
暗夜の男
previous
next
朝の仕込みを終えたムベは、イモヅル亭の引き戸を開けて表へ出た。曲げた腰をうんと伸ばして、秋の涼やかな空気を吸い込む。
日の出も緩やかになってきた早朝はやや雲が厚いが、ここ数日続いた雨の気配はない。
(あいつらの方はどうなっとるかね)
この空から来訪したマレビト……ホオノキは、元いた世界とやらへ戻るあてもなく、今も調査団の一員として、図鑑作成に励んでいる。一昨日も、紅蓮の沼地で起きた大大大発生の調査をすると言って、いつもの面子で腹拵えして出立した。きっと、なんぞ図鑑が完成したとか、珍しい色のポケモンがいたとか、喜色を浮かべて戻ってくるのだろう。
あの不可思議なポケモン達を相手に、ホオノキは怯えない。誠心(せいしん)で向き合えば通じるのだと言う。その度量があったから、デンボクの無体を、ムベの殺意を恨むでもなく、ギンガ団の一員でいてくれるのだろう。二匹のシンオウさま……ディアルガとパルキアに認められたのも、恐らくそうしたホオノキの気性があってのこと。ムベは、これでもホオノキという男子を認めている。
「戻って来たら、イモモチを振る舞ってやるかの」
大きく腰を伸ばして薄曇りの空を見上げた時、そのホオノキが、再び空から降って来た。一直線に目の前へ降下してきたウォーグルから、負傷しない程度の高さで飛び降りたのだ。ウォーグルはホオノキを降ろすと、数度頭上を旋回して飛び去ってしまった。
ムベは、彼にしては不恰好な着地を決めるホオノキを助け起こす。ふらつく頑是ない体を掴むと、熱を持っていた。
「離してムベさん!」
出がけに櫛を通して結んでいたショウブ色の髪を乱し、ホオノキはムベの手を払いのける。
「おれ、デンボクさんとこ行かなきゃ!」
ホオノキの悲痛な声が、朝のコトブキムラに不吉に響いた。
「分かった、分かったホオノキ。わしが連れてくるゆえ、大人しくしておれ」
背中をさすってやると、日に焼けた顔が、幾分安堵で弛んだ。異変に気付いたスグルとドクケイルにホオノキを託し、ムベは立ち上がる。
「こやつを医療班に診せてくれ。デンボクを叩き起こしてくるわい」
スグルはすぐさまホオノキを抱き上げ、ギンガ団の本部へ駆け込んで行った。それを見届けたムベはデンボクの居室へ駆け、着の身着のままの主人を医療班の詰所へ追い立てる。
「あやつ、今度は一体どんな揉め事を持ちこんだ?」
夜着の上からいつもの羽織を引っ掛けてぼやくデンボクを、ムベはじろりと睨む。あんなやり方で単身戻って来たからには、大事があったに相違ない。
「あの姿を見たら、同じこと言えんぞ。沼地で何事かあったんだろうよ。あんたの助けがいる程の」
ギンガ団本部へ辿り着くと、医療班詰め所の入り口には、スグルだけでなく、ホオノキを年下の先輩と慕うミヨや、他のギンガ団たちも集まっていた。
「団長」
シマボシの几帳面な低い声が、中からデンボクを呼ばわる。寝台では、キネに介抱され、新しい浴衣の上からミノムッチのように布団を重ねられたホオノキが横たわっていた。デンボクの来訪に気付いたホオノキがうっすら目を開け、身を起こそうとするのをキネに止められている。
ムベは静かに数歩退いて、全員が見渡せる程度に距離を取った。
「何事があったのだ、ホオノキ」
デンボクが尋ねる。
「あ……雨、雨がやばくて。大発生が終わっても、スコールみたいなのが、あ、えっと」
耳慣れない言葉を、ホオノキは、とにかくものすごい土砂降りで、と、言い直す。
「それが、まだ続いてて……遺跡が土砂崩れでやばいし、見張りの人たち見つからないし、博士たちベースから動けなくなっちゃうし、コンゴウも大変そうで、それで、おれ」
平時の短いながら明瞭な話ぶりが嘘のような、動揺と混乱。涙をたっぷりと湛えた目は、熱のせいだけではなさそうだった。
コンゴウ集落と聞いて青い顔で踵を返そうとしたヒナツを、ショウが腕を掴み引き留める。一人で戻ってどうなるものでもない。
「みんなに、助けを呼んで来るからって、ひとりだけ、戻って来ちゃった」
涙声のホオノキは、自分を一度は排斥した男を縋るように見上げる。
「デンボクさん、お願いします。みんなを助けて」
やっとそれだけ告げ、ホオノキは目を閉じてしまう。キネが額の汗を拭ってやるが、まだ幼さを多く残す顔は苦しげに眉を寄せていた。
全員の視線が、自然とギンガ団の団長へ注がれる。
デンボクは、横たわるホオノキを……否、かつての己自身を見ていた。やがてその厳めしく結ばれた口から発せられるのは、いつも通りの貫禄ある太い声だった。
