかりスピーカーの前まで泳いで耳を駄目にした時より酷い。耳鳴りと、耳の中がボンヤリする聞きづらさ。立ち眩みしたような感覚にバランスを崩し、ネズは耳を塞ぐとコートへ蹲った。
 その様子を目にして、うろたえる相棒の声が耳からも地面からも伝わる。けれど、ネズの繊細な耳はそれすら耐えがたいノイズと認識して、一瞬意識が飛んだ。
 どうにか体を起こそうともがくけれど、三半規管がバカになっているのか、上手く立ち上がれない。見かねたメロンが駆け寄り、ネズを引き上げてくれた。
「……! ……?」
 メロンが何か言っている。ネズはどうにか耳を指さしたあと、人差し指を顔のそばで交差させた。
「聞こえません」
 そう言った自分の声が、自分の体で反響する。メロンの血相が変わった。振り返って、ジムの人間に何か指示を出している。それから、フィールドの側で見学していたマクワを手招きした。マクワは母と停戦協定を結んだらしく、スマートフォン片手にネズのもとへ駆け寄ってくる。
 マクワの持つスマートフォンの背面で、ロトムの目が瞬きする。スマホロトムはマクワの手から離れ、体を反転させると画面をネズへ向けた。
『ジムのスタッフがタクシーを手配したので、病院へ行きましょう。母が付きそいます』
 その画面下にマイクのアイコンが浮かび、今度は音声認識で、誰かの声が文字へ変換されていく。
『ポケモンたちの回復は、ウチのジムで責任もってやらせるからね。まずネズくんの体が先だよ』
 こちらは、文体からメロンだろう。ネズは自分が礼を言う声を、ボンヤリと遠くで聞いた。
「タクシーが来るまで、一緒にいてやっていいですか」
 返答は確認せず、ネズはふらつく体を叱りつけて相棒の足元に向かう。滑り止めの効いた氷色の床を進む途中で、時間切れになったらしいタチフサグマの姿が、元に戻った。ネズより少し背の低い相棒は、ネズを不安げに見つめたあと、両腕を伸ばした。
「心配させたね。すまん。おまえは悪くないけん」
 お互いの存在を確かめるように抱き合う。
「おれのせいやけん、気にせんでよか」
 周りの声が聞こえにくいのを良い事に、ネズはメロンから肩を叩かれるまで大丈夫を繰り返し、タチフサグマのゴワゴワした毛皮に顔をうずめていた。



「そう言うわけで、急性の音響外傷になりまして。まだちょっと聞こえにくいんですよね」
 数日後、ナックルシティの老舗レストラン。ネズはテーブルマナーの師匠であるポプラに、ことの顛末を告げた。
「じゃあ、やらなきゃいいのさ」
 魔術師は鼻で笑う。
「そりゃ、あなたはそう言いますよね」
 ……このババア、他人事だと思って。
「不服を顔に出すんじゃないよ。気が立ってるね」
 言葉と内心を切り分けたはずが、ポプラにはまるでバレていた。
「ダイマックスを使う試合、ポプラさんはどう思いますか?」
「人に尋ねる時は自分の意見をお言い。ほら、背中」
 魔術師は不機嫌そうに長い爪でテーブルを叩いた。ネズは無意識に丸まっていた背筋をただす。
「……おれは、あまり好きじゃなくて。スパイクが対応していない僻みではなく、あれは、おれの好きなバトルとは違います」
「坊やはそうだろうね。アタシは、客やうちの子が本当に安全か、まだ疑って(うたぐって)る」
 ポプラは旧知のマグノリア博士から詳細を聞いて、ひとまずは承知したそうだが、懸念は拭いきれないようだ。
「ただね、あんな楽しげにチャンピオンが使いこなして見せたら、こっちの好き嫌いに関わらず、あれがスタンダードになるさ」
 見事防衛に成功し、いまだ全戦全勝のチャンピオン、ダンデ。彼は近年導入されたダイマックスルールを、それはものの見事に試合に組み込んだ。
「実際、ローズの坊やはそのつもりだよ」
 魔術師は上品に引いたルージュの片側をつり上げた。
 ダンデがチャンピオンになった翌シーズンから、リーグの運営体制が一新された。マクロコスモスグループのオーナーが委員長の椅子におさまったのだ。委員長は自身の企業グループを総動員した巨費を投じ、スタジアムの移築、改修を進め始めた。
「アラベスクの移築も、だいぶ森を拓くことになるからね。交渉に難儀したよ」
 交渉相手は、ルミナスメイズの主人たるポケモンだろうとネズは推察した。
 アラベスクの住人は、森の住民たちを、畏れを込めてリスペクトする。許可が取りつけられなければ、きっとスタジアムの改修は事故が頻発し、怪我人、最悪死者が出る騒ぎになるのだろう。
「お疲れ様です」
「坊やもそのうち大変になるさ。覚悟しておくんだよ。ローズの坊や、アイデアだけはご立派なんだけどねえ」
 今の委員長によるロードマップでは、何年かかけて、主要な七つのジムが、シュートスタジアムのように、ダイマックスを試合に組み込めるような広さと耐性、観客の安全性を兼ね備えたスタジアムへ変わっていくという。
 七つ。そう。七つだ。そこにネズのジムはない。ダイマックスに必要なガラル粒子のパワースポットが街にないのだ。
「費用もこっちで持つことにしたから素寒貧さ。坊やの指導は続けるけど、しばらく新しいドレスはお預けだよ」
 そう言ったポプラはエレガントにワインを干すが、ネズは唖然としてしまった。
 新しいドレスどころの話ではない。全額持つとなると、気の遠くなるゼロが連なっているはずだ。色々と副業もあるだろうが、よくそんな。
「友達は大事にするものだよ。こう言う時に助けてくれるからね」
 舞台人としての顔も持つポプラは、何人もの著名な俳優と友人だ。ジムなスポンサーであるアパレルにしても、彼女自身が創業者と個人的に友人関係なのだと言うし、引退後も付き合いのあるトレーナーだっているはずだ。スタジアムに自身の劇場を併設したいというポプラの計画に、そういうところが手を貸してくれたのだろう。
「愉快なご友人がいるんですね」
「良い奴らばかりさ」
 願いを口にするのは簡単だが、実際叶えるとなると難しい。けれど、それをやってしまえるのが、彼女の老練なところだ。
 いずれ自分にも、そんな友ができるのだろうか。ジムや家族のことで忙しくしていたら、もともと少ない友人はいつの間にか進学や労働で外に出て、連絡もつかなくなってしまった。自分を可愛がってくれるのは、ポプラをはじめ、大人たちばかりだ。それも、亡くなった父母に似て、少し癖の強い。
「カネを出されると口を出される。恩を売っておけばいずれ取り立てできる。覚えておくんだよ、外弟子」
 なにがそんなに気に入られたのか、ポプラはネズをたまに外弟子と呼んでくれる。
「……坊やのところは、今のコートを使っていいって?」
「そうですね。ジムの公式戦で使えるやつ、あれしかないですから」
 今使っているバトルコートはシンプルで、百人も入れば満員になってしまう。お世辞にもスタジアムと呼ぶような代物ではなかった。
「なので、ダイマックスを絡めた練習は、このままキルクスを借りる形になりそうです」
「ナックルの方が近いだろうに」
「新人のおれが頼んで、オーケーして貰えると思います?」
「おや。格式高いジムのドアノッカーは、パンク少年には叩きにくいかい」
 ネズは本音をポプラに喝破され、不承不承頷いた。オーク材のテーブルに乗ったポプラの指が愉快そうに弾む。
 あの堅牢で厳格な佇まいを見ると、勝手に格の違いを感じて、何もしていないが後ろめたい気持ちになるのだ。
 それに、尖塔の頂で輝く冠を見るにつけ、薄暗い怒りが澱のように腹へ沈んでいく。
「なので、メロンさんのご厚意に甘えようかと」
 バトルコートの時間貸しは、本来、ジム同士で申請し、受理するものだ。それを、メロンは自分に直接連絡をしなさいと言ってくれた。
「それなら良いさね。甘えておきな。ああ、坊や、ライセンスお出し」
 ネズは言われるまま、ポケットから父の使っていたカード入れを出し、トレーナーライセンスをポプラへ。ポプラはウェイターを呼びつけ、林檎の発泡酒(サイダー)をグラスで二人分頼んでいる。
「あたしが保護者だよ」
 ネズのライセンスカードに書かれた生年月日の欄を見て、ウェイターは頷く。
「もう十六なんだから、少し悪い事教えてあげようね」
 はあ、とか、ああ、とかネズは言った気がする。本当のところ、たしなんだ事はあるのだ。父は、ネズがプライマリーを出る頃には、家での祝い事でサイダーだの度数の低いエールだのを舐めさせて、大人になった気にさせてくれた。
 黙っておいたほうが機嫌を損ねないのかな、と、ネズはわざとらしく畏まってみせた。




 その昔スパイクタウンには港があった。外資企業の大きな船舶が何隻も停泊し、倉庫も立ち並び、その荷役だの、船乗り相手の商売だので街は息をしていた。
 外からやってくる人間のために街を開け、様々な土地の訛りが混ざった言葉が飛び交う。夜ともなれば、目抜き通りにはどこかの店で演奏するバンドの音漏れやら、即興のピアノだのバンジョーだのが賑やかで、楽しそうな酔客の声がはじける。
 ネズはその音楽たちに囲まれて、プライマリーまでを過ごした。両親が忙しい時は預け先のパブで可愛がられ、年季の入ったピアノで遊んでいたぐらいだ。
 けれど、その賑わいは突然消えた。マクロコスモス・エネルギーが、ナックルジムの尖塔に新しい飾りを載いてからだ。
 ガラル粒子のそれはそれは素晴らしいエネルギー運用は、化石燃料に頼るガラルが抱えていた幾つかの憂慮を解決して、関連する幾つかの外資企業を撤退させるに至った。
 スパイクタウンを拠点にしていた企業も例外ではなかった。ネズが仲良くしていた友達はその親と一緒にいなくなり、夜の街から音楽が消え、酔客は質が変わった。
 外資の引き上げは、スパイクジムからも、最大のスポンサーがいなくなることを意味する。その頃にはユースのトレーナーとして頭角を現していたネズも、周囲の空気がおかしい事を感じていた。商工会議所の長を務める父の帰りも日に日に遅くなり、妹とふたり、家で過ごす日が増えた。
 妹と引き換えに旅立った母に代わって商工会の長を継いだ父は、家族、とりわけ亡くなった妻と、スパイクタウンを愛していた。
 父は、悩んで、奔走して、しまいに、見かねた母に連れて行かれたように急逝した。ネズが十三の時だった。
 街の人間たちは、父の葬儀では口々にネズに詫び、今後は力になると請け合ってくれた。皆の後悔からくる残酷な優しさは、ネズに少しずつ傷をつけた。
 加えて、まだ三歳だった妹は、お気に入りの黒いワンピースでネズに抱かれ、「どうしてみんな泣いとるん?」と無邪気にネズに尋ねる。
 ネズは答えられなかった。
 母の死から三年しか経っていない。その痛みを分け合って、言葉は少ないが支え合ってきた父もいなくなってしまって、腕には死の意味も分からない年頃の妹。二人で、どうやって生きていけばいいんだ。
 こらえていたネズの大きな瞳から、ぼたぼたと涙が落ちる。妹が初めて見る兄の涙に驚いて、釣られるように泣き出す。妹の涙を勘違いした周囲の悲しみまで高く大きく響いていく。
 ネズは急いで目元を拭うと、口の内側を噛んで、優しいリズムで妹の背を撫でてやる。自分は泣いている場合じゃない。

 妹も、この街も、人も。両親が命と引き換えにしても良いと愛し抜いた人たちで、その遺志を継ぐのは自分しかいない。

 曇天の下、ネズはその日、子供でいることをやめた。



「……移転? ジムじゃなく、スパイクタウンのですか?」
 ネズは、目の前の大人が持ちかけた話を繰り返した。ブラインド越しに午後の光が差し込み、雑然としたデスクに反してすっきりと整えられた都会的な執務室。自分のジムとは大違いだった。
「ええ。ダイマックスバトルを、ガラル全土のジムで見られるものにするのが、わたくしの目指すところですから」
「それで、おれに、サインしろってことですか」
 様々な書類が積まれたデスクの中で、ネズの眼前にある紙の束は、ネズの署名を書き込む同意書が一番上にあった。
「そうです。わたくしはね、ネズ。ぜひきみに、イエスと言ってほしいんです」
 書類を前に、ポケモンリーグ委員長であり、マクロコスモスグループの帝王でもある男がゆったりと微笑んだ。この男は、なにより笑顔が気味悪い。ある種の仮面のような笑みは、男の言葉が真実かどうかを曖昧にさせるのだ。
「おれは」
 思考するより早く、ノーが口からあふれ出そうになる。なにか、よくない予感がした。
「ネズ」
 眼前の男は、ネズを穏やかに遮る。この男は自分の周辺にいなかったタイプの人間だ。にこやかで、合理的で、何より悪意がないから最悪だった。
「きみも、もう法的には大人です。自分で決められるんですよ」
 十八になった途端に呼び出されたのは、ネズが成人になるまで待っていたのだろう。法的な同意がひとりで行えるようになるまで。ナメられているな、ネズは内心で中指を立てた。
「中を見るくらい、いいですよね?」
 開けてみなければ、そこにあらゆる悪徳が詰まっているのか、底の方に希望が入っているのかも分からない。ネズは指で同意書をつまみ上げ、詳細が記された書類に目を通す。契約が絡むためか複雑でお堅いテキストは、今すぐ理解するには難解だった。
 それだけに、このままサインしてはいけないと理解する。
 めくっていくと、移転に伴っては、マクロコスモスバンクが、破格の融資を行うと書かれていた。立ち退きに同意する世帯や事業主には協力金も出る。ネズは書類の束から目を上げた。
「やっぱり、おれの一存では決められません」
「なぜです? きみは、スパイクタウンの主要産業を牽引する若者だ。きみだって、理解しているはずです。きみの故郷の現状と、今後ジムがどのような苦境に立たされるか」
 ネズに代替わりして二年。スパイクジムの戦績は勢いづいている。名門の凋落から新たな希望が生まれたなどと評されているが、それも恐らくこのシーズンまでだと、ネズ本人は至って冷静だった。
 この前のチャンピオンカップが終わってすぐ、スパイク以外の主要なスタジアムが、全てダイマックスのできる物へ置き換わった。以前にポプラと話した事は、遠からず現実になる。ダイマックスする事が前提の試合。見栄えの良い、迫力のある試合を喜ぶようになったオーディエンスが、スパイクタウンの事をどう見るか。そんなものはネズ自身もよく分かっている。
「これはね、ネズくん。未来への投資です。わたくしたちが、一千年先まで続く未来のための」
 それで街ひとつ引っこ抜いて植え替えるのだから、乱暴なガーデニングもあったものだ。ネズは内心で毒づいた。
 目の前で微笑む男は、遠い未来の光を仰いでいる。美しいものを見上げる時、人はこうやって、足もとの雑草を無造作に踏むものなのか。
「きみの決定なら、きみに依存している皆もノーとは言えないでしょう?」
 瞬間、ネズの血の気の薄い顔が更に白くなった。奥歯を噛み締め、気づけば椅子から勢いよく立ち上がっている。男の後ろに控える秘書の女が気色ばんだ声でネズの名を呼ぶ声が、耳鳴りまでしだした耳に、ボンヤリと聞こえた。
 食ってかかろうとする体を、妹の顔を思い出して引き止め、立ち上がった拍子に倒した椅子を元に戻すと座り直す。
「……すみません、おれをそんなに買ってもらっているとは思わなくて」
 驚いちまいました。あからさまな嘘を涼しい顔で言うが、この場では口に出した言葉だけが真実だ。相手がそうしているのだから、こちらもそうしたって咎められない。
 けれど、言葉に出さなかった怒りはネズの中でハウリングを起こす。
 おれに依存してる? そう「させた」のはおまえたちだ。スパイクタウンにポケモンバトルの興行しかなくなったのだって、元をただせばガラルから外資を締め出したおまえたちだ。失業者と年金暮らしの多いあの街を動かせば、生活をマクロコスモスに依存せざるを得なくなる。それで本当に良いと思ってるのか。
 おまえは、おれたちの、おれの愛するものを、また。
 ネズは、叫びたい言葉を幾つも飲み込んで、左右非対称な笑顔を浮かべた。
「おれなんかに、あるはずないでしょう、そんな権限が。街が納得しない事はできません」
「なにを言っているんです? 謙遜もほどほどにしなさい」
 リーグ委員長は、優しい支配を湛えて両手を広げた。
「わたくしは、素晴らしい話だと確信していますよ。お返事は、来月の、マクロコスモス杯が終わってからで結構です」
 返答の期日は、書類の終わりに記載されていた。全てを片手で掴んで、ネズは立ち上がる。
 この大人は恐ろしい。マッギョが通る隙間もないほど周到に、自分の願いを叶えようとする。ネズはマッスグマのような目で、オフィスを見渡した。
「検討します」
 機能的に整えられた街の、美しいオフィスで、ネズは完璧に感情を隠した。