「……貴様の頼み、このデンボクが聞き届けた」
そこに焼き付いた悔悟を、ムベだけが知っている。
☽
デンボクの旗振りで取り急ぎ結成された救援隊が、強行軍で紅蓮の沼地に到着したのは数日後の事だった。デンボクも出向くので、ムベも炊き出しを手伝うと同行し、現状を目の当たりにする。
たまに食材の調達で訪れる沼地の姿は、ムベでさえ驚きを表すほど変貌していた。
歩くに障りがなかったはずの道は泥や倒木が覆い、まずは道の確保から始めなければ身動きが取れそうにない。湿地ベースから南へ向かって流れる川は水嵩を増しており、丸木橋も流されてしまっている。山肌が見えるのは地滑りの跡だろう。
なによりムベを瞠目させたのは、平野の川下にある大口の沼が、ひと繋がりの巨大な湖になっていたことだ。濁った泥中を、グレッグルが我が物顔でのし歩いている。
この有様を目の当たりにしたのなら、ホオノキの取り乱しようも合点が行く。そのホオノキは、代わりに連れて行ってほしい、と、特に手懐けたポケモンたちを六匹、ショウに預け未だ床に臥せっている。
託された一匹であるジュナイパーに外つ国の言葉をかけて抱きしめるラベン、肩を抱いてヒナツと互いの無事を喜ぶヨネも、疲労は濃いがギンガ団の到着に気丈に対応している。ホオノキの不在を尋ねられたデンボクが、疲れて休んでいると伝えればラベンもヒナツも息をついた。送り出した方も、一人で行かせたという後悔があったのだ。
そうであろうな、と、食材を詰め込んだ行李を検めながらムベは思う。デンボクの妻君もそうだった。そのうえで、このシノビにデンボクを託したのだ。
「大事ない。こちらに人を割いたゆえ、ペリーラと共にコトブキムラに詰めてもらっとるのよ」
ムベがのんびりと言ってやると、二人は、安堵に顔を綻ばせて各々の領分へ手を貸しに行った。年の功というのは、こういう時に振るうものだ。ホオノキの外出は医療班が許さぬし、実際、ムラに何かあった時、ペリーラに従って皆を守るようにと、デンボクが書置きを残している。
他の団員達に混じって物資の仕分けや拠点の設置をしているところに、報せを受けたセキが合流する。無事だったユウガオも、ガチグマを駆って馳せ参じてくれた。
自然の中で生きる過酷さをギンガ団より熟知するコンゴウ、シンジュ両団のおかげで、ギンガ団たちの支援活動はするすると進んだ。ベースとは別に里山に仮拠点をこしらえ、ホオノキのポケモンたちも主人の分まで、カイリキーのような働きぶりを見せてくれる。ポケモンたちと、行方知れずの団員たちを見つけ、立往生した沼地ベースの団員たちを回収し、コンゴウ集落の家を修繕し、遺跡の土砂をどかし……そうこうしているうち、数日が経っていた。
暴威を振るった雨の爪痕も日に日に減じて、ゲンガーがやって来たような寒さが朝晩に訪れる。こうなれば冬は近い。本格的な雪の季節が始まる前に、コンゴウ集落は冬越しの支度をやり直さねばなるまい。ギンガ団も手を貸す事になるだろう。
「ムベさん、もう味付け覚えたのかい」
「そりゃあ、これでもギンガ団を食わせとるからの」
炊き出しの手伝いに大わらわのムベも、やっと落ち着いた。今は共に調理場に立ち続けた女衆に、集落に伝わる料理の指南なぞ受けている。
女ばかりの場所というのにムベを受け入れてくれたのは、ムベが痩せ枯れた老人であること、ケムリイモなど採りに来るついでに、よしみを通じておいたとこが大きい。
市井の人間に溶け込んで、そこからあらゆる話を聞き集めるのがシノビの本業。ムベがイモモチを焼く年寄りでいるのも、そのためだ。宿、湯屋、賭場、ある種の茶屋……特に渡世人が集まるような場所は、聞き耳を立てるに都合がよい。北へと向かう道中ではそうしてきたが、はじめのコトブキムラは暮らしを立てるのに精一杯で、遊興施設などもってのほかだった。ならば、と目を付けたのが食事処だ。
「教わったもの、イモヅル亭で出しても構わんかね」
「もちろんさ! 最近セキもそっちに出入りしてるだろう? 食わせてやって」
そして実際、イモヅル亭の店主という立場が、こうやって功を奏している。どんなに些細な出来事も、調べていけば根の深い問題や、利益の鉱脈が埋まっているものだ。今回の雑談では、最近この辺りを、ギンガ団とも野盗三姉妹とも違う連中がうろついていると聞けたことが、思わぬ収穫だった。一応デンボクへ伝えようとその偉容を探すが、見当たらぬ。
どこかへ請われて出て行ったかと戻りを待つが、陽が傾いてもデンボクは仮拠点に戻って来ず、やがて、行方が知れぬという報せがムベにもたらされた。
行方が知れぬ? あのデンボクが?