 ポケモンリーグのロゴが入った書類ケース片手にローズタワーを出たところで、ダンデと鉢合わせた。
「ゲッ……」
 今一番会いたくない人間だった。
「ネズ!」
 その背後にリザードンを従えた少年王は、ネズの気持ちなど知らず、元気よく手を振って駆け寄ってきた。適当に合わせて切り上げよう。
「来月のトーナメント表は見たか? マクロコスモスの!」
 ネズは頷く。ローズタワーの大きなエレベーターで、仕事用のスマートフォンで確認したばかりだ。
「オレは初戦でキバナと当たるんだ!」
 キバナは今年のシーズンにナックルジムのジムリーダーに収まった、自分やダンデと変わらない年頃の少年だ。あの伝統と前例を重んじるナックルが異例の若さで抜擢しただけの実力は確かに持っていた。末恐ろしい奴が来た、というのが、ジムリーダーとしてスパイクを通過させた時のネズの印象だ。
 彼がジムチャレンジでやって来たときは、一度追い返すことに成功した。その時の、少年の驚愕と怒りの表情。受け入れギリギリで戻ってきたキバナは、まだ不揃いだった手持ちを全て最終進化まで育て上げていた。そして、ネズをナメていたことを詫び、闘争心剥き出しの吊り上がった目で、ネズたちを乗り越えて行った。
 その表情が焼き付いていたため、のちにジムリーダーの顔合わせで再会した時、別人のような人当たりの良さに、内心驚いたものだった。
「アイツとの試合はいつも最高に楽しいんだぜ。魂が、コイツの尻尾みたいに、わっと燃えるような気持ちになるんだ」
 そう言って、ダンデはリザードンをふり仰いだ。聞かれてもいないのに、本当に楽しそうに話す。ポケモンバトルについて話す時のダンデは、まるで太陽のようだ。その強さと天真爛漫な輝きで、あまねくガラルを照らす。
 だからこそ、この少年は理解しない。自分が強く輝けば輝くほど、居場所を追われるものがあると。
 もちろんダンデに責任はない。本人がそうありたいように輝くだけだ。そうあるべく誘導している人間の存在には気が付かないまま。
 幼い王はポケモンが好きで、ポケモンとのバトルが好きで、それだけでいいのだと。この少年が座る玉座の後ろには、ローズという男の、あの笑顔がある。そしてダンデはそれに気が付いていない。
 ネズは理解してしまった。あの輝きに熱狂する群衆とかいう怪物が、「ダンデのようでない」やり方を許さないだろうと。ローズが作ったシステムという盾はあまりに強固で、自分がどんなに爪を突き立てても、傷一つつかない。
「準決勝ではオマエとバトルしたいな! ネズとはまだ戦ったことがない」
 ネズはジムチャレンジャー時代、ダンデへの挑戦権を賭けた試合で敗退した。あの時は本当に接戦で、ダンデとも戦えたかもしれないと本気で思った。
 あんな熱量で試合ができたのは、あれが、自分のためだけの戦いだからだ。もうそんな機会は来ないかもしれない。
 今のネズは、一試合にかかる重力が違う。甘んじて受け入れたはずのそれを振り切って戦いたいという矛盾した気持ちを、派手なメイクと歌うようなパフォーマンスで押し込めている。ダンデに挑むということのプレッシャーも、ジムチャレンジャーだったころとは全く違った。
「オマエとも、お互い高め合える勝負を楽しみにしてるぜ」
「……そうなるといいですね」
 ネズは最低限の言葉だけ残し、ダンデの隣を通り抜ける。これ以上この無邪気な太陽の側にいると、自分が苛立ちと劣等感で、灰も残さず焼かれる気がした。




 厚く空を覆う鉛色の雲。吹きつける北風を吸い込めば、潮の匂いに肺の芯まで冷える。スパイクの冬だ。
 両親になにか言いたい事が溢れてしまう時、ネズは、墓地ではなくここに足を運ぶ。もう管理する人間がいない港。倉庫は取り壊され(取り壊してくれただけでも良かった。おかげで商工会の巡回がやりやすい)、錆びたフォークリフトが何台か放置されている。
「……どげんしたらよか」
 伸ばしかけの髪を強風に撫でさせるまま、ネズは砂まみれのコンクリートに座り込んだ。
 ローズは自分なんかより余程上手く戦い方を心得ていた。あの日のローズの提案は、マクロコスモスグループとリーグ運営の連名で、全戸への文書による通知、という形で街にもたらされたのだ。ネズが対応に時間を要することを分かったうえで、委員長からの先制を仕掛けられてしまった。今、同意書を含めた書類の束は、後見人(ゴッドマザー)である弁護士のもとにあり、内容をあらためている所だった。
「おれがダメなやつだから」
 街の中で、キルクスが親子喧嘩で二分された時より、静かで冷たい分断が始まろうとしている。
 ネズはこの街を動かす事には反対だった。こんな好条件をただで提示してくるのは妙だと考えているし、移転先の生活基盤が、マクロコスモスありきに変わるだろうことも、懸念事項だった。なにより、ネズが「気に入らない」と感じた事へ首を縦に振れない性質の人間なので、始末が悪い。
 そうだ。気に入らないのだ。スパイクタウンをナメた態度も、上から賜ってやるという笑顔も、気に入らない。
 スパイクタウンはここにあるからスパイクタウンなのだ。移転の候補地はいくつかあったが、どこもここからは遠すぎる。名前が同じだけの違うものになるだろう。
 荒涼とした曇り空と黒くうねる冷たい海。寒さを跳ね返すアーケード屋根とシャッターに、強い酒と、音楽。小さな田舎街特有の煩わしさもひっくるめて、ここがホームだ。
 けれど、今のネズに街を離れたい人を止められる材料がない。あんなに好条件なら移転もやぶさかでない、という住人の声も当然のことだ。
 今のネズの周囲には、商工会とジムのフロントを中心に、スパイクを何としても存続させたい人間が自然と集まっている。ネズが移転の話を持ち帰ってから、マクロコスモスグループの干渉を避けようと関係各所を再度洗い直し始めているのだ。今のガラルの制度では銀行の融資や公的な補助金もあてにできない。マクロコスモスグループに漬け込まれてもいけない。
 ただでさえ減った取引相手を更に厳選し、新規のスポンサーを掘り起こし、商工会とジムをやりくりして。それでも足りない分はネズの年俸と音楽活動の収入を様々な名目で街へ分配することをネズは承知している。父もそうやっていたらしいことを、過去の資料で知った。
 先細りしていく故郷に、十八の自分ができることなんかたかが知れている。ネズは冷たい外気を思い切り吸い込んだ。
 あの男が向ける無数の剣に形があったなら、どんなに楽だったろう。あの男が揺さぶるのは、ネズの音楽と同じく人間の感情だが、自分と違って、不安や欲望に小石を投げ込み波を立てる。その波はいずれ他の人間とぶつかり、大きくなる。そしてこの街を見えない大波で押し潰そうとしていた。
 ネズは立てた片膝を抱えた。
 自分に付き合ってくれる大人たちは、思うようにやって良いと言ってくれる。その信頼に比例して責任が両肩に乗る。その重さに自分が潰れてしまう気がした。
 もし今、両親がいて、自分の泣き言を聞いてくれたら。妹のいる前ではそう考える事さえ後ろめたい弱音が、ネズを悲しみへ引き込む。
(母さんみたいに、みんなをまとめられる自信がなか。父さんみたいに安心させることもできん)
 こんな有様で、ここから先、自分なんかにスパイクタウンのアイコンが務まるのだろうか。今ネズの胸に寄せ返す波は、悲しみと己への失望だった。
 うなだれるネズの耳を、ここに来るはずのない足音が叩いた。顔を上げる。
「アニキいたあ!」
 無防備な表情で振り向くと、やはり、妹だった。
 淡いピンクのマフラーを巻き、暖かい黒のコートを着込んで、こちらへ駆けてくる。モルペコも一緒だった。隣家の夫婦からプライマリーへ迎えに行ってもらったはずなのに。
「おまえ、どうして」
「帰ってきたとにアニキがおらんけん、モルペコと探しに来たんよ」
 妹は、座り込むネズにぎゅうと抱きつく。
「今日はマリィ帰るころには家にいるって言ってたとに。なにしとうと?」
 ネズは答えず、妹の背を撫でた。今度一人になりたい時には、もっと上手く隠れる場所を探さないといけない。
「おまえを淋しがらせて、ダメなアニキだね」
 妹が首のマフラーをほどいて、ネズに巻きつける。
「アニキ、カゼ引くけん」
 自分の首には短すぎるそれを強く巻かれ、危うく首が締まりかかったので優しく止めた。
「マリィ、妹よ。気持ちは嬉しいけどアニキには短いから、おまえがしていなさい」
 妹にマフラーを巻き直してやる。余った端をリボンのように結んであげると、妹はそのネズの手を掴んだ。
「アニキ、冷たかよ。帰ろ」
 そうだね、と、ネズはマリィの頬を撫でると、妹は嬉しそうに微笑んだ。
「おれがもっと、しっかりせんばいけんね」
 呟くネズの声は、風に飛ばされて海へ消えて行った。
「マリィ。沢山歩いて疲れたでしょう。おいで」
 妹へ両手を広げると、腕に飛び込んでくれた。そのまま抱き上げ、モルペコに尋ねる。
「モルペコ、おまえボールに入りますか?」
 足元のモルペコは、ボールよりネズがいいらしく、自分も乗せろと踊るように跳ねまわる。しょんなかね、と、地元の言葉で呆れて、ネズはもう一度屈んだ。心得たモルペコは、ネズの背中に飛び乗り、そこから肩口へよじ登る。
 ネズの首に腕を回す妹が、その手をほどくとモルペコを彼女の腕へ迎え入れた。
「アニキ、あんね」
「うん」
「マリィ決めたけん」
 そのモルペコを強く抱きしめ、マリィは口を開く。
「……マリィ、ポケモントレーナーなりたか」
 モルペコも、まるでマリィに同意するよう声を上げた。
「それ、は……」
 ネズは妹が自分と同じ道を選ぶことを、喜びより先に、不安と共に受け止めた。
「素敵だと思うけど。どうして?」
 もしネズが不甲斐なくて、妹がそれを助けたいと考えてくれているなら、それは丁寧に諭して……
「アニキの試合、ばりかっこよかけん!」
 興奮気味に喉を震わす妹に、ネズは思考と歩みを止めた。ブーツが砂を踏みしめて擦れる音がする。
「いつもね、アニキが外で試合してる時、お店で、アニキすごか、強かって、みんなして応援しとるんよ」
 お店、というのは、ネズが不在の時面倒を見てくれる近所のパブの事だ。試合のある日は大型のモニタで必ずネズの試合を流してくれるらしい。
「アニキ?」
 ネズは訝る妹を抱きなおした。
「みんな、楽しそうでしたか?」
「うん。アニキが負けても、惜しかったねって笑っとる」
 ネズは自分のバトルが街でどう受け止められたか、リアルタイムでは知れない。戻ってくるたび労われ、愛されているとは思うが、それはそれだ。ホームに恥ずかしくない試合をしたいと思っても、上手くいかないことだってある。そんな自分の試合を、笑顔で見てもらっていると、今日初めて知った。
 ネズの驚きをよそに、マリィは続ける。
「アニキがかっこよかけん、マリィも、アニキみたいに、あくタイプをかっこよく使うったい!」
 かつては自分も、ジムでのパブリックビューイングや、試合を流す店で親や友人とエールを送っている立場だった。あんな風に戦いたい、自分ならもっと強いと胸に宿した幼い憧れと自惚れ。妹もそうなのだろうか。
「それでね」
 妹がネズの耳元に口を寄せて囁く。
「それで、ジムチャレンジして、ジムリーダーのアニキに勝って、マリィがチャンピオンになるんよ」
 北からの風さえ打ち消すように耳をくすぐる妹の決心に、ネズは笑顔を作った。
 そうなったら、どんなにか素敵だろう。自分と父に似て負けず嫌いで、母に似て自由で少し我儘、華があるマリィの周りには、自然と人が集まる。チャンピオンもいいけれど、ジムリーダーにもきっと向いているだろう。街の顔で、街の希望で、誇り。
 自分なんかより、この子はずっとそれに相応しい。
 妹が、自分と同じようにガラルを巡り、ポケモン達と良いチームを作って、ネズを越えるために街へ戻って来る。その時まで、妹の夢ためにジムリーダーを続けるという考えは、すとん、と、ネズの中に落ちた。
「アニキも楽しみができましたね。おれと戦うおまえ、どれくらい強くなるかな」
 彼女に不釣り合いな重い荷物は、全部自分が持てばいい。それならやっていける。
「マリィ、ポケモンバトル、やってもよか?」
 妹は気が付いているのかもしれなかった。兄の顔が険しくなる話題について。だからこんなに、不安げに自分を見るのだ。
 ネズは腕の中におさまるマリィの額にキスをする。ついでにモルペコにも。
「ポケモンバトルが好きで、自分の力を試してみたいんでしょう? それなら、アニキはダメなんて言いません」
「ほんと?」
「本当です」
 妹ははにかんで兄の肩に顔を埋める。
「嬉しか」
 その愛らしい笑顔は、ネズの荒んだ心をいっぺんに穏やかにしてしまった。
「……おれも嬉しいよ。でも、ひとつだけ。兄と約束してください」
 マリィを、正面で向かい合うように抱きなおす。
「もしも、チャンピオンよりなりたいものができたら。その時はアニキに必ず教えるのですよ」
「どうして?」
 この約束は、今は分からなくていい。もしかしたら来る「いつか」への予防線だ。妹には、「そうするしかない」なんて思わせたくなかった。いつだって、「こうしたい」方へ駆け出してほしかった。
「どうしてもです。さ、帰っておやつにしましょうか」
 妹がポケモントレーナーの道を歩むとして、すぐにスパイクジムの所属にはしたくない。スパイクジムリーダーの妹という立場は、彼女の翼から勢いを削いでしまうだろう。立場は人の選択肢を狭めることもある。そうするしかない、なんて、自分だけで沢山だ。
「アニキはね、おまえたちがいてくれて、本当によかった」
 ボールの中にいる相棒たちにも聞こえるようにネズは言う。千年先の未来を憂うのは余裕のある人間が好きにしたらいい。数年先の未来のため、自分にできることは全てやってみようと、ネズは妹に頬を寄せた。