仔細を伺えば、そもそもいなくなったのは、コヨミというコンゴウ団の幼子で、話を聞いたデンボクが単身捜索に加わったそうだ。
(あの阿呆……)
ムベは眉間の皺を深くした。頭領が軽々しく動くなという亡父の教えを忘れたか。迷い子を探して迷い子になってどうする。呆れるムベの耳に、コンゴウ団とギンガ団の若者を中心に、人をやるかという相談が持ち上がるのを聞きつけて、ムベはまあ待て、と、割って入った。
「もう日も暮れるし雨もある。探しに出るなら、せめて明るくなってからにせんか。どうせ雨宿りでもしとるんじゃろ」
セキに目をやると、若きコンゴウの長は、こちらの意図を察してくれる。
「確かに、デンボクの旦那が、そんなに簡単にやられるわけがねえ。一晩戻って来なかったら、明日ガチグマの力を借りよう」
夜にサイホーンやヤミカラスが縄張りにする辺りを、ポケモンを使役できぬ人間が歩くのは危ない。コンゴウ団の若い長がそう言えば、ギンガ団たちにも否やはない。短い話し合いが解散した後、ムベはセキに目配せした。
「ムベさん、ちと良いか」
ゆっくりと人の輪から抜け出して、集落の端でセキは足を止める。
「どういうつもりだよ、師匠」
傷跡のせいで途切れた左の眉をゆがめ、囁くようにムベに尋ねるセキ。
「師匠はやめてくれんかね。見て盗むのは構わんが、弟子は取らん」
セキは、現在ムベを手伝うと称して、手すきの折にイモヅル亭に出入りしている。表向きは、料理や人あしらいを覚えたい、という事になっているが、本当の目的はシノビの業前を知ることにあった。ムベの話を恐らくホオノキから聞きつけたセキは、ある朝、明け星のような目を煌めかせてイモヅル亭の戸を叩いたのだ。時は有限で、学ぶべき事柄は多い。ならば鉄を熱いうちに打つよう己を鍛えたい、ムベの技を己にも伝えてほしい、と。
ムベは迷った末、それを黙認している。正式な弟子とはしていないが、イモヅル亭では自分の料理や人との関わり方を、採取の随行では体捌き、ポケモンとの渡り合いを教えている。己で最後と思っていた技の数々を手ほどきするのは、想像以上に豊かな時間だった。セキが、徒弟として非常に優秀だったのもある。読み書きも算術も一通りこなせ、飲み込みも早く、勘所を抑えるのも上手い。
この利発さと好奇心で、これまでもコンゴウ団を引っ張って来たのだろう。おかげさまで、この地を離れられぬ理由が増えてしまった。
その押しかけ弟子に向かって囁き返す。
「この件、今宵の間、わしに預けてくれんか」
「ムベさんの腕は信用しているがよ……」
セキの案じるような声をムベは一笑に付した。
「主人の不始末は従者の不始末よ。生死を問わず連れ帰って来る」
穏やかな口調の裏に含まれる硬い覚悟に、セキが息を呑む。それを見て、ムベはイモモチ屋の店主に相応しい表情を作った。
「まあ見ておれ。日が昇るまでには片付けるわい」
☽
全く弱り果てるのは己の顔である。デンボクは泣いて木にしがみつく幼子を前に途方に暮れた。
里山から雲海峠に続くゆるい坂の途中。ようやく見つけたコンゴウ集落のコヨミは、デンボクの顔を見るなり、火が付いたように泣き出したのだ。マスキッパからコヨミを救ったのはデンボクであるにも関わらず、である。そんなに怯えさせたろうか。いや、素手でマスキッパの根のような下半身を振り回し投げ飛ばしたのは、見ようによっては恐ろしかったかもしれない。
自分の顔も、そばで樹木のフリでこちらを伺うウソッキーのようであれば良かったろうか。溜息をつくとそれが不機嫌に映ったのか、コヨミの泣き声が大きくなる。
「すまぬ。怒っておる訳ではないのだ」
この無骨な面(つら)は子をあやすのに向かぬ。それこそ、まだ故郷で坊(ぼん)と呼ばれていた時分からそうだった。当時は大将の風格と言われていたが、物は言いようの典型である。妻など、からかいまじりに、「いずれ子ができたら、笑う鍛錬をしてくださいね」などと言いだすほどだった。「あなたの気性をわたしは承知しているけれど、赤子は分かりませんからね」と。自分はなんと言い返したのだったか。ヒスイに至る道中で零れ落ちた思い出たちは、もはや拾う事もかなわぬ。
それでも、今でも幼子を見ると、その「いずれ」を思って甘やかしてしまう。デンボクが出張ったのも、そのためだ。
「わたしのことはいくら怖がっても構わぬがな。早う戻らぬと、アケとシワスが案じておったぞ」
コヨミと仲の良い二人が集落を抜け出そうとしたのを見咎め、訳を聞いたのがことの起こりだ。コヨミがドレディア様の様子を見に行くと言って戻らない、二人で助けに行くのだと言い合うものだから、自分が代わりに行くと請け合ってしまったのだ。
友人の名を出せばコヨミは頷く。いまだしゃくり上げるコヨミに向けて、デンボクは連れていたピクシーを見下ろした。助けを求めるように、大筆で一文字に引いたような眉を下げる。
薄桃色のポケモンは、泣いているコヨミと弱り果てたデンボクを交互に見ると、任せろ、と言いたげに短い腕で胸を叩いてくれる。愛らしい鳴き声でコヨミの気をひくと、月夜に見せる踊りを披露し、手を振ってニコニコ笑いかけた。
ピクシーに見入ったコヨミの様子が落ち着いたのを見計らって、腰を曲げて視線を合わせる。
「怖がらせて済まなかったな。おぬしが危ういと思ったら、もう矢も盾もたまらずで」
精一杯に威圧感を殺した笑顔を浮かべると、コヨミは、むしろその必死さを面白がるように、袖で目を擦ってから花のほころぶような笑顔を見せた。
「……デンボクおじさん、この子、なんて言う子?」
よっしゃ、ようやったピクシー。デンボクは内心で拳を握った。
「こやつか? ピクシーと言うのだ。わたしの大事なポケモンだ」
元は妻が嫁入りの時連れてきたピッピだった。デンボクにも、その腹心であるムベにもよく懐いていて、故郷を喪った日、デンボクが救えた家族は自分とゴンベ、そしてピッピだけだった。
「おぶってやろうか」
コヨミは、ううん、と、首を横に振ったが、デンボクが差し出した手はそっと掴んでくれる。やわらかく小さい。
「……ドレディア様、大丈夫かな。お会いしたかったな」
コヨミが残念そうに俯く。この幼い娘はヒナツが目をかけていて、連れ立ってドレディアに会っていたと聞いた。あの柳の葉のような細い体が心配で、一人で集落を抜けだしたらしい。
「ポケモンたちは、我々よりずっと強い。ドレディア様は、おぬしが傷つく方を、悲しまれるのではないか?」
慰めるための方便は、コヨミを大層喜ばせたようだ。デンボクを見上げる瞳に、もはや怯えはなかった。
「ドレディア様、優しいもんね」
「さようか」
デンボクはそう言うにとどめた。ポケモン達が人間をどう思っているかなど、真実理解はできぬ。時に寄り添い、時に牙を剥く言葉の通じぬ「もの」だ。空模様と変わらぬ。それでも傍らにあるのだから、祀って機嫌を伺うのが良い、というのがヒスイのやり方なのだろう。
それを否定するつもりはない。土地には土地の習俗、信ずるものがある。しかし、それがデンボクの信ずるものとかち合うなら、デンボクは己の我を通させてもらう。相手がなんであれ、人間の力で対抗できるならば、人間のため戦う。そのための己であり、ギンガ団である。
……そう思っていた。神の姿を目の当たりにするまでは。足がすくみ、皮膚がひりつくような命の危機は、人生で二度目だった。
思い出しても、死人が無かったことに安堵する。同時に、あの若きマレビトに対する慙愧の念も。
……後悔というのが、どうにも自分の人生に課せられた重石であるらしかった。
「デンボクおじさん」
緊張で硬い声のコヨミが手を引き、デンボクは一瞬の思索から戻って来る。そして、新しい人生の重石を一つ、抱える羽目になった。
遠目に、揃いの深緑をした合羽姿の一団が現れた。どう見ても堅気でない風体の連中だ。一行もこちらを見つけたようで、胴間声を張り上げ威嚇してくる。デンボクの手に伝わるコヨミの力が強くなった。デンボクはピクシーをボールへ戻し、咄嗟に懐へ隠した。
己だけなら、どうとでも切り抜けられる手合いだ。しかし、足の遅いピクシーとコヨミを逃がすには、相手の数が多すぎる。
「このような時分に、斯様な人数でいかがした?」
一行はデンボクを値踏みするように眺めまわす。一行の先頭に立つ、大柄な男が腕組みした。これ見よがしに東国にいるガーディの刺青をちらつかせるが、それで怯むデンボクではない。立ち会う時のように、相手の様子を伺う。
「ここ何日かお天道様の機嫌が悪いもんでよ、おれたちゃ腹ァ減らしてんだ。カラスも食い飽きたんでな。ここいらで、人間の食い扶持にありつきてえのよ」
里山にはギンガ団の仮拠点がある。この連中だけが向かうなら煮るなり焼くなりするだろうが、己とコヨミを盾に取られては、持ち直したばかりの集落がまた被害にあう。それは避けるべきだ。
「邪魔だてするってンなら……」
男はそこで言葉を切る。その大きな体躯に耳打ちする者があったからだ。デンボクに投げられる視線に、己の身元が割れたことを悟る。