 ネズの耳にスタジアムの歓声が届き、タオルの下で目を開ける。どうやらダンデがキバナに勝ったようだった。
 マクロコスモスグループが主催のトーナメント戦、一試合目を終えたネズは、ロッカールームに戻るや、ベンチで仰向けに寝そべった。タオルを顔にかぶせて、人に話しかけてほしくないという意思を示し、つかの間意識を手放していた。
 このトーナメントが終わった翌週が、委員長が迫った街の移転に対する回答期限になっている。同意しかねる、と、ネズは返答するつもりだ。なにか言われたら「自分の一存」で押し通してしまえば良い。街の人もネズの決断にノーは言わないだろうと、先に吹っかけてきたのは向こうだ。
 けれど、自分の選択は正しいのか、悪い想像ばかりが膨らんで、ネズを蝕んでいる。おかげで目の下のクマは濃くなるし、何を食べても味はしないし、昨夜からは水以外口にできなくなっている。
 初戦のメロンはどうにか突破したが、試合の内容は自己採点で相当に悪いものだった。オーディエンスには気づかれないような不協和音がメンバーとの間にあった。
 こんなザマではダンデとは試合にもならない。調整するべきはまず自分の心身の回復だと、試合も見ずに寝転がっていた。
「ネズくん」
 そんなネズから遠慮なくタオルを引っぺがしたのは、さっきまで対戦相手だったメロンだ。
「どうしたんだい。アンタ今日、ちょっと変だよ」
 試合をした相手には分かってしまうものか。
「……寝れてなくて」
 この人相手に誤魔化しは通じない。正直に答えると、メロンは眉を逆立てて頬に手を当てた。
「妹さん?」
 メロンには、マリィのことであれこれと相談に乗ってもらっていた。ジムリーダーになって日も浅い頃、キルクスでの試合前に妹が熱を出したと聞いた時、みっともなく取り乱し、マリィが心配ですと帰宅しようとしたネズを一喝したのがメロンだ。
「いいえ。ちょっと、他のことで」
 額を抑えて、ネズは起き上がる。痛み止めのおかげで寝不足由来の頭痛はおさまってきた。空いたスペースにメロンが腰かける。
「色々と……」
「その顔! 言いたくないなら無理強いはしないけど、ダメになりそうならちゃんと誰かに話しな」
「緊張してるんですよ。初めてチャンピオンと当たりますから」
 ネズは、そういう事にしてくれ、と言外に滲ませて、メロンの手からタオルを受け取った。メロンは、深いため息をついて、そういう事にしてくれた。
 ひとりになりたくて、ネズは立ち上がる。
「行ってきます」
 メロンは、ふらつくネズの腕を、思ったより強い力で掴んだ。振り返るネズに、メロンは囁く。
「アンタが抱えてる物は、ここに置いていくんだ。試合の相手に失礼だろ」
「……」
「全力出しといで。負けたアタシに恥かかせる試合したら、許さないよ!」
 ばん、と、叩かれた背中が痛む。愛の鞭をどうも、と眉を下げて笑うネズを、カブのエールが押してくれる。
「ネズくん! 楽しんでおいで」
 振り返らず頷いて、ネズはコートへ続く暗い通路に出て行った。
 次の試合に備えて整備の行われるこの空気と音は、ネズを集中させてくれる。目を閉じて、相棒たちのボールをひとつひとつ、両の指で軽く叩く。ネズの指が触れると、ボールの中からコツ、とメンバーが拳を返してくれる。試合前のルーティンだ。タチフサグマがボールの中で鳴いて、ネズは目を開けた。
 そこに立っているのは泣きそうな少年ではなく、スパイクタウンのジムリーダーだった。



「ありがとうカラマネロ。本当によくやってくれました」
 ドラパルトを倒したカラマネロをボールに戻す。そのまま温存していたタチフサグマのボールを放って、フィールドでダンデとにらみ合う。
 ダンデの前には、あの太陽色の竜が堂々とした姿を現していた。
 ついに、この局面を拝むことができた。どこに行くにも一緒のくせに、バトルになるとてんで出て来やしないリザードン。他のメンバーと粘って、粘って、ようやくネズの前に引きずり出した。
「リザードン! 行くぜ!」
 ダンデはガラル粒子の赤い輝きを纏ったボールを放る。思わず、髪を抑えるふりをして片耳を塞いだ。痛いぐらい鼓膜が震え、燃え盛る火竜が、ネズとタチフサグマの前に現れた。灼熱の風に前髪が躍る。
 白と黒の視界の隙間から、その竜を従えたダンデの視線を感じる。なにかを量るような目。腹立たしいほど「絵になる」姿だ。
 ネズの頭には無数の組み合わせが現れる。ブロッキングで耐える、じごくづきを仕掛ける……どちらも決定打に欠ける。
 考える速さがいつもよりスローなのが煩わしい。頭を振る。
 相手の選択は。安定して勝ちを取るなら、ダイジェットか、キョダイゴクエンだろうか。リザードンを倒すなら、タチフサグマのカウンターで足りるか。タチフサグマの一発が急所に当たれば、もしかしたらがある。ただ、それすら読まれていたら。リザードンはダイウォールを使えるわざを覚えているだろうか。さっきの試合を見ておけばよかった。嫌な汗がにじむ。
 その時、ダンデのひとり言が聞こえてしまった。
「……ダイマックスしないのか?」
 本当に、純粋なクエスチョンとして飛び出したその声を拾ってしまったのは、ネズの聞こえすぎる耳のせいだ。
 持っている道具を、なぜ有効に使わないのか。そういう声だった。
 ネズはマイクを強く握った。その右腕を見る。惰性でつけているだけのダイマックスバンド。腕におさまってはいるけれど、結局ジムリーダーとして使ったことはなかった。さっきからガラル粒子を吸い上げて、ネズを急かすようにうるさかった。
 ダンデに視線を戻す。こちらまでやけどしそうな熱を背中に受けて、なお爛々と目を輝かせるあどけなさを残した少年。その輝きに、ネズは咎められているような気になった。
 どうして最善のパフォーマンスを見せないのかと。
 誰も自分へ近づけない高みで輝き続ける少年の双眸は、このバトルコートで息を吹き返すように光を増す。そして、「全てを出せ」と求めてくるのだ。
 ガラルのみんなで強くなると、この少年は言った。そのために相手の強さを引き出すバトルがしたいと。
 それはつまるところ、目の前に立つ暴君にファイティングポーズを取らされるという事だ。自分の決断以外で引き出された意に沿わない「最高の」選択、その先の敗北。
 ダンデの眼前で自分のすべてを晒すなら、自分が取るべき行動は一つだった。
 静かな覚悟がネズの胸に灯った。それはライブ前、スタッフたちがステージへの道を照らしてくれる明かりのように、ネズに行くべき道を示した。
 いつも試合中にネズを押さえつける重力が、ふと軽くなるのを感じる。
 この「スパイクタウンのジムリーダー」をいただくネズは、存在の全部を賭けて、愛するものに示さなくてはいけない。
「おれのバトルは、ただ勝つんじゃ意味がないって気がついたんです」
 ダイマックスが使えない街で、ダイマックスを使いたくない自分のバトルを見て、目を輝かせる妹と、ホームのため。
「チャンピオン、ダンデよ! おまえの強さに、おれはおれのスタイルで挑みます!」
 マイクに添えていた右腕を顔の前にかざし、バンドの留め具を口で外す。
「この、スパイクタウンの! ネズは!」
 腕を振りぬき、枷をフィールドへ捨てた。
「故郷とおれの誇りにかけて! ダイマックスは使わねえんですよ!」
 軽くなった右手でマイクを掴んで背を逸らし、吼える。相棒も、猛る声を上げネズとこの道を行くと答えてくれた。
 ダンデに向かって悪役じみた笑み浮かべる。
「来やがりなさい! おれの覚悟とおまえの強さ、どっちが上か確かめましょう!」
 幼い王者の瞳が見開かれた。ダイジェット以外ならまだ勝つチャンスがある。
「……行くぜリザードン! キョダイゴクエン!」
 ネズごと巻き込まれかねない火炎だ。けれどネズはその場から一歩も退かなかった。相棒も同様だ。ガラル粒子を流用したハニカム構造の壁が現れ、客席に届きそうな炎を弾くのが視界の隅で見える。
 陽炎が立つ向こうで、相棒の強い声が響いた。事前に組み立てた戦略が通せるというサイン。タチフサグマにも負担をかけるが、お互いそれで行こうと納得ずくの作戦だ。
「オーケー! さすがタチフサグマ! カウンター!」
 リザードンの巨体が、タチフサグマの一撃に波打つ。間髪入れず、ネズはマイクスタンドを蹴り上げた。ダイジェットなしならカムラを使ってダンデのリザードンより早く動ける、ここだ。相棒の特性で与えられるダメージも膨れ上がる。
「タチフサグマ! すてみタックル!」
 そこを通せ! ネズはほとんど噛みつくように声を上げる。ダンデもほぼ同時に、リザードンの名を呼んだ。
「ダイウォールだぜリザードン!」
「!」
 ネズは目を見開き、奥歯で驚嘆と悔しさを噛み締めた。この速さで、ネズ達が仕掛けると読み切るのか。
 不可視の壁が相棒の突進を阻み、キョダイゴクエンの渦に巻かれたタチフサグマが限界を迎える。
「……ありがとう。よく付き合ってくれました」
 メンバーたちはみんな、最善を尽くして戦ってくれた。それで届かなかったのは、自分の、ジムリーダーとしての力不足だ。ダイマックスをしたとしても、勝つのは難しかっただろう。
 それでも、ダンデのリザードンに、ダイマックスをせず辿り着き、肉薄した。上等だ。ネズのやり方で勝てるかもしれない、そうオーディエンスが思ってくれたらそれで良かった。
 異様に震える指先で、どうにか相棒をボールへ戻す。手足が冷え切っている。自分が立ち方を忘れた生き物のようになっていて、マイクに縋りついたまま、ダンデと握手した。
「ネズ! 楽しい試合をありがとう! 決勝でもオマエに恥じない試合をしてみせるぜ!」
 そう言って天を衝くようにまっすぐ伸びた左腕。まだ準決勝だというのに割れんばかりの喝采を浴びる、幼い王。
 ああ。
 ネズは荒い呼吸の隙間で呻いた。
 太陽を直視したように白く、ぐるりと転回する視界の中で、その時確信した。

 あの太陽がガラルの中天にあるかぎり、ここに立ち続けなくてはいけない。



 目を覚ました時には医務室で、ネズの左腕にはブドウ糖の点滴がぶら下がっていた。
 半身を起こす。体はだるかったが、心はすっきりしていた。
「やっと起きたか。ねぼすけめ」
 からかうようなバリトンは、ここの医師だ。ジムリーダーになってから、色々面倒になると、仮病を使ってはここに逃げ込んでいた。何度か繰り返したら医師の方も仮病を見抜いていて、それでも匿ってくれた。
「食うと寝るはちゃんとしろって言ったでしょうが」
 青いスクラブの上から白衣を羽織った医師の、マスク越しの叱責。ネズが担架の上で、食事を抜いていたこと、睡眠が上手くとれなかったことを伝えたのは夢ではないらしかった。
 あんなコンディションで自分を追い込んだら、それは倒れるだろうな、と、ネズはぼんやりと思った。殊勝に医師へ頭を下げる。
「……すみません」
 サイドテーブルには、スタジアムのショップで売っているチョコバーとスポーツドリンクのボトルが置かれていた。医師は、食えるようなら食べろとのこと。
「ジムの人と一緒に妹さんが来てたけど、全然目を覚まさないものだから大変だったよ」
「妹、来たんですか」
 ネズは右手で顔を覆う。妹は、入院したとか、倒れたとか、父の死を連想させる出来事で、火がついたように泣いてしまう。葬儀を終えたあとで父にはもう会えないと告げた時からだ。その時の悲しみや寂しさは、今でも癒えていないのだ。
「泣いたでしょう」
「そりゃあもう、世界が終わったみたいよ」
 ユニフォームの胸元を握り、ネズは二度とこんな無様は晒さない事を誓う。
「今は?」
「事情を説明したらなんとか泣き止んでくれてね。それを置いて家に帰ったよ、ジムの人と一緒に。私物はリーグの人が届けに来たから、そこのロッカーで預かってる」
 医師が視線で示す小さなロッカーと、サイドテーブルの食べ物たちを一瞥する。
「そうですか……妹がすみません」
 医師は、別に怒ってるんじゃないよと言って、赤いダルマッカの飾りがついたボールペンをカチカチ鳴らした。彼の故郷では、ダルマッカは赤いのだという。
「元気な妹さんじゃないか。きみの事だから大事にしてるんだろうけど、泣かせるのは感心しないな」
 そんな事は言われる前から分かっている。ネズは無言で、妹のおきみやげに有難く手を付ける事にした。
「点滴落ちきったら動いていいからね」
「わかりました」
 チョコバーを齧っては、ちびちびとスポーツドリンクで流し込んでいると、医務室のドアが元気にノックされた。扉の後ろに二人分のシルエットがある。医師がこちらを振り返る。おれが頷くと、医師は「どうぞ」と入室を認めた。
「すみません、入ります」
 ダンデが後ろに委員長様を従えて入ってきた。
「チャンピオンがきみとどうしても話したいと。お加減はどうかな、ネズ」
 委員長の優しそうな声がネズの表面を撫でていく。ネズはベッドの中でシーツを強く握って不快さをこらえた。
「すみませんね。折角のショーに水を差しました。でも、あれが、あなたへのおれの答えです」
 ネズの言葉に、珍しく、委員長が取り繕うような種類の微笑みを浮かべた。
「それについては後日、正式な話をしましょうね」
 ネズは察した。移転の話、ダンデには言ってないのだ。そうだろう。少年には無垢でいて貰わないと、困るのはこの男自身だ。せいぜい恩を売っておくかと、ネズは頷くにとどめた。
「ローズさん、ネズとふたりで話してもいいですか」
 ネズたちのやり取りをよそに、ダンデは委員長を振り返る。委員長は鷹揚に頷いて、「エントランスで待っているからね」と出て行く。扉を閉める直前、ネズに目配せをして。恐らくこの後の予定もあるのだろう。早く解放しろと言いたいのだろうが、そんなことは今、丸椅子に腰かけたダンデ本人へ言ってほしい。
「ネズ、大丈夫か?」
「自己管理ができなかっただけです。病気とか怪我とかじゃないので。食べてていいですか」
 チョコバーを振って見せると、ダンデは頷く。
「別に、おれなんか見舞いに来なくても良かったのに」
「聞きたい事があったんだ」
 ダンデの、なにか問いただしたそうな目に、目的は見舞いでないことを悟った。
「勝負は分からなかったのに、どうしてワザと負ける手を打ったんだ」
 思ったとおりの質問がネズを突き刺した。
「おれは勝つつもりでしたよ」
「なら、どうして」
 互いを高め合う試合をしないのか。言いたいことは承知している。その無邪気さが、ネズの癇に障った。ネズが戦う意味を否定するのは、ネズにとって、自分が抱くものを貶めることだ。
「しゃーしか。分からん奴ったいね」
 ネズは抜き身の苛立ちをダンデにつきつけた。噛みつく寸前のような、冷たく鋭い声を低く響かせる。
「おれも腹が立っとるばい。なして、おまえは自分のやり方ば正しかー信じとうと?」
 試合のパフォーマンスなんかより余程ナマの威嚇を見せると、ダンデは息を飲んだ。
 今でこそ大人しくしているが、ネズはもともと荒っぽい少年だった。普段物静かでいるのに、友人や家族、自分のポケモンを侮辱されたら、例外なく挑み掛かって、誰だろうが叩きのめした。その時のように、ネズはダンデを下から睨み上げる。
「おれはおまえにはなれん。そのくらいのこつ、おまえも分かっとるでしょ?」
 わざと選んだ地元訛りの皮肉で、どこまで伝わるか知らない。伝わらなくても良いとさえ、ネズは思った。これは一方的な宣誓だ。
「ええか。よう聞きんしゃい。こっちばこっちのやり方で、おれたちの強さば見せつけちゃる。そいなら、いっちょん文句なかろうもん」
 唇の片方だけを意地悪く引き上げた。
「ガラルんみーんなして強くなんのが、おまえの願いやけんね? そうやろ?」
 おまえの願いは叶えてやる。ただし、おれのやり方でだ。
 食い入るように自分を見るダンデは、その輝く目を戸惑いで揺らしていた。ネズは肩をすくめて、下手な笑顔を浮かべてみせる。
「……なんてね。脅かしてすみません。こういう悪いやつ(ヒール)がひとりぐらいいた方が、リーグも盛り上がるでしょ」
 手元に残ったチョコバーを口に突っ込んで、これ以上の会話を拒む。
 ダンデは試合の時とは違って、さんざん言いよどんで、一言だけネズに告げる。
「また、必ずバトルをしようぜ」
 ダンデにとって、バトルというのはきっと、「理解する」儀式なのだろう。だからこそ、ネズはそれを遠回しに拒絶した。
「そんな日が来るならね」