「お前(めえ)さん、ギンガ団の団長なんだってな。ちょいと、おれたちと一緒にコンゴウ団に『話をつけ』ちゃくれないかい」
コヨミがハッとして顔を上げた。おじさん、と囁く声に、デンボクは背中を撫でてやる。
「……それだけで良いのか?」
コンゴウ集落へ近づけることはさせぬ。そして、コヨミの身の安全は確保せねばならぬ。
「ギンガ団は拠点に帰れば、金目の物がある。どうせだ、こちらの身柄と交換として、持って消えるが良い」
デンボクの算盤が弾き出した答えは、「身の安全を優先し、ムベを待つ」というものだった。あの男は必ず、自分のもとに現れる。デンボクが望む望まざるにかかわらず、あの男は「そう」なのだ。ムベはデンボクの影であるがゆえ。
この強面を頼りと着物の裾を握りしめてくるコヨミを後ろにかばい、デンボクは男たちを睨んだ。
「ただし、子どもに手出しせぬことが条件だ」
合羽の一行は、頭領に聞くかと短い言葉を交わす。この場に一行の頭は不在らしい。
何か言いたげなコヨミを目で制する。
「……案ずるな。おまえの髪一本たりとも傷はつけさせぬ」
デンボクは、相談する相手の目が自分から離れた隙を狙って、そっとモンスターボールの開閉釦を押した。
「……奴を」
ひっそりと手近な草叢へ転がす寸前かけたその声は、ぐずり始める天気が轟かす遠雷に紛れた。
☽
頭の笠に小雨が跳ね返る音を聞きながら、ムベは暗夜を行く。デンボクがこよなく愛する満天の星は、あいにくの雨で見えない。しかし、星も月も隠れ、雨に足音も紛れるこんな夜は、ムベが人知れずひと働きするのにうってつけだ。モンスターボールを小さな腰籠や懐に忍ばせ、エルレイドだけを随行させている。
ギンガ団の技術を集めて作られたモンスターボールという道具を、ムベは存外気に入っていた。デンボクが作る握り飯ぐらいの大きさの物に、一騎当千の武力が詰まっている。故郷の頃、ひとりの体に六匹もポケモンを隠して歩くことができたなら、様々なことが容易かったろう。良いことも、そうでないことも。
「しかしお互い若くもないというに、無茶をやりおって」
壮年から老境へ差し掛かろうというデンボクは、衰えるどころか老いてなお気迫に鋭さを増すばかりだ。その姿は、ムベの胸の裡(うち)を複雑な色合いで染めている。
ムベが幼い頃から知るデンボクは、成人し妻帯しても、どこか幼子のような生意気さと、腕白な朗らかさを纏っていた。その男が、命以外のほとんどを失い、辿り着いたのが今の姿だ。暴挙に走ることもあるが、守ると誓った者への生真面な義務感と、今もデンボクに残る傷痕がそうさせるのだろう。
だからこそ、己がデンボクの影となり、地を這いながら汚れを肩代わりする。あの日変わったのは、デンボクだけではなかった。
「足跡は見つかったか?」
エルレイドに尋ねるが、首を横に振られる。ムベは左手で顎髭をつまんだ。雨で緩くなった地面なら足跡が見やすいものと思ったが、歩き回る、あるいは転がるようなポケモンの縄張りでは難しい話だった。
子どもの足で行けそうな場所は一通り回ったが、巨漢と童女という組み合わせは見かけない。だとすれば、何かあったものか。ムベは草叢や岩陰を伝って、雲海峠へ足を向けた。パラスなど、小さいが恐ろしいポケモンもいるため、警戒しつつ進む。
果たして、前方の斜め右より、草叢を掻きわける音。岩影から様子を伺って苦無を構えると、飛び出してきたのはピクシーだ。その片手がモンスターボールを握っているのを見、ムベは苦無を下ろした。見間違うはずもない。デンボクが大切にしているピクシーだ。
この桜色をしたポケモンは、月夜に踊るばかりではなく、不思議と遠くの物音を聞き分ける。先ほどの些末な独り言を聞き取ったものか。デンボクが供にしたのも、迷子探しに都合がよかったからだろう、と、ムベはあたりをつける。
姿を現したムベを見るなり、ピクシーは懸命に腕をばたつかせ駆け寄ってきた。鳴き声をあげながら、濡れた着物に丸い体を擦り付ける。なにを言いたいのかさっぱり分からぬが、周囲にデンボクの気配がないことで、自ずと答えは明らかだった。
「わしに会えと言われたか」
ピクシーは首を縦に振る。ムベの主君は身動きが取れず、コヨミと共にいるのだろう。ピクシーだけがボールを持ってこの場にいるということは、ボールごと、ピクシーをわざと「手放した」事情がある。
「デンボクと別れたところまで、わしを案内してもらえるかの」
ピクシーの先導で夜道を行く。彼女はその自慢の耳で、ポケモンの少ない道をゆっくりと進んで、雲海峠からリッシ湖へ続く開けた場所まで誘った。大人数に踏み固められた地面にかがみ込み、そっと指でなぞる。血の匂いも、足跡が乱れた形跡もない。