 バトルタワーと名前を変えた塔のエントランスを出て、ネズはカットソーの腕を擦った。珍しい晴れ間だが、スパイクより北にあるシュートシティは肌寒い。もう一枚着てくるべきだった。
 小さく肩を回して、いつもの猫背に戻る。
 これで、やっと、あの不愉快な兄弟の不愉快な事件から解放された。
 ポケモンがダイマックスを強制させられたことが許せず、権威を笠に着るあの兄弟が許せず、妹の同期を放っておけなかった。それだけで首を突っ込んだのだが、一部始終に関わってしまった大人として、責任がある。
 謝罪ツアーのローディーを終えたネズを待っていたのは、警察からの度重なる聴取、王族側の弁護士からの接見、委員会からの聞き取り調査、報告書の作成など、など、など。
 今日は朝から半日拘束されて、最後の確認と、守秘義務に関するいくつかの書類に署名をし、ようやくの帰宅だ。気晴らしにキルクスのブティックで散財するつもりでいたが、タワーの社食でランチプレートをモソモソと口に突っ込む頃には、そんな元気もなくなっていた。
 停車場で最後のタクシーを捕まえる。
「すみません、スパイクまで……」
「あ、待ってくれ! オレも一緒に乗るぜ」
 Tシャツにジーンズ、頭にはキャップというラフな格好のダンデが、ネズをタクシーに押し込み、隣にどかっと座る。
「なんで乗ってくるんですか」
「オレも今日は実家に戻るんだ。半休だぜ」
「おれは、なんで相乗りしようとしてんですか、って聞いてんですよ」
『お客さん、大丈夫です?』
 見かねた運転士が無線で尋ねてきた。ネズはため息をつくと、車内の無線を掴み、運転士に答える。
「平気です。急ですみませんが、先にブラッシーまでお願いします。そのあと、あなたのアーマーガアが飛べそうなら、スパイクまで。料金はそれぞれで支払います」
 長距離の航行になるが、運転士は、ウチの相棒はやりますよと快諾してくれた。その後『飛びますよ』と声がかかり、車体がふわ、と浮き上がる。
 バトルタワーの執務室が見える高さまで来たところで、キャップを脱いだダンデが、分厚い体を背もたれに預ける。
「オマエぐらいにしか愚痴が言えないんだ。すまない」
 今回の事件で、ネズはその経歴からダンデにあれこれと相談を受けていた。ジムリーダーとリーグの運営は違うと言ったが、リーグの運営側と渡り合った立場からの助言がほしい、と言われてしまえば、生来の世話焼き気質が顔を出してしまう。結局、ズルズルとダンデの便利屋まがいのボランティアを引き受けていた。
「そういうことでしたか」
 未だムゲンダイナの爪痕が残るガラルのポケモンリーグに、再びダイマックス絡みの不始末。リーグの運営に対する風当りは強まる一方で、ダイマックスバトル自体の是非まで問われ出している。
「仕方ないやつですね。ほら、ダンデ。『はきだす』」
 ブラッシーまでと運転士に告げてよかった。長くなるだろう。
「保護団体の人たちが、ここ何日か、ずっとオレに会わせろってタワーで張り込んでてな。昨日ついに警察沙汰になった」
 その一団なら、ネズも知っている。どこかのポケモン保護財団から叩きだされた勢力らしいのだが、とりわけダイマックスを嫌っており、SNSなどで活発に発言しているらしい。ネズがジムリーダーだった頃、スパイクジムにも接触があった。ダイマックスを使わないネズのアティチュードに共感と、ジムへの支援を申し出るものだった。だいぶ気前の良い申し出だったのだが、あればかりは、丁重にお断りした。
「また、面倒なところに目をつけられて……」
「ダイマックスを使う試合については改めて声明を出すと、伝えているんだが……」
 その声明についても、上手く委員会内で意見の取りまとめができないらしい。ローズがいたころは、マクロコスモスグループという巨大なバックがある種の抑止力になっていたのが、それがなくなってしまった。
「利権が絡むとこれだから。おまえ、どうしたいですか」
「もう少し、考えたいんだ。時間が欲しい。オレ自身を納得させられる言葉が出せない限り、ガラルの皆に軽々しく安心して欲しいとは言えない」
「……だからって、選手として、ダイマックスのない試合には戻れない、と。難儀な道選びますね。おれは、おまえらしくて良いと思いますよ」
 これが、リーグ委員長ダンデの、初めての試練だ。就任早々でこれとは、いささか難易度が高すぎる気もする。
「おまえ、SOSは出せてるんですか? こういう話は周りとできてます?」
 自分がそれをやれなくて、孤独になりかけた。ダンデにはそうなって欲しくないと思ってしまうのは、一度面倒を見て情が湧いたんだろうか。
「伝えているが、やっぱり、オレの言葉はまだ彼ら向きじゃない。それで、オレのアドバイザーとして、奉仕活動中のオリーヴさんを呼び戻そうって話が出てるんだ」
「へえ。口説ければ心強いじゃないですか」
 さんざん書類の上で喧嘩した相手だ。彼女が優秀な実務家であることはネズも知っている。
「これがどうにかできれば、後はおまえ、もう怖いものないですよ」
 それに、彼の味方はネズと違って、ガラルじゅうに大勢いる。ダンデを助けたいと自発的に名乗りをあげたスタッフもいるようなので、乗り越えられるだろう。
「そうか?」
 ネズは、あまり深刻にならないよう、そうですよ、と、軽い調子で言う。
「この哀愁のネズが保証してやります」
「……オマエの大丈夫は、心強いな」
 ダンデの声はそれきり途切れた。頭上で、アーマーガアの力強い羽ばたきが聞こえる。
「なあ、ネズ」
 帽子で顔を隠したまま、ダンデは言う。
「オレは、本当に、なにも知らなかったな」
 そこには、ネズの八年を慮るような、労わりと罪悪感があった。ネズは眉を持ち上げる。
「どれの話だか見当がつかないですね」
 ジョークめかして肩をすくめ、ネズはダンデから視線を動かす。シュートシティを寒さから守る城塞めいた壁が、眼下に伸びていた。
「覚えてるか? 初めてネズとバトルした、あの日」
「忘れるわけないでしょ」
 ネズは窓枠で頬杖をつく。
「おまえとの試合であの宣誓ができて、おれは良かったと思ってるんですよ」
 ダンデを相手にあのシャウトができたこと、それが、結果として街の命を繋いだ。ネズがバトルスタイルを明言したことで、わずかでも共感する人間たちの支持と支援を得られるようになったのだ。
「……あの時のネズが難しい時期だったのも、なにを背負っていたのかも、オレは知らなかった」
「教えませんでしたからね。バトルに関係ないでしょ?」
 ネズは窓に頭をつけて笑った。
「それとも、おれが助けてくれって言ったら、勝ちを譲るようなバカなんですか? おまえ」
「そういう話じゃない! 知らずにオマエを傷つけた、それを恥じているんだ!」
 ダンデはシートから跳ね起きる。車体がブランコのように揺れたが、上でアーマーガアが上手くバランスを取ってくれた。運転士から注意の無線が入ったのをネズが謝り、ダンデを呆れ顔で睨む。ダンデは、きまりわるそうにキャップで顔を隠していた。
 その向こう、窓の景色はいつの間にか十番道路を通り抜け、微かにナックルジムの壊れた王冠が見えている。
「ネズ」
 キャップの下からダンデの声がした。
「オマエの守っていたものを聞く資格は、オレにあるだろうか」
「……ダンデ」
 ネズは、ダンデのキャップを払いのけると口元を歪める。
「そんな顔で尋ねる話じゃねえですよ。大丈夫」
 もしもネズという存在が音楽であるなら、ネズの守ってきたものは、ネズを支えるベースラインであり、ビートを打つドラムスであり、かき鳴らすギターのコードだ。どれが欠けても物足りない、自分の一部と胸を張って言えるようになっていた。自分の故郷ばかりが被害者でもなかったと、街の悪い部分にも目を向けられる。いつの間にか、そういう物の見方が備わっていた。
「おれが守ってたのは、おれの誇りとか、愛するもの、ひっくるめて……つまるところ、おれ自身だったんですよ。それは強い光の前ではかすんでしまうから、一生懸命日陰を作ろうとして」
 ダンデの手から奪い取ったキャップを指で回し、戯れにかぶってみる。ネズの頭には大きすぎた。
「おれ、ガキだったから。あの頃は、おまえのことが眩しく見えたんですよね。きっと、おれは羨ましかったんです。おまえが、楽しいだけで生きていけると思ってて」
 そんなことなかったでしょうに、と、オーバーサイズのキャップをかぶったまま、ネズはダンデに向かって詫びた。
「おれこそ、あの時は八つ当たりしちまって、すみませんでした」
 ダンデが隣でいや、と、首を振る。
「オレみたいにはなれないと言われたことは、一度や二度じゃないんだ。でもな。とても大切な友人に、オレはそう言わせてしまったことがある。その人はそれを境にバトルをやめてしまって」
 ダンデの告白に、ネズは、リザードンに似た髪色の若い博士を思い浮かべた。今回の騒動の発端でもあり、功労者で、ダンデの幼馴染の。
「……別に、オレみたいにならなくたって良かった。バトルじゃなくても、強くなる道はいくつあっても良かったんだ。でも、あの頃オレは、そう言えなかった。未熟だったぜ」
 その目が、不意にネズを射た。
「オレに気づかせてくれたのは、オマエだ。ネズ」
 ダンデの少年のような笑顔に、ネズはダンデの帽子のつばを引き下げた。
「オマエが、あの時言ってくれたことをやり通してくれたから」
 ネズはあの試合以来、ずっとジムの順位を上位三位以内でキープし続けていた。トレーナー戦の負けをネズが全て取り返すようなこともあった。ネズがガラルのポケモンリーグで地位を築く限り、ローズが使う世論という盾は、自分にも強い味方だと分かったし、自分のやり方を貫いて勝つ、というのが、エールに答えるためにできる唯一のことだった。
「オマエは強かった! キバナとの引退試合、本当に素晴らしかったぜ!」
 あの試合も、自分のためだけに戦えた。妹との約束が途中から砂塵の彼方へ吹っ飛んでしまうぐらい、頭が焼けるような読み合いを繰り返し、お互いのスタイルがぶつかり合う、幸福な時間だった。
「……そんなに褒めても、なんにも出やしませんよ」
 悪態をつくネズの視界が開ける。ダンデが、ネズから帽子を取り返したのだ。
「なあ。またバトルしよう、ネズ」
 ネズは眩しさに眉を寄せるが、ダンデの視線からは逃げなかった。
「分かりあうためのバトルじゃない。ただのオレとオマエで。友達として」
 友達。ネズは目を大きく開いた。驚いたことを隠すように、人の悪い表情でからかう。
「社交辞令でも嫌いじゃないですよ、そういう誘い文句。楽しくなりそうです」
 ネズの返事に、ダンデの雰囲気が目に見えて華やぐ。
 その姿に安心してしまった自分に向かって、ネズは大げさにため息をついた。
「……おれも丸くなっちまいましたね」
 転がる石には苔がつかない代わりに、カドは取れるらしい。
「そうか? ネズはずっと細いから心配だぜ。食べてるのか?」
「そういう丸いじゃねえですよ。ほら、他に吐いちまうことはないんですか」
 肘でダンデを小突くと、ダンデは再びウッウのように、座り仕事が多すぎてつらいだの、打ち合わせ中にバトルの構成を思いついたらどうしたらいいだの、ダンデらしい悩みを吐き出し始める。
 それを「はいはい」と聞いてやりながら、ネズはポプラに「愉快な友人ができた」と言ったら、なんと言って皮肉られるだろうかと考えていた。

【meridian】 終わり

 右腕のダイマックスバンドが、パワースポットに呼応してノイズを吐き散らかす。耳を引っ掻く音に眉をしかめたまま、ネズは両手で抱えた赤いグリッドと化したボールを背後に放り投げた。
 そのまま目を細めて、タチフサグマがスタジアムを見おろす巨躯に膨れるさまを見守る。妹に読み聞かせてやった、豆の木の童話を思い出した。
 ネズは今、キルクススタジアムを借りて、初めてタチフサグマをダイマックスさせていた。ジムリーダー初年度の新人による個人的な頼みごとを、締めの間際なら、と引き受けてくれたメロンには頭が上がらない。
 やがて、頭上に赤い雲をいただく相棒の重たいフォルティッシッシモが、無観客のスタジアムを震わせ……その轟音が、ネズの耳から直接頭を殴った。
 ライブで耳栓もせず、うっかりスピーカーの前まで泳いで耳を駄目にした時より酷い。耳鳴りと、耳の中がボンヤリする聞きづらさ。立ち眩みしたような感覚にバランスを崩し、ネズは耳を塞ぐとコートへ蹲った。
 その様子を目にして、うろたえる相棒の声が耳からも地面からも伝わる。けれど、ネズの繊細な耳はそれすら耐えがたいノイズと認識して、一瞬意識が飛んだ。
 どうにか体を起こそうともがくけれど、三半規管がバカになっているのか、上手く立ち上がれない。見かねたメロンが駆け寄り、ネズを引き上げてくれた。
「……! ……?」
 メロンが何か言っている。ネズはどうにか耳を指さしたあと、人差し指を顔のそばで交差させた。
「聞こえません」
 そう言った自分の声が、自分の体で反響する。メロンの血相が変わった。振り返って、ジムの人間に何か指示を出している。それから、フィールドの側で見学していたマクワを手招きした。マクワは母と停戦協定を結んだらしく、スマートフォン片手にネズのもとへ駆け寄ってくる。
 マクワの持つスマートフォンの背面で、ロトムの目が瞬きする。スマホロトムはマクワの手から離れ、体を反転させると画面をネズへ向けた。
『ジムのスタッフがタクシーを手配したので、病院へ行きましょう。母が付きそいます』
 その画面下にマイクのアイコンが浮かび、今度は音声認識で、誰かの声が文字へ変換されていく。
『ポケモンたちの回復は、ウチのジムで責任もってやらせるからね。まずネズくんの体が先だよ』
 こちらは、文体からメロンだろう。ネズは自分が礼を言う声を、ボンヤリと遠くで聞いた。
「タクシーが来るまで、一緒にいてやっていいですか」
 返答は確認せず、ネズはふらつく体を叱りつけて相棒の足元に向かう。滑り止めの効いた氷色の床を進む途中で、時間切れになったらしいタチフサグマの姿が、元に戻った。ネズより少し背の低い相棒は、ネズを不安げに見つめたあと、両腕を伸ばした。
「心配させたね。すまん。おまえは悪くないけん」
 お互いの存在を確かめるように抱き合う。
「おれのせいやけん、気にせんでよか」
 周りの声が聞こえにくいのを良い事に、ネズはメロンから肩を叩かれるまで大丈夫を繰り返し、タチフサグマのゴワゴワした毛皮に顔をうずめていた。



「そう言うわけで、急性の音響外傷になりまして。まだちょっと聞こえにくいんですよね」
 数日後、ナックルシティの老舗レストラン。ネズはテーブルマナーの師匠であるポプラに、ことの顛末を告げた。
「じゃあ、やらなきゃいいのさ」
 魔術師は鼻で笑う。
「そりゃ、あなたはそう言いますよね」
 ……このババア、他人事だと思って。
「不服を顔に出すんじゃないよ。気が立ってるね」
 言葉と内心を切り分けたはずが、ポプラにはまるでバレていた。
「ダイマックスを使う試合、ポプラさんはどう思いますか?」
「人に尋ねる時は自分の意見をお言い。ほら、背中」
 魔術師は不機嫌そうに長い爪でテーブルを叩いた。ネズは無意識に丸まっていた背筋をただす。
「……おれは、あまり好きじゃなくて。スパイクが対応していない僻みではなく、あれは、おれの好きなバトルとは違います」
「坊やはそうだろうね。アタシは、客やうちの子が本当に安全か、まだ疑って(うたぐって)る」
 ポプラは旧知のマグノリア博士から詳細を聞いて、ひとまずは承知したそうだが、懸念は拭いきれないようだ。
「ただね、あんな楽しげにチャンピオンが使いこなして見せたら、こっちの好き嫌いに関わらず、あれがスタンダードになるさ」
 見事防衛に成功し、いまだ全戦全勝のチャンピオン、ダンデ。彼は近年導入されたダイマックスルールを、それはものの見事に試合に組み込んだ。
「実際、ローズの坊やはそのつもりだよ」
 魔術師は上品に引いたルージュの片側をつり上げた。
 ダンデがチャンピオンになった翌シーズンから、リーグの運営体制が一新された。マクロコスモスグループのオーナーが委員長の椅子におさまったのだ。委員長は自身の企業グループを総動員した巨費を投じ、スタジアムの移築、改修を進め始めた。
「アラベスクの移築も、だいぶ森を拓くことになるからね。交渉に難儀したよ」
 交渉相手は、ルミナスメイズの主人たるポケモンだろうとネズは推察した。
 アラベスクの住人は、森の住民たちを、畏れを込めてリスペクトする。許可が取りつけられなければ、きっとスタジアムの改修は事故が頻発し、怪我人、最悪死者が出る騒ぎになるのだろう。
「お疲れ様です」
「坊やもそのうち大変になるさ。覚悟しておくんだよ。ローズの坊や、アイデアだけはご立派なんだけどねえ」
 今の委員長によるロードマップでは、何年かかけて、主要な七つのジムが、シュートスタジアムのように、ダイマックスを試合に組み込めるような広さと耐性、観客の安全性を兼ね備えたスタジアムへ変わっていくという。
 七つ。そう。七つだ。そこにネズのジムはない。ダイマックスに必要なガラル粒子のパワースポットが街にないのだ。
「費用もこっちで持つことにしたから素寒貧さ。坊やの指導は続けるけど、しばらく新しいドレスはお預けだよ」
 そう言ったポプラはエレガントにワインを干すが、ネズは唖然としてしまった。
 新しいドレスどころの話ではない。全額持つとなると、気の遠くなるゼロが連なっているはずだ。色々と副業もあるだろうが、よくそんな。
「友達は大事にするものだよ。こう言う時に助けてくれるからね」
 舞台人としての顔も持つポプラは、何人もの著名な俳優と友人だ。ジムなスポンサーであるアパレルにしても、彼女自身が創業者と個人的に友人関係なのだと言うし、引退後も付き合いのあるトレーナーだっているはずだ。スタジアムに自身の劇場を併設したいというポプラの計画に、そういうところが手を貸してくれたのだろう。
「愉快なご友人がいるんですね」
「良い奴らばかりさ」
 願いを口にするのは簡単だが、実際叶えるとなると難しい。けれど、それをやってしまえるのが、彼女の老練なところだ。
 いずれ自分にも、そんな友ができるのだろうか。ジムや家族のことで忙しくしていたら、もともと少ない友人はいつの間にか進学や労働で外に出て、連絡もつかなくなってしまった。自分を可愛がってくれるのは、ポプラをはじめ、大人たちばかりだ。それも、亡くなった父母に似て、少し癖の強い。
「カネを出されると口を出される。恩を売っておけばいずれ取り立てできる。覚えておくんだよ、外弟子」
 なにがそんなに気に入られたのか、ポプラはネズをたまに外弟子と呼んでくれる。
「……坊やのところは、今のコートを使っていいって?」
「そうですね。ジムの公式戦で使えるやつ、あれしかないですから」
 今使っているバトルコートはシンプルで、百人も入れば満員になってしまう。お世辞にもスタジアムと呼ぶような代物ではなかった。
「なので、ダイマックスを絡めた練習は、このままキルクスを借りる形になりそうです」
「ナックルの方が近いだろうに」
「新人のおれが頼んで、オーケーして貰えると思います?」
「おや。格式高いジムのドアノッカーは、パンク少年には叩きにくいかい」
 ネズは本音をポプラに喝破され、不承不承頷いた。オーク材のテーブルに乗ったポプラの指が愉快そうに弾む。
 あの堅牢で厳格な佇まいを見ると、勝手に格の違いを感じて、何もしていないが後ろめたい気持ちになるのだ。
 それに、尖塔の頂で輝く冠を見るにつけ、薄暗い怒りが澱のように腹へ沈んでいく。
「なので、メロンさんのご厚意に甘えようかと」
 バトルコートの時間貸しは、本来、ジム同士で申請し、受理するものだ。それを、メロンは自分に直接連絡をしなさいと言ってくれた。
「それなら良いさね。甘えておきな。ああ、坊や、ライセンスお出し」
 ネズは言われるまま、ポケットから父の使っていたカード入れを出し、トレーナーライセンスをポプラへ。ポプラはウェイターを呼びつけ、林檎の発泡酒(サイダー)をグラスで二人分頼んでいる。
「あたしが保護者だよ」
 ネズのライセンスカードに書かれた生年月日の欄を見て、ウェイターは頷く。
「もう十六なんだから、少し悪い事教えてあげようね」
 はあ、とか、ああ、とかネズは言った気がする。本当のところ、たしなんだ事はあるのだ。父は、ネズがプライマリーを出る頃には、家での祝い事でサイダーだの度数の低いエールだのを舐めさせて、大人になった気にさせてくれた。
 黙っておいたほうが機嫌を損ねないのかな、と、ネズはわざとらしく畏まってみせた。




 その昔スパイクタウンには港があった。外資企業の大きな船舶が何隻も停泊し、倉庫も立ち並び、その荷役だの、船乗り相手の商売だので街は息をしていた。
 外からやってくる人間のために街を開け、様々な土地の訛りが混ざった言葉が飛び交う。夜ともなれば、目抜き通りにはどこかの店で演奏するバンドの音漏れやら、即興のピアノだのバンジョーだのが賑やかで、楽しそうな酔客の声がはじける。
 ネズはその音楽たちに囲まれて、プライマリーまでを過ごした。両親が忙しい時は預け先のパブで可愛がられ、年季の入ったピアノで遊んでいたぐらいだ。
 けれど、その賑わいは突然消えた。マクロコスモス・エネルギーが、ナックルジムの尖塔に新しい飾りを載いてからだ。
 ガラル粒子のそれはそれは素晴らしいエネルギー運用は、化石燃料に頼るガラルが抱えていた幾つかの憂慮を解決して、関連する幾つかの外資企業を撤退させるに至った。
 スパイクタウンを拠点にしていた企業も例外ではなかった。ネズが仲良くしていた友達はその親と一緒にいなくなり、夜の街から音楽が消え、酔客は質が変わった。
 外資の引き上げは、スパイクジムからも、最大のスポンサーがいなくなることを意味する。その頃にはユースのトレーナーとして頭角を現していたネズも、周囲の空気がおかしい事を感じていた。商工会議所の長を務める父の帰りも日に日に遅くなり、妹とふたり、家で過ごす日が増えた。
 妹と引き換えに旅立った母に代わって商工会の長を継いだ父は、家族、とりわけ亡くなった妻と、スパイクタウンを愛していた。
 父は、悩んで、奔走して、しまいに、見かねた母に連れて行かれたように急逝した。ネズが十三の時だった。
 街の人間たちは、父の葬儀では口々にネズに詫び、今後は力になると請け合ってくれた。皆の後悔からくる残酷な優しさは、ネズに少しずつ傷をつけた。
 加えて、まだ三歳だった妹は、お気に入りの黒いワンピースでネズに抱かれ、「どうしてみんな泣いとるん?」と無邪気にネズに尋ねる。
 ネズは答えられなかった。
 母の死から三年しか経っていない。その痛みを分け合って、言葉は少ないが支え合ってきた父もいなくなってしまって、腕には死の意味も分からない年頃の妹。二人で、どうやって生きていけばいいんだ。
 こらえていたネズの大きな瞳から、ぼたぼたと涙が落ちる。妹が初めて見る兄の涙に驚いて、釣られるように泣き出す。妹の涙を勘違いした周囲の悲しみまで高く大きく響いていく。
 ネズは急いで目元を拭うと、口の内側を噛んで、優しいリズムで妹の背を撫でてやる。自分は泣いている場合じゃない。

 妹も、この街も、人も。両親が命と引き換えにしても良いと愛し抜いた人たちで、その遺志を継ぐのは自分しかいない。

 曇天の下、ネズはその日、子供でいることをやめた。



「……移転? ジムじゃなく、スパイクタウンのですか?」
 ネズは、目の前の大人が持ちかけた話を繰り返した。ブラインド越しに午後の光が差し込み、雑然としたデスクに反してすっきりと整えられた都会的な執務室。自分のジムとは大違いだった。
「ええ。ダイマックスバトルを、ガラル全土のジムで見られるものにするのが、わたくしの目指すところですから」
「それで、おれに、サインしろってことですか」
 様々な書類が積まれたデスクの中で、ネズの眼前にある紙の束は、ネズの署名を書き込む同意書が一番上にあった。
「そうです。わたくしはね、ネズ。ぜひきみに、イエスと言ってほしいんです」
 書類を前に、ポケモンリーグ委員長であり、マクロコスモスグループの帝王でもある男がゆったりと微笑んだ。この男は、なにより笑顔が気味悪い。ある種の仮面のような笑みは、男の言葉が真実かどうかを曖昧にさせるのだ。
「おれは」
 思考するより早く、ノーが口からあふれ出そうになる。なにか、よくない予感がした。
「ネズ」
 眼前の男は、ネズを穏やかに遮る。この男は自分の周辺にいなかったタイプの人間だ。にこやかで、合理的で、何より悪意がないから最悪だった。
「きみも、もう法的には大人です。自分で決められるんですよ」
 十八になった途端に呼び出されたのは、ネズが成人になるまで待っていたのだろう。法的な同意がひとりで行えるようになるまで。ナメられているな、ネズは内心で中指を立てた。
「中を見るくらい、いいですよね?」
 開けてみなければ、そこにあらゆる悪徳が詰まっているのか、底の方に希望が入っているのかも分からない。ネズは指で同意書をつまみ上げ、詳細が記された書類に目を通す。契約が絡むためか複雑でお堅いテキストは、今すぐ理解するには難解だった。
 それだけに、このままサインしてはいけないと理解する。
 めくっていくと、移転に伴っては、マクロコスモスバンクが、破格の融資を行うと書かれていた。立ち退きに同意する世帯や事業主には協力金も出る。ネズは書類の束から目を上げた。
「やっぱり、おれの一存では決められません」
「なぜです? きみは、スパイクタウンの主要産業を牽引する若者だ。きみだって、理解しているはずです。きみの故郷の現状と、今後ジムがどのような苦境に立たされるか」
 ネズに代替わりして二年。スパイクジムの戦績は勢いづいている。名門の凋落から新たな希望が生まれたなどと評されているが、それも恐らくこのシーズンまでだと、ネズ本人は至って冷静だった。
 この前のチャンピオンカップが終わってすぐ、スパイク以外の主要なスタジアムが、全てダイマックスのできる物へ置き換わった。以前にポプラと話した事は、遠からず現実になる。ダイマックスする事が前提の試合。見栄えの良い、迫力のある試合を喜ぶようになったオーディエンスが、スパイクタウンの事をどう見るか。そんなものはネズ自身もよく分かっている。
「これはね、ネズくん。未来への投資です。わたくしたちが、一千年先まで続く未来のための」
 それで街ひとつ引っこ抜いて植え替えるのだから、乱暴なガーデニングもあったものだ。ネズは内心で毒づいた。
 目の前で微笑む男は、遠い未来の光を仰いでいる。美しいものを見上げる時、人はこうやって、足もとの雑草を無造作に踏むものなのか。
「きみの決定なら、きみに依存している皆もノーとは言えないでしょう?」
 瞬間、ネズの血の気の薄い顔が更に白くなった。奥歯を噛み締め、気づけば椅子から勢いよく立ち上がっている。男の後ろに控える秘書の女が気色ばんだ声でネズの名を呼ぶ声が、耳鳴りまでしだした耳に、ボンヤリと聞こえた。
 食ってかかろうとする体を、妹の顔を思い出して引き止め、立ち上がった拍子に倒した椅子を元に戻すと座り直す。
「……すみません、おれをそんなに買ってもらっているとは思わなくて」
 驚いちまいました。あからさまな嘘を涼しい顔で言うが、この場では口に出した言葉だけが真実だ。相手がそうしているのだから、こちらもそうしたって咎められない。
 けれど、言葉に出さなかった怒りはネズの中でハウリングを起こす。
 おれに依存してる? そう「させた」のはおまえたちだ。スパイクタウンにポケモンバトルの興行しかなくなったのだって、元をただせばガラルから外資を締め出したおまえたちだ。失業者と年金暮らしの多いあの街を動かせば、生活をマクロコスモスに依存せざるを得なくなる。それで本当に良いと思ってるのか。
 おまえは、おれたちの、おれの愛するものを、また。
 ネズは、叫びたい言葉を幾つも飲み込んで、左右非対称な笑顔を浮かべた。
「おれなんかに、あるはずないでしょう、そんな権限が。街が納得しない事はできません」
「なにを言っているんです? 謙遜もほどほどにしなさい」
 リーグ委員長は、優しい支配を湛えて両手を広げた。
「わたくしは、素晴らしい話だと確信していますよ。お返事は、来月の、マクロコスモス杯が終わってからで結構です」
 返答の期日は、書類の終わりに記載されていた。全てを片手で掴んで、ネズは立ち上がる。
 この大人は恐ろしい。マッギョが通る隙間もないほど周到に、自分の願いを叶えようとする。ネズはマッスグマのような目で、オフィスを見渡した。
「検討します」
 機能的に整えられた街の、美しいオフィスで、ネズは完璧に感情を隠した。