(諍いは……なかったらしいな。上手いことやりおったか)
目線を上げる。
(あちらか)
深い雪や泥を人間が何度も歩く時、自然と安全な場所に道筋がつく。リッシ湖の方へ蛇行しながら続くその道を見て、ムベはボールから二匹のポケモンを呼んだ。ジバコイルとオオニューラだ。
ジバコイルは、ムベの顔の高さで静止し、その一つ目でじっとムベを見る。
「上からデンボクらを探せ。この道を沿ってリッシ湖に向かい、見つけたら、かみなりで報せよ」
ゆらゆらと、平たい釜のような体を揺らし、ジバコイルは雨の中飛び立った。
「オオニューラは地上から、同じく南に。よいな?」
腕を組んでいたオオニューラも頷き、凄まじい脚力をもって跳び、夜陰に消える。
それを見送り、ムベ自身はポケモンとかち合わぬように再び暗い草叢に潜ろうと身を翻す。ところが、その着物の裾をピクシーが引いた。怒ったように鋭い声を出し、しきりに南を指している。やがて、ムベの耳にも男の声が聞こえてきた。
「おぬしはここにおれ。声を立てるでない」
闇から滲み出すような囁き声でピクシーに告げると、彼女は懸命に口元を手で覆って頷いた。エルレイドに、付いてくるよう手で指図した。
木立伝いに別の草叢へ忍び入り、聞き耳を立てる。
「これでお前(めえ)もタマグシ団の一員ってなもんよ」
体格の良い東国訛りの男が、隣の、頬に傷のある男と肩を組む。揃いの緑色に染めた合羽を羽織った、粗暴な風体だ。
(タマグシ団、以前に聞いたな。どこやったか……いや、場所はええ)
ヒスイに向かう道中のことだ。東国のやくざ者と繋がる、タマグシ団とかいう集団がいると聞いた。仁義や義理でまとまる渡世人とも別物の、ならず者。コンゴウの女衆が言っていたのは、この連中だったか。
東国訛りの男に肩を抱かれて恐縮した様子の、頬傷の男には見覚えがある。確かコンゴウ団で保護した流れ者で、働き口がないかと本部に面通しさせていたはずだ。不摂生で痩せた体に、目だけが忙しなく人の顔色を窺っている男だった。
「あの野郎、口のきけねえ木偶の坊かと思ったが、なんでえ、随分と頑丈じゃあねえか」
タマグシ団なる連中は、何かの手段で、デンボクの頑健さを試したようだった。ムベの瞳が凍ったリッシ湖のようになった。
デンボクが喋らないのは格下との口論が面倒だからで、頑丈なのは鍛錬の賜物だ。素手でリングマを投げ飛ばすような人間は、ヒスイ広しと言えど、デンボクかハマレンゲぐらいのものだろう。そして、そのデンボクが捕われたままということは、くだんの幼子が一緒なのは間違いない。
男たちはムベに気付かず、草叢を通り過ぎる。
……仕掛けるか。
ムベは草叢から飛び出し、東国訛りの男を背後から首を絞め上げて昏倒させた。不意を突かれて目を白黒させる頬傷の男を後ろ手に捻り上げ、膝裏を蹴って倒す。エルレイドに目配せし、頬傷の男の喉元に鮮やかな緑の刃を向けさせた。殺すつもりはない。牽制だ。頰傷の男は、ひ、と引きつった高い声を上げた。
ムベはエルレイドに頬傷の男を牽制させたまま、昏倒させた東国訛りの男に近づく。その懐をまさぐれば書状が見つかった。デンボクの自筆だ。体の一部でも包まれている覚悟をしたが、これをもって、本人が囚われている証としたのだろう。
要点を拾いあげると、子どもとデンボクの身柄を預かっている旨、二人と引きかえに、コンゴウ団の食糧蔵にある蓄えと、ギンガ団の所有する、貨幣価値のあるかけらや玉を、それぞれ指定の数行李に詰めて渡すこと。受け渡し場所はリッシ湖の南。期限は二日、とある。命は取らぬ代わりに毟れる物はとことん、という事か。誰かがアヤシシを駆れば二日で来られないこともないが……
(あやつめ)
改めて読めば、昔教えたシノビの符牒が巧妙に仕込まれていた。これでポケモンたちに頼らずとも、場所、人数が大まかに分かる。失ったと思っていた、デンボクの生意気な笑い顔をムベは思い出した。ここに来い、と言っている。
「あ、あんた、イモモチ屋のオヤジだろう。おれは出来心で、こんな大それたことになるなんて」
言い訳じみた震え声を吐き出す頬傷の男。ムベは無言でエルレイドをボールへ戻すと、交代でムウマージを呼んだ。胸の赤い玉を不気味に輝かせた彼女は怒り心頭の様子で、男の耳元で何事か囁いていた。
刹那、男の目が恐怖で充血し、声も出ない様子で喉を掻きむしる。
水に突き落とされる幻でも見ているか、はたまた、竜のげきりんに触れ炎に巻かれているのか。
(まあ、どうでもよろしいわ)
ムベは書状を自分の懐へしまい込んだ。倒れた大柄な男から鉈を取り上げて、男の体を草叢の外へ放り投げた。抜き身の鉈は近くに突き立てる。雨を受けて、ぎらりと光る刃先。
ムベは上空の気配に神経を集中させた。ムウマージの幻で男が上げた悲鳴と、輝く鉈。光る物が好きなポケモンが、今か今かと機会を窺っている。この二人には、ここでいなくなってもらうのが良い。
「……すらかみ屋は繁盛繁盛」
まるで信じていないまじないを唱え、ムベは急降下してくるヤミカラスの群れからそっと離れた。
☽
あまり無抵抗でも怪しまれるので少し強気に出たところ、棒切れで何発か貰った。急所は外して受けたが、幼子に見せたい場面ではなかったと、デンボクは穴だらけの天幕の下、簀巻きになって嘆息する。デンボクが記した文は中身を検められ、この拠点からコンゴウ集落へ投げ込みに行くようだった。出て行ったのは、最初に出会った集団にいた、大柄な男ともう一人。
自分の肉筆でもって、囚われの証とすると提案したのはデンボクだ。ギンガ団に宛てるとしているが、事実上デンボクからムベに対する私信である。こいつらの要求を飲む必要はない。おまえがここへ来い。リッシ湖をぐるりと回った南側、滝つぼの近く。人数は二十ほど。そのようなことを、あのシノビが遠い故郷にて戯れに教えてくれた符丁を散らして伝える。一見すれば不自然な文言がないのが肝だ。
殴られてからのデンボクは、抵抗らしい抵抗をしない。意地など張るだけ損だと分かっている。だから大人しく簀巻きのまま、コヨミのそばに丸太のように蹴り転がされた。土が髪や髭に張りつく感覚が不愉快だったが押し黙っている。話しても実のない相手に無駄口を叩くのは嫌いだ。
「おじさん、平気?」
尋ねるのは、頬に涙のあとをべったりとつけたコヨミだ。彼女は手足をいましめられ、天幕の柱に括りつけられている。コイキングのように体をしならせて向きを変え、デンボクはコヨミを見上げた。檄を飛ばすのは得意だが、この状況では情けなさが勝るし、柔らかい言葉がよかろう。精一杯、花を撫でるように、デンボクはコヨミを励ました。
「平気だ。必ず助けが来るゆえ、戻ったら、たんと、美味いものを食わせてもらおうな」
コヨミは、首を縦に振った。
「……痛くない?」
「ポケモンの張り手に比べたら、これしき」
血気盛んな相手なら武勇伝になるだろう話はいくつかあるが、この娘のような、活発だが無垢な子どもに聞かせるものではない。それ以上詳しいことは言わずにとどめた。
ギンガ団やコンゴウ団たちはどうしているだろうか。自分たちを探そうなどと、無茶を言っていなければ良いが。あの書状が集落に届くのが先か、ムベが掠めとるのが先か。
「気長に待つとしよう。泣くのは、セキに会うまで我慢できるか」
泣くと体力も気力も消耗する。コヨミは気丈に頷いた。あまり喋るとまたタマグシ団から不興を買う。それ以上は語らずに、不器用に微笑んだデンボクは体の向きを変えた。こうなれば、じっくりこやつらを観察するのも一興だ。
降り出した雨に苛立っている男所帯の空気は、立ち往生した飢えからくるものだろうか。それとも、かつてのギンガ団のように過酷な旅路の疲労によるものだろうか。灯りの乏しい天幕の中では推し量れぬが、デンボクの胸中は冷えていた。この一団の実態を自分は知っている。女や子どもを攫って売る、商家に押し込み命と金品を奪う……およそ悪事と名のつくものをやり尽くし、その果てが、これだ。
頭領と呼ばれている男は、デンボクより若い。見たところ、イチョウ商会のギンナンと、おおよそ同じぐらいだ。しっかりした体格に総髪、両脇にサイホーンを二匹従え、デンボクが余計なことをしないか、薄い刃のような眼光で睨んでいる。
幾つかの短いやり取りと、ここまで眺めて分かったことがある。この連中はヒスイの大地に於いても、どうやって他人が汗水垂らして得た財産を搾り取るかに執心しているということだ。
できればコヨミには聞かせたくない「商品」の売り買いや血なまぐさい話が、酷く下品な冗談を挟んで飛び交う。頭領は諫めるでもなく、時おり酷薄に唇を歪ませて相槌を打っている始末だ。
頭領の姿が、集団を映す。タマグシ団の頭領は、恐らく、己が従えるポケモンへの恐怖と、分け与える利益で手下を飼いならしている手合いだろう。それは、なるべく徳をもって治めたいデンボクの……ギンガ団の性質とは相容れぬ。
ここでかち合った以上、デンボクは決断せねばならない。このタマグシ団をどうすべきか。