 ポケモンリーグのロゴが入った書類ケース片手にローズタワーを出たところで、ダンデと鉢合わせた。
「ゲッ……」
 今一番会いたくない人間だった。
「ネズ!」
 その背後にリザードンを従えた少年王は、ネズの気持ちなど知らず、元気よく手を振って駆け寄ってきた。適当に合わせて切り上げよう。
「来月のトーナメント表は見たか? マクロコスモスの!」
 ネズは頷く。ローズタワーの大きなエレベーターで、仕事用のスマートフォンで確認したばかりだ。
「オレは初戦でキバナと当たるんだ!」
 キバナは今年のシーズンにナックルジムのジムリーダーに収まった、自分やダンデと変わらない年頃の少年だ。あの伝統と前例を重んじるナックルが異例の若さで抜擢しただけの実力は確かに持っていた。末恐ろしい奴が来た、というのが、ジムリーダーとしてスパイクを通過させた時のネズの印象だ。
 彼がジムチャレンジでやって来たときは、一度追い返すことに成功した。その時の、少年の驚愕と怒りの表情。受け入れギリギリで戻ってきたキバナは、まだ不揃いだった手持ちを全て最終進化まで育て上げていた。そして、ネズをナメていたことを詫び、闘争心剥き出しの吊り上がった目で、ネズたちを乗り越えて行った。
 その表情が焼き付いていたため、のちにジムリーダーの顔合わせで再会した時、別人のような人当たりの良さに、内心驚いたものだった。
「アイツとの試合はいつも最高に楽しいんだぜ。魂が、コイツの尻尾みたいに、わっと燃えるような気持ちになるんだ」
 そう言って、ダンデはリザードンをふり仰いだ。聞かれてもいないのに、本当に楽しそうに話す。ポケモンバトルについて話す時のダンデは、まるで太陽のようだ。その強さと天真爛漫な輝きで、あまねくガラルを照らす。
 だからこそ、この少年は理解しない。自分が強く輝けば輝くほど、居場所を追われるものがあると。
 もちろんダンデに責任はない。本人がそうありたいように輝くだけだ。そうあるべく誘導している人間の存在には気が付かないまま。
 幼い王はポケモンが好きで、ポケモンとのバトルが好きで、それだけでいいのだと。この少年が座る玉座の後ろには、ローズという男の、あの笑顔がある。そしてダンデはそれに気が付いていない。
 ネズは理解してしまった。あの輝きに熱狂する群衆とかいう怪物が、「ダンデのようでない」やり方を許さないだろうと。ローズが作ったシステムという盾はあまりに強固で、自分がどんなに爪を突き立てても、傷一つつかない。
「準決勝ではオマエとバトルしたいな! ネズとはまだ戦ったことがない」
 ネズはジムチャレンジャー時代、ダンデへの挑戦権を賭けた試合で敗退した。あの時は本当に接戦で、ダンデとも戦えたかもしれないと本気で思った。
 あんな熱量で試合ができたのは、あれが、自分のためだけの戦いだからだ。もうそんな機会は来ないかもしれない。
 今のネズは、一試合にかかる重力が違う。甘んじて受け入れたはずのそれを振り切って戦いたいという矛盾した気持ちを、派手なメイクと歌うようなパフォーマンスで押し込めている。ダンデに挑むということのプレッシャーも、ジムチャレンジャーだったころとは全く違った。
「オマエとも、お互い高め合える勝負を楽しみにしてるぜ」
「……そうなるといいですね」
 ネズは最低限の言葉だけ残し、ダンデの隣を通り抜ける。これ以上この無邪気な太陽の側にいると、自分が苛立ちと劣等感で、灰も残さず焼かれる気がした。




 厚く空を覆う鉛色の雲。吹きつける北風を吸い込めば、潮の匂いに肺の芯まで冷える。スパイクの冬だ。
 両親になにか言いたい事が溢れてしまう時、ネズは、墓地ではなくここに足を運ぶ。もう管理する人間がいない港。倉庫は取り壊され(取り壊してくれただけでも良かった。おかげで商工会の巡回がやりやすい)、錆びたフォークリフトが何台か放置されている。
「……どげんしたらよか」
 伸ばしかけの髪を強風に撫でさせるまま、ネズは砂まみれのコンクリートに座り込んだ。
 ローズは自分なんかより余程上手く戦い方を心得ていた。あの日のローズの提案は、マクロコスモスグループとリーグ運営の連名で、全戸への文書による通知、という形で街にもたらされたのだ。ネズが対応に時間を要することを分かったうえで、委員長からの先制を仕掛けられてしまった。今、同意書を含めた書類の束は、後見人(ゴッドマザー)である弁護士のもとにあり、内容をあらためている所だった。
「おれがダメなやつだから」
 街の中で、キルクスが親子喧嘩で二分された時より、静かで冷たい分断が始まろうとしている。
 ネズはこの街を動かす事には反対だった。こんな好条件をただで提示してくるのは妙だと考えているし、移転先の生活基盤が、マクロコスモスありきに変わるだろうことも、懸念事項だった。なにより、ネズが「気に入らない」と感じた事へ首を縦に振れない性質の人間なので、始末が悪い。
 そうだ。気に入らないのだ。スパイクタウンをナメた態度も、上から賜ってやるという笑顔も、気に入らない。
 スパイクタウンはここにあるからスパイクタウンなのだ。移転の候補地はいくつかあったが、どこもここからは遠すぎる。名前が同じだけの違うものになるだろう。
 荒涼とした曇り空と黒くうねる冷たい海。寒さを跳ね返すアーケード屋根とシャッターに、強い酒と、音楽。小さな田舎街特有の煩わしさもひっくるめて、ここがホームだ。
 けれど、今のネズに街を離れたい人を止められる材料がない。あんなに好条件なら移転もやぶさかでない、という住人の声も当然のことだ。
 今のネズの周囲には、商工会とジムのフロントを中心に、スパイクを何としても存続させたい人間が自然と集まっている。ネズが移転の話を持ち帰ってから、マクロコスモスグループの干渉を避けようと関係各所を再度洗い直し始めているのだ。今のガラルの制度では銀行の融資や公的な補助金もあてにできない。マクロコスモスグループに漬け込まれてもいけない。
 ただでさえ減った取引相手を更に厳選し、新規のスポンサーを掘り起こし、商工会とジムをやりくりして。それでも足りない分はネズの年俸と音楽活動の収入を様々な名目で街へ分配することをネズは承知している。父もそうやっていたらしいことを、過去の資料で知った。
 先細りしていく故郷に、十八の自分ができることなんかたかが知れている。ネズは冷たい外気を思い切り吸い込んだ。
 あの男が向ける無数の剣に形があったなら、どんなに楽だったろう。あの男が揺さぶるのは、ネズの音楽と同じく人間の感情だが、自分と違って、不安や欲望に小石を投げ込み波を立てる。その波はいずれ他の人間とぶつかり、大きくなる。そしてこの街を見えない大波で押し潰そうとしていた。
 ネズは立てた片膝を抱えた。
 自分に付き合ってくれる大人たちは、思うようにやって良いと言ってくれる。その信頼に比例して責任が両肩に乗る。その重さに自分が潰れてしまう気がした。
 もし今、両親がいて、自分の泣き言を聞いてくれたら。妹のいる前ではそう考える事さえ後ろめたい弱音が、ネズを悲しみへ引き込む。
(母さんみたいに、みんなをまとめられる自信がなか。父さんみたいに安心させることもできん)
 こんな有様で、ここから先、自分なんかにスパイクタウンのアイコンが務まるのだろうか。今ネズの胸に寄せ返す波は、悲しみと己への失望だった。
 うなだれるネズの耳を、ここに来るはずのない足音が叩いた。顔を上げる。
「アニキいたあ!」
 無防備な表情で振り向くと、やはり、妹だった。
 淡いピンクのマフラーを巻き、暖かい黒のコートを着込んで、こちらへ駆けてくる。モルペコも一緒だった。隣家の夫婦からプライマリーへ迎えに行ってもらったはずなのに。
「おまえ、どうして」
「帰ってきたとにアニキがおらんけん、モルペコと探しに来たんよ」
 妹は、座り込むネズにぎゅうと抱きつく。
「今日はマリィ帰るころには家にいるって言ってたとに。なにしとうと?」
 ネズは答えず、妹の背を撫でた。今度一人になりたい時には、もっと上手く隠れる場所を探さないといけない。
「おまえを淋しがらせて、ダメなアニキだね」
 妹が首のマフラーをほどいて、ネズに巻きつける。
「アニキ、カゼ引くけん」
 自分の首には短すぎるそれを強く巻かれ、危うく首が締まりかかったので優しく止めた。
「マリィ、妹よ。気持ちは嬉しいけどアニキには短いから、おまえがしていなさい」
 妹にマフラーを巻き直してやる。余った端をリボンのように結んであげると、妹はそのネズの手を掴んだ。
「アニキ、冷たかよ。帰ろ」
 そうだね、と、ネズはマリィの頬を撫でると、妹は嬉しそうに微笑んだ。
「おれがもっと、しっかりせんばいけんね」
 呟くネズの声は、風に飛ばされて海へ消えて行った。
「マリィ。沢山歩いて疲れたでしょう。おいで」
 妹へ両手を広げると、腕に飛び込んでくれた。そのまま抱き上げ、モルペコに尋ねる。
「モルペコ、おまえボールに入りますか?」
 足元のモルペコは、ボールよりネズがいいらしく、自分も乗せろと踊るように跳ねまわる。しょんなかね、と、地元の言葉で呆れて、ネズはもう一度屈んだ。心得たモルペコは、ネズの背中に飛び乗り、そこから肩口へよじ登る。
 ネズの首に腕を回す妹が、その手をほどくとモルペコを彼女の腕へ迎え入れた。
「アニキ、あんね」
「うん」
「マリィ決めたけん」
 そのモルペコを強く抱きしめ、マリィは口を開く。
「……マリィ、ポケモントレーナーなりたか」
 モルペコも、まるでマリィに同意するよう声を上げた。
「それ、は……」
 ネズは妹が自分と同じ道を選ぶことを、喜びより先に、不安と共に受け止めた。
「素敵だと思うけど。どうして?」
 もしネズが不甲斐なくて、妹がそれを助けたいと考えてくれているなら、それは丁寧に諭して……
「アニキの試合、ばりかっこよかけん!」
 興奮気味に喉を震わす妹に、ネズは思考と歩みを止めた。ブーツが砂を踏みしめて擦れる音がする。
「いつもね、アニキが外で試合してる時、お店で、アニキすごか、強かって、みんなして応援しとるんよ」
 お店、というのは、ネズが不在の時面倒を見てくれる近所のパブの事だ。試合のある日は大型のモニタで必ずネズの試合を流してくれるらしい。
「アニキ?」
 ネズは訝る妹を抱きなおした。
「みんな、楽しそうでしたか?」
「うん。アニキが負けても、惜しかったねって笑っとる」
 ネズは自分のバトルが街でどう受け止められたか、リアルタイムでは知れない。戻ってくるたび労われ、愛されているとは思うが、それはそれだ。ホームに恥ずかしくない試合をしたいと思っても、上手くいかないことだってある。そんな自分の試合を、笑顔で見てもらっていると、今日初めて知った。
 ネズの驚きをよそに、マリィは続ける。
「アニキがかっこよかけん、マリィも、アニキみたいに、あくタイプをかっこよく使うったい!」
 かつては自分も、ジムでのパブリックビューイングや、試合を流す店で親や友人とエールを送っている立場だった。あんな風に戦いたい、自分ならもっと強いと胸に宿した幼い憧れと自惚れ。妹もそうなのだろうか。
「それでね」
 妹がネズの耳元に口を寄せて囁く。
「それで、ジムチャレンジして、ジムリーダーのアニキに勝って、マリィがチャンピオンになるんよ」
 北からの風さえ打ち消すように耳をくすぐる妹の決心に、ネズは笑顔を作った。
 そうなったら、どんなにか素敵だろう。自分と父に似て負けず嫌いで、母に似て自由で少し我儘、華があるマリィの周りには、自然と人が集まる。チャンピオンもいいけれど、ジムリーダーにもきっと向いているだろう。街の顔で、街の希望で、誇り。
 自分なんかより、この子はずっとそれに相応しい。
 妹が、自分と同じようにガラルを巡り、ポケモン達と良いチームを作って、ネズを越えるために街へ戻って来る。その時まで、妹の夢ためにジムリーダーを続けるという考えは、すとん、と、ネズの中に落ちた。
「アニキも楽しみができましたね。おれと戦うおまえ、どれくらい強くなるかな」
 彼女に不釣り合いな重い荷物は、全部自分が持てばいい。それならやっていける。
「マリィ、ポケモンバトル、やってもよか?」
 妹は気が付いているのかもしれなかった。兄の顔が険しくなる話題について。だからこんなに、不安げに自分を見るのだ。
 ネズは腕の中におさまるマリィの額にキスをする。ついでにモルペコにも。
「ポケモンバトルが好きで、自分の力を試してみたいんでしょう? それなら、アニキはダメなんて言いません」
「ほんと?」
「本当です」
 妹ははにかんで兄の肩に顔を埋める。
「嬉しか」
 その愛らしい笑顔は、ネズの荒んだ心をいっぺんに穏やかにしてしまった。
「……おれも嬉しいよ。でも、ひとつだけ。兄と約束してください」
 マリィを、正面で向かい合うように抱きなおす。
「もしも、チャンピオンよりなりたいものができたら。その時はアニキに必ず教えるのですよ」
「どうして?」
 この約束は、今は分からなくていい。もしかしたら来る「いつか」への予防線だ。妹には、「そうするしかない」なんて思わせたくなかった。いつだって、「こうしたい」方へ駆け出してほしかった。
「どうしてもです。さ、帰っておやつにしましょうか」
 妹がポケモントレーナーの道を歩むとして、すぐにスパイクジムの所属にはしたくない。スパイクジムリーダーの妹という立場は、彼女の翼から勢いを削いでしまうだろう。立場は人の選択肢を狭めることもある。そうするしかない、なんて、自分だけで沢山だ。
「アニキはね、おまえたちがいてくれて、本当によかった」
 ボールの中にいる相棒たちにも聞こえるようにネズは言う。千年先の未来を憂うのは余裕のある人間が好きにしたらいい。数年先の未来のため、自分にできることは全てやってみようと、ネズは妹に頬を寄せた。





 ネズの耳にスタジアムの歓声が届き、タオルの下で目を開ける。どうやらダンデがキバナに勝ったようだった。
 マクロコスモスグループが主催のトーナメント戦、一試合目を終えたネズは、ロッカールームに戻るや、ベンチで仰向けに寝そべった。タオルを顔にかぶせて、人に話しかけてほしくないという意思を示し、つかの間意識を手放していた。
 このトーナメントが終わった翌週が、委員長が迫った街の移転に対する回答期限になっている。同意しかねる、と、ネズは返答するつもりだ。なにか言われたら「自分の一存」で押し通してしまえば良い。街の人もネズの決断にノーは言わないだろうと、先に吹っかけてきたのは向こうだ。
 けれど、自分の選択は正しいのか、悪い想像ばかりが膨らんで、ネズを蝕んでいる。おかげで目の下のクマは濃くなるし、何を食べても味はしないし、昨夜からは水以外口にできなくなっている。
 初戦のメロンはどうにか突破したが、試合の内容は自己採点で相当に悪いものだった。オーディエンスには気づかれないような不協和音がメンバーとの間にあった。
 こんなザマではダンデとは試合にもならない。調整するべきはまず自分の心身の回復だと、試合も見ずに寝転がっていた。
「ネズくん」
 そんなネズから遠慮なくタオルを引っぺがしたのは、さっきまで対戦相手だったメロンだ。
「どうしたんだい。アンタ今日、ちょっと変だよ」
 試合をした相手には分かってしまうものか。
「……寝れてなくて」
 この人相手に誤魔化しは通じない。正直に答えると、メロンは眉を逆立てて頬に手を当てた。
「妹さん?」
 メロンには、マリィのことであれこれと相談に乗ってもらっていた。ジムリーダーになって日も浅い頃、キルクスでの試合前に妹が熱を出したと聞いた時、みっともなく取り乱し、マリィが心配ですと帰宅しようとしたネズを一喝したのがメロンだ。
「いいえ。ちょっと、他のことで」
 額を抑えて、ネズは起き上がる。痛み止めのおかげで寝不足由来の頭痛はおさまってきた。空いたスペースにメロンが腰かける。
「色々と……」
「その顔! 言いたくないなら無理強いはしないけど、ダメになりそうならちゃんと誰かに話しな」
「緊張してるんですよ。初めてチャンピオンと当たりますから」
 ネズは、そういう事にしてくれ、と言外に滲ませて、メロンの手からタオルを受け取った。メロンは、深いため息をついて、そういう事にしてくれた。
 ひとりになりたくて、ネズは立ち上がる。
「行ってきます」
 メロンは、ふらつくネズの腕を、思ったより強い力で掴んだ。振り返るネズに、メロンは囁く。
「アンタが抱えてる物は、ここに置いていくんだ。試合の相手に失礼だろ」
「……」
「全力出しといで。負けたアタシに恥かかせる試合したら、許さないよ!」
 ばん、と、叩かれた背中が痛む。愛の鞭をどうも、と眉を下げて笑うネズを、カブのエールが押してくれる。
「ネズくん! 楽しんでおいで」
 振り返らず頷いて、ネズはコートへ続く暗い通路に出て行った。
 次の試合に備えて整備の行われるこの空気と音は、ネズを集中させてくれる。目を閉じて、相棒たちのボールをひとつひとつ、両の指で軽く叩く。ネズの指が触れると、ボールの中からコツ、とメンバーが拳を返してくれる。試合前のルーティンだ。タチフサグマがボールの中で鳴いて、ネズは目を開けた。
 そこに立っているのは泣きそうな少年ではなく、スパイクタウンのジムリーダーだった。



「ありがとうカラマネロ。本当によくやってくれました」
 ドラパルトを倒したカラマネロをボールに戻す。そのまま温存していたタチフサグマのボールを放って、フィールドでダンデとにらみ合う。
 ダンデの前には、あの太陽色の竜が堂々とした姿を現していた。
 ついに、この局面を拝むことができた。どこに行くにも一緒のくせに、バトルになるとてんで出て来やしないリザードン。他のメンバーと粘って、粘って、ようやくネズの前に引きずり出した。
「リザードン! 行くぜ!」
 ダンデはガラル粒子の赤い輝きを纏ったボールを放る。思わず、髪を抑えるふりをして片耳を塞いだ。痛いぐらい鼓膜が震え、燃え盛る火竜が、ネズとタチフサグマの前に現れた。灼熱の風に前髪が躍る。
 白と黒の視界の隙間から、その竜を従えたダンデの視線を感じる。なにかを量るような目。腹立たしいほど「絵になる」姿だ。
 ネズの頭には無数の組み合わせが現れる。ブロッキングで耐える、じごくづきを仕掛ける……どちらも決定打に欠ける。
 考える速さがいつもよりスローなのが煩わしい。頭を振る。
 相手の選択は。安定して勝ちを取るなら、ダイジェットか、キョダイゴクエンだろうか。リザードンを倒すなら、タチフサグマのカウンターで足りるか。タチフサグマの一発が急所に当たれば、もしかしたらがある。ただ、それすら読まれていたら。リザードンはダイウォールを使えるわざを覚えているだろうか。さっきの試合を見ておけばよかった。嫌な汗がにじむ。
 その時、ダンデのひとり言が聞こえてしまった。
「……ダイマックスしないのか?」
 本当に、純粋なクエスチョンとして飛び出したその声を拾ってしまったのは、ネズの聞こえすぎる耳のせいだ。
 持っている道具を、なぜ有効に使わないのか。そういう声だった。
 ネズはマイクを強く握った。その右腕を見る。惰性でつけているだけのダイマックスバンド。腕におさまってはいるけれど、結局ジムリーダーとして使ったことはなかった。さっきからガラル粒子を吸い上げて、ネズを急かすようにうるさかった。
 ダンデに視線を戻す。こちらまでやけどしそうな熱を背中に受けて、なお爛々と目を輝かせるあどけなさを残した少年。その輝きに、ネズは咎められているような気になった。
 どうして最善のパフォーマンスを見せないのかと。
 誰も自分へ近づけない高みで輝き続ける少年の双眸は、このバトルコートで息を吹き返すように光を増す。そして、「全てを出せ」と求めてくるのだ。
 ガラルのみんなで強くなると、この少年は言った。そのために相手の強さを引き出すバトルがしたいと。
 それはつまるところ、目の前に立つ暴君にファイティングポーズを取らされるという事だ。自分の決断以外で引き出された意に沿わない「最高の」選択、その先の敗北。
 ダンデの眼前で自分のすべてを晒すなら、自分が取るべき行動は一つだった。
 静かな覚悟がネズの胸に灯った。それはライブ前、スタッフたちがステージへの道を照らしてくれる明かりのように、ネズに行くべき道を示した。
 いつも試合中にネズを押さえつける重力が、ふと軽くなるのを感じる。
 この「スパイクタウンのジムリーダー」をいただくネズは、存在の全部を賭けて、愛するものに示さなくてはいけない。
「おれのバトルは、ただ勝つんじゃ意味がないって気がついたんです」
 ダイマックスが使えない街で、ダイマックスを使いたくない自分のバトルを見て、目を輝かせる妹と、ホームのため。
「チャンピオン、ダンデよ! おまえの強さに、おれはおれのスタイルで挑みます!」
 マイクに添えていた右腕を顔の前にかざし、バンドの留め具を口で外す。
「この、スパイクタウンの! ネズは!」
 腕を振りぬき、枷をフィールドへ捨てた。
「故郷とおれの誇りにかけて! ダイマックスは使わねえんですよ!」
 軽くなった右手でマイクを掴んで背を逸らし、吼える。相棒も、猛る声を上げネズとこの道を行くと答えてくれた。
 ダンデに向かって悪役じみた笑み浮かべる。
「来やがりなさい! おれの覚悟とおまえの強さ、どっちが上か確かめましょう!」
 幼い王者の瞳が見開かれた。ダイジェット以外ならまだ勝つチャンスがある。
「……行くぜリザードン! キョダイゴクエン!」
 ネズごと巻き込まれかねない火炎だ。けれどネズはその場から一歩も退かなかった。相棒も同様だ。ガラル粒子を流用したハニカム構造の壁が現れ、客席に届きそうな炎を弾くのが視界の隅で見える。
 陽炎が立つ向こうで、相棒の強い声が響いた。事前に組み立てた戦略が通せるというサイン。タチフサグマにも負担をかけるが、お互いそれで行こうと納得ずくの作戦だ。
「オーケー! さすがタチフサグマ! カウンター!」
 リザードンの巨体が、タチフサグマの一撃に波打つ。間髪入れず、ネズはマイクスタンドを蹴り上げた。ダイジェットなしならカムラを使ってダンデのリザードンより早く動ける、ここだ。相棒の特性で与えられるダメージも膨れ上がる。
「タチフサグマ! すてみタックル!」
 そこを通せ! ネズはほとんど噛みつくように声を上げる。ダンデもほぼ同時に、リザードンの名を呼んだ。
「ダイウォールだぜリザードン!」
「!」
 ネズは目を見開き、奥歯で驚嘆と悔しさを噛み締めた。この速さで、ネズ達が仕掛けると読み切るのか。
 不可視の壁が相棒の突進を阻み、キョダイゴクエンの渦に巻かれたタチフサグマが限界を迎える。
「……ありがとう。よく付き合ってくれました」
 メンバーたちはみんな、最善を尽くして戦ってくれた。それで届かなかったのは、自分の、ジムリーダーとしての力不足だ。ダイマックスをしたとしても、勝つのは難しかっただろう。
 それでも、ダンデのリザードンに、ダイマックスをせず辿り着き、肉薄した。上等だ。ネズのやり方で勝てるかもしれない、そうオーディエンスが思ってくれたらそれで良かった。
 異様に震える指先で、どうにか相棒をボールへ戻す。手足が冷え切っている。自分が立ち方を忘れた生き物のようになっていて、マイクに縋りついたまま、ダンデと握手した。
「ネズ! 楽しい試合をありがとう! 決勝でもオマエに恥じない試合をしてみせるぜ!」
 そう言って天を衝くようにまっすぐ伸びた左腕。まだ準決勝だというのに割れんばかりの喝采を浴びる、幼い王。
 ああ。
 ネズは荒い呼吸の隙間で呻いた。
 太陽を直視したように白く、ぐるりと転回する視界の中で、その時確信した。

 あの太陽がガラルの中天にあるかぎり、ここに立ち続けなくてはいけない。



 目を覚ました時には医務室で、ネズの左腕にはブドウ糖の点滴がぶら下がっていた。
 半身を起こす。体はだるかったが、心はすっきりしていた。
「やっと起きたか。ねぼすけめ」
 からかうようなバリトンは、ここの医師だ。ジムリーダーになってから、色々面倒になると、仮病を使ってはここに逃げ込んでいた。何度か繰り返したら医師の方も仮病を見抜いていて、それでも匿ってくれた。
「食うと寝るはちゃんとしろって言ったでしょうが」
 青いスクラブの上から白衣を羽織った医師の、マスク越しの叱責。ネズが担架の上で、食事を抜いていたこと、睡眠が上手くとれなかったことを伝えたのは夢ではないらしかった。
 あんなコンディションで自分を追い込んだら、それは倒れるだろうな、と、ネズはぼんやりと思った。殊勝に医師へ頭を下げる。
「……すみません」
 サイドテーブルには、スタジアムのショップで売っているチョコバーとスポーツドリンクのボトルが置かれていた。医師は、食えるようなら食べろとのこと。
「ジムの人と一緒に妹さんが来てたけど、全然目を覚まさないものだから大変だったよ」
「妹、来たんですか」
 ネズは右手で顔を覆う。妹は、入院したとか、倒れたとか、父の死を連想させる出来事で、火がついたように泣いてしまう。葬儀を終えたあとで父にはもう会えないと告げた時からだ。その時の悲しみや寂しさは、今でも癒えていないのだ。
「泣いたでしょう」
「そりゃあもう、世界が終わったみたいよ」
 ユニフォームの胸元を握り、ネズは二度とこんな無様は晒さない事を誓う。
「今は?」
「事情を説明したらなんとか泣き止んでくれてね。それを置いて家に帰ったよ、ジムの人と一緒に。私物はリーグの人が届けに来たから、そこのロッカーで預かってる」
 医師が視線で示す小さなロッカーと、サイドテーブルの食べ物たちを一瞥する。
「そうですか……妹がすみません」
 医師は、別に怒ってるんじゃないよと言って、赤いダルマッカの飾りがついたボールペンをカチカチ鳴らした。彼の故郷では、ダルマッカは赤いのだという。
「元気な妹さんじゃないか。きみの事だから大事にしてるんだろうけど、泣かせるのは感心しないな」
 そんな事は言われる前から分かっている。ネズは無言で、妹のおきみやげに有難く手を付ける事にした。
「点滴落ちきったら動いていいからね」
「わかりました」
 チョコバーを齧っては、ちびちびとスポーツドリンクで流し込んでいると、医務室のドアが元気にノックされた。扉の後ろに二人分のシルエットがある。医師がこちらを振り返る。おれが頷くと、医師は「どうぞ」と入室を認めた。
「すみません、入ります」
 ダンデが後ろに委員長様を従えて入ってきた。
「チャンピオンがきみとどうしても話したいと。お加減はどうかな、ネズ」
 委員長の優しそうな声がネズの表面を撫でていく。ネズはベッドの中でシーツを強く握って不快さをこらえた。
「すみませんね。折角のショーに水を差しました。でも、あれが、あなたへのおれの答えです」
 ネズの言葉に、珍しく、委員長が取り繕うような種類の微笑みを浮かべた。
「それについては後日、正式な話をしましょうね」
 ネズは察した。移転の話、ダンデには言ってないのだ。そうだろう。少年には無垢でいて貰わないと、困るのはこの男自身だ。せいぜい恩を売っておくかと、ネズは頷くにとどめた。
「ローズさん、ネズとふたりで話してもいいですか」
 ネズたちのやり取りをよそに、ダンデは委員長を振り返る。委員長は鷹揚に頷いて、「エントランスで待っているからね」と出て行く。扉を閉める直前、ネズに目配せをして。恐らくこの後の予定もあるのだろう。早く解放しろと言いたいのだろうが、そんなことは今、丸椅子に腰かけたダンデ本人へ言ってほしい。
「ネズ、大丈夫か?」
「自己管理ができなかっただけです。病気とか怪我とかじゃないので。食べてていいですか」
 チョコバーを振って見せると、ダンデは頷く。
「別に、おれなんか見舞いに来なくても良かったのに」
「聞きたい事があったんだ」
 ダンデの、なにか問いただしたそうな目に、目的は見舞いでないことを悟った。
「勝負は分からなかったのに、どうしてワザと負ける手を打ったんだ」
 思ったとおりの質問がネズを突き刺した。
「おれは勝つつもりでしたよ」
「なら、どうして」
 互いを高め合う試合をしないのか。言いたいことは承知している。その無邪気さが、ネズの癇に障った。ネズが戦う意味を否定するのは、ネズにとって、自分が抱くものを貶めることだ。
「しゃーしか。分からん奴ったいね」
 ネズは抜き身の苛立ちをダンデにつきつけた。噛みつく寸前のような、冷たく鋭い声を低く響かせる。
「おれも腹が立っとるばい。なして、おまえは自分のやり方ば正しかー信じとうと?」
 試合のパフォーマンスなんかより余程ナマの威嚇を見せると、ダンデは息を飲んだ。
 今でこそ大人しくしているが、ネズはもともと荒っぽい少年だった。普段物静かでいるのに、友人や家族、自分のポケモンを侮辱されたら、例外なく挑み掛かって、誰だろうが叩きのめした。その時のように、ネズはダンデを下から睨み上げる。
「おれはおまえにはなれん。そのくらいのこつ、おまえも分かっとるでしょ?」
 わざと選んだ地元訛りの皮肉で、どこまで伝わるか知らない。伝わらなくても良いとさえ、ネズは思った。これは一方的な宣誓だ。
「ええか。よう聞きんしゃい。こっちばこっちのやり方で、おれたちの強さば見せつけちゃる。そいなら、いっちょん文句なかろうもん」
 唇の片方だけを意地悪く引き上げた。
「ガラルんみーんなして強くなんのが、おまえの願いやけんね? そうやろ?」
 おまえの願いは叶えてやる。ただし、おれのやり方でだ。
 食い入るように自分を見るダンデは、その輝く目を戸惑いで揺らしていた。ネズは肩をすくめて、下手な笑顔を浮かべてみせる。
「……なんてね。脅かしてすみません。こういう悪いやつ(ヒール)がひとりぐらいいた方が、リーグも盛り上がるでしょ」
 手元に残ったチョコバーを口に突っ込んで、これ以上の会話を拒む。
 ダンデは試合の時とは違って、さんざん言いよどんで、一言だけネズに告げる。
「また、必ずバトルをしようぜ」
 ダンデにとって、バトルというのはきっと、「理解する」儀式なのだろう。だからこそ、ネズはそれを遠回しに拒絶した。
「そんな日が来るならね」


 バトルタワーと名前を変えた塔のエントランスを出て、ネズはカットソーの腕を擦った。珍しい晴れ間だが、スパイクより北にあるシュートシティは肌寒い。もう一枚着てくるべきだった。
 小さく肩を回して、いつもの猫背に戻る。
 これで、やっと、あの不愉快な兄弟の不愉快な事件から解放された。
 ポケモンがダイマックスを強制させられたことが許せず、権威を笠に着るあの兄弟が許せず、妹の同期を放っておけなかった。それだけで首を突っ込んだのだが、一部始終に関わってしまった大人として、責任がある。
 謝罪ツアーのローディーを終えたネズを待っていたのは、警察からの度重なる聴取、王族側の弁護士からの接見、委員会からの聞き取り調査、報告書の作成など、など、など。
 今日は朝から半日拘束されて、最後の確認と、守秘義務に関するいくつかの書類に署名をし、ようやくの帰宅だ。気晴らしにキルクスのブティックで散財するつもりでいたが、タワーの社食でランチプレートをモソモソと口に突っ込む頃には、そんな元気もなくなっていた。
 停車場で最後のタクシーを捕まえる。
「すみません、スパイクまで……」
「あ、待ってくれ! オレも一緒に乗るぜ」
 Tシャツにジーンズ、頭にはキャップというラフな格好のダンデが、ネズをタクシーに押し込み、隣にどかっと座る。
「なんで乗ってくるんですか」
「オレも今日は実家に戻るんだ。半休だぜ」
「おれは、なんで相乗りしようとしてんですか、って聞いてんですよ」
『お客さん、大丈夫です?』
 見かねた運転士が無線で尋ねてきた。ネズはため息をつくと、車内の無線を掴み、運転士に答える。
「平気です。急ですみませんが、先にブラッシーまでお願いします。そのあと、あなたのアーマーガアが飛べそうなら、スパイクまで。料金はそれぞれで支払います」
 長距離の航行になるが、運転士は、ウチの相棒はやりますよと快諾してくれた。その後『飛びますよ』と声がかかり、車体がふわ、と浮き上がる。
 バトルタワーの執務室が見える高さまで来たところで、キャップを脱いだダンデが、分厚い体を背もたれに預ける。
「オマエぐらいにしか愚痴が言えないんだ。すまない」
 今回の事件で、ネズはその経歴からダンデにあれこれと相談を受けていた。ジムリーダーとリーグの運営は違うと言ったが、リーグの運営側と渡り合った立場からの助言がほしい、と言われてしまえば、生来の世話焼き気質が顔を出してしまう。結局、ズルズルとダンデの便利屋まがいのボランティアを引き受けていた。
「そういうことでしたか」
 未だムゲンダイナの爪痕が残るガラルのポケモンリーグに、再びダイマックス絡みの不始末。リーグの運営に対する風当りは強まる一方で、ダイマックスバトル自体の是非まで問われ出している。
「仕方ないやつですね。ほら、ダンデ。『はきだす』」
 ブラッシーまでと運転士に告げてよかった。長くなるだろう。
「保護団体の人たちが、ここ何日か、ずっとオレに会わせろってタワーで張り込んでてな。昨日ついに警察沙汰になった」
 その一団なら、ネズも知っている。どこかのポケモン保護財団から叩きだされた勢力らしいのだが、とりわけダイマックスを嫌っており、SNSなどで活発に発言しているらしい。ネズがジムリーダーだった頃、スパイクジムにも接触があった。ダイマックスを使わないネズのアティチュードに共感と、ジムへの支援を申し出るものだった。だいぶ気前の良い申し出だったのだが、あればかりは、丁重にお断りした。
「また、面倒なところに目をつけられて……」
「ダイマックスを使う試合については改めて声明を出すと、伝えているんだが……」
 その声明についても、上手く委員会内で意見の取りまとめができないらしい。ローズがいたころは、マクロコスモスグループという巨大なバックがある種の抑止力になっていたのが、それがなくなってしまった。
「利権が絡むとこれだから。おまえ、どうしたいですか」
「もう少し、考えたいんだ。時間が欲しい。オレ自身を納得させられる言葉が出せない限り、ガラルの皆に軽々しく安心して欲しいとは言えない」
「……だからって、選手として、ダイマックスのない試合には戻れない、と。難儀な道選びますね。おれは、おまえらしくて良いと思いますよ」
 これが、リーグ委員長ダンデの、初めての試練だ。就任早々でこれとは、いささか難易度が高すぎる気もする。
「おまえ、SOSは出せてるんですか? こういう話は周りとできてます?」
 自分がそれをやれなくて、孤独になりかけた。ダンデにはそうなって欲しくないと思ってしまうのは、一度面倒を見て情が湧いたんだろうか。
「伝えているが、やっぱり、オレの言葉はまだ彼ら向きじゃない。それで、オレのアドバイザーとして、奉仕活動中のオリーヴさんを呼び戻そうって話が出てるんだ」
「へえ。口説ければ心強いじゃないですか」
 さんざん書類の上で喧嘩した相手だ。彼女が優秀な実務家であることはネズも知っている。
「これがどうにかできれば、後はおまえ、もう怖いものないですよ」
 それに、彼の味方はネズと違って、ガラルじゅうに大勢いる。ダンデを助けたいと自発的に名乗りをあげたスタッフもいるようなので、乗り越えられるだろう。
「そうか?」
 ネズは、あまり深刻にならないよう、そうですよ、と、軽い調子で言う。
「この哀愁のネズが保証してやります」
「……オマエの大丈夫は、心強いな」
 ダンデの声はそれきり途切れた。頭上で、アーマーガアの力強い羽ばたきが聞こえる。
「なあ、ネズ」
 帽子で顔を隠したまま、ダンデは言う。
「オレは、本当に、なにも知らなかったな」
 そこには、ネズの八年を慮るような、労わりと罪悪感があった。ネズは眉を持ち上げる。
「どれの話だか見当がつかないですね」
 ジョークめかして肩をすくめ、ネズはダンデから視線を動かす。シュートシティを寒さから守る城塞めいた壁が、眼下に伸びていた。
「覚えてるか? 初めてネズとバトルした、あの日」
「忘れるわけないでしょ」
 ネズは窓枠で頬杖をつく。
「おまえとの試合であの宣誓ができて、おれは良かったと思ってるんですよ」
 ダンデを相手にあのシャウトができたこと、それが、結果として街の命を繋いだ。ネズがバトルスタイルを明言したことで、わずかでも共感する人間たちの支持と支援を得られるようになったのだ。
「……あの時のネズが難しい時期だったのも、なにを背負っていたのかも、オレは知らなかった」
「教えませんでしたからね。バトルに関係ないでしょ?」
 ネズは窓に頭をつけて笑った。
「それとも、おれが助けてくれって言ったら、勝ちを譲るようなバカなんですか? おまえ」
「そういう話じゃない! 知らずにオマエを傷つけた、それを恥じているんだ!」
 ダンデはシートから跳ね起きる。車体がブランコのように揺れたが、上でアーマーガアが上手くバランスを取ってくれた。運転士から注意の無線が入ったのをネズが謝り、ダンデを呆れ顔で睨む。ダンデは、きまりわるそうにキャップで顔を隠していた。
 その向こう、窓の景色はいつの間にか十番道路を通り抜け、微かにナックルジムの壊れた王冠が見えている。
「ネズ」
 キャップの下からダンデの声がした。
「オマエの守っていたものを聞く資格は、オレにあるだろうか」
「……ダンデ」
 ネズは、ダンデのキャップを払いのけると口元を歪める。
「そんな顔で尋ねる話じゃねえですよ。大丈夫」
 もしもネズという存在が音楽であるなら、ネズの守ってきたものは、ネズを支えるベースラインであり、ビートを打つドラムスであり、かき鳴らすギターのコードだ。どれが欠けても物足りない、自分の一部と胸を張って言えるようになっていた。自分の故郷ばかりが被害者でもなかったと、街の悪い部分にも目を向けられる。いつの間にか、そういう物の見方が備わっていた。
「おれが守ってたのは、おれの誇りとか、愛するもの、ひっくるめて……つまるところ、おれ自身だったんですよ。それは強い光の前ではかすんでしまうから、一生懸命日陰を作ろうとして」
 ダンデの手から奪い取ったキャップを指で回し、戯れにかぶってみる。ネズの頭には大きすぎた。
「おれ、ガキだったから。あの頃は、おまえのことが眩しく見えたんですよね。きっと、おれは羨ましかったんです。おまえが、楽しいだけで生きていけると思ってて」
 そんなことなかったでしょうに、と、オーバーサイズのキャップをかぶったまま、ネズはダンデに向かって詫びた。
「おれこそ、あの時は八つ当たりしちまって、すみませんでした」
 ダンデが隣でいや、と、首を振る。
「オレみたいにはなれないと言われたことは、一度や二度じゃないんだ。でもな。とても大切な友人に、オレはそう言わせてしまったことがある。その人はそれを境にバトルをやめてしまって」
 ダンデの告白に、ネズは、リザードンに似た髪色の若い博士を思い浮かべた。今回の騒動の発端でもあり、功労者で、ダンデの幼馴染の。
「……別に、オレみたいにならなくたって良かった。バトルじゃなくても、強くなる道はいくつあっても良かったんだ。でも、あの頃オレは、そう言えなかった。未熟だったぜ」
 その目が、不意にネズを射た。
「オレに気づかせてくれたのは、オマエだ。ネズ」
 ダンデの少年のような笑顔に、ネズはダンデの帽子のつばを引き下げた。
「オマエが、あの時言ってくれたことをやり通してくれたから」
 ネズはあの試合以来、ずっとジムの順位を上位三位以内でキープし続けていた。トレーナー戦の負けをネズが全て取り返すようなこともあった。ネズがガラルのポケモンリーグで地位を築く限り、ローズが使う世論という盾は、自分にも強い味方だと分かったし、自分のやり方を貫いて勝つ、というのが、エールに答えるためにできる唯一のことだった。
「オマエは強かった! キバナとの引退試合、本当に素晴らしかったぜ!」
 あの試合も、自分のためだけに戦えた。妹との約束が途中から砂塵の彼方へ吹っ飛んでしまうぐらい、頭が焼けるような読み合いを繰り返し、お互いのスタイルがぶつかり合う、幸福な時間だった。
「……そんなに褒めても、なんにも出やしませんよ」
 悪態をつくネズの視界が開ける。ダンデが、ネズから帽子を取り返したのだ。
「なあ。またバトルしよう、ネズ」
 ネズは眩しさに眉を寄せるが、ダンデの視線からは逃げなかった。
「分かりあうためのバトルじゃない。ただのオレとオマエで。友達として」
 友達。ネズは目を大きく開いた。驚いたことを隠すように、人の悪い表情でからかう。
「社交辞令でも嫌いじゃないですよ、そういう誘い文句。楽しくなりそうです」
 ネズの返事に、ダンデの雰囲気が目に見えて華やぐ。
 その姿に安心してしまった自分に向かって、ネズは大げさにため息をついた。
「……おれも丸くなっちまいましたね」
 転がる石には苔がつかない代わりに、カドは取れるらしい。
「そうか? ネズはずっと細いから心配だぜ。食べてるのか?」
「そういう丸いじゃねえですよ。ほら、他に吐いちまうことはないんですか」
 肘でダンデを小突くと、ダンデは再びウッウのように、座り仕事が多すぎてつらいだの、打ち合わせ中にバトルの構成を思いついたらどうしたらいいだの、ダンデらしい悩みを吐き出し始める。
 それを「はいはい」と聞いてやりながら、ネズはポプラに「愉快な友人ができた」と言ったら、なんと言って皮肉られるだろうかと考えていた。

【meridian】 終わり

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