己の決断が、ギンガ団やコトブキムラ禍福を巡らせる。抱えた命の数を思えば、デンボクの差配は重たいものだ。デンボクは因果というものを信じている。善い行いには良いこと、悪い行いには悪しきこと。もし若い頃ならば、もしコヨミがいなければ、躊躇せず根絶やしにする方向に舵を切った。年を食ったことで、老獪な……あるいは、日和った考えもよぎる。頭領だけを排除し、残りの有象無象はヒスイの冬に裁きを委ねるのも、ひとつの形であろう、と。
ムベならば、黙って最も苛烈な手段を講じるだろう。あの男は、一人で悪い因果を背負って死ぬ腹積もりなのだ。殊更に己を影に沈めておきたがるムベは、この頃は、もう自分は用済みだろうなどと零すほどだ。デンボクの周りには綺羅星のような人材があまたいるのだから、こんな老骨捨て置けと。
それを言われた時には、互いに年甲斐もなく掴み合いの喧嘩になった。不惑をとうに越え知命に足を突っ込む男どもの小競り合いに、「あほらしい」と矛をおさめたムベのせいで有耶無耶になってしまったが、あの、独り暗夜を征く男に、言ってしまえば良かったのだ。
デンボクが星空を描きだすと決めたのは、おまえがいたからだ、と。
まだ青二才で、妻を娶ったばかりの頃。集落の間で起きた揉め事の仲裁に、父の名代としてデンボクとムベが出向いた帰りだ。夜だというのに赤々と染まる空を、二人は見た。
デンボクは、身軽なムベに妻と親を助けるよう先に行かせ、自身も、今までにないほど必死に走った。赤い空は、なにかが焦げる匂いを風下のデンボクに運び、焦燥ばかりを膨らます。足指の付け根が鼻緒で擦り切れ、足袋に血が滲むのも構わず、デンボクはムベに追いついた。見知った故郷の姿はなく、白装束を煤で汚し、からっぽの両手を赤く染めたムベが、ゆるゆると首を向ける。
「あかんかった」
――その目。
二度とあんな、底なしの闇を吸い込んだような眼差しをさせまいと、デンボクは決心した。「皆が安心して暮らせる、新しい土地を拓く」という大言壮語の「皆」を口にするとき、デンボクが最初に思い浮かべたのは一人。
今となっては誰より長く時を過ごしたムベという男こそ、デンボクの満天の星々を輝かせる、ぬばたまなのだ。
「おじさん、デンボクおじさん」
コヨミが戸惑うように囁く。体を捻ると、コヨミは不安げに身じろぎしていた。その足元から、暗がりにも目立つ、灰白色の煙が忍び入る。デンボクはそこに混ざる、覚えのある匂いに気付いた。
「案ずるな。助けが来たぞコヨミ」
デンボクの声に、確信と活力がみなぎった。ひたひたと天幕の下を這う煙は、やがてもうもうと立ち込める煙幕へ変わる。何事かと戸惑うタマグシ団の声を聞きながら、デンボクは髭の下で、悪童のように笑った。
「遅いわ」
その軽口と同時に戒めが緩み、体を起こされる。軽く肩を揺らせば、デンボクを縛っていた縄はするりと落ちていく。
「爺に無体なことを言うでない」
ぼやきと共に倒れ込んできた幼いコヨミの体を、デンボクはしっかと抱き留めた。
「子どもは寝る時分よって」
灰色の視界で、三世の縁と頼る男と、ムウマージの笑い声が聞こえた。
☽
「怪我ないか?」
立ち込める煙幕の中、ムベはデンボクに尋ねる。
「こんなん、怪我のうちに入らんわ」
自慢気な声色で囁き返すデンボク。子どものような主人に、ムベはわざと冷たく返した。何を誇っているのやら。
「あほう。子どもの方よ」
「なんもさせとらん。怖がらせてしもうたが」
さようか。短く答える。時間がない。手短なやり取りは続く。
「お嬢は、ジバコイルと下で待たせとる。早う行き」
「おまえは」
デンボクの問いに、冷えた湖面のような声でムベは答える。
「お主の答え次第よ」
ムベの言いたい事を理解した主は、「うむう」と唸った。それを無視し、ムベは影の中から囁く。
「連中、このシノビの一存で処理してよろしいか」
主人の逡巡はムベが二度息を吸って吐く間だった。
「……血は流すな。それ以外、好きにせえ。それと」
デンボクが、夜道を照らす灯火のようにムベを見た。
「おまえの因果は、おれも背負(しょ)うと決めとる。良しも悪しも折半や」
ムベは口をへの字に曲げた。
「……今言うのんか、それ」
「おう。やっと言えたわ」
デンボクは低く笑い声をこぼした。片手でコヨミを抱き直すと、ムベの肩を軽く叩く。
「ほな。早う戻って来い」
まるで近所へ使いに出すような気楽な物言いを残し、主は煙の彼方へ消えた。その迷いない足取りが、ムベの胸に細波を起こす。かつて救えなかった分まで、あの男には抱き上げるべき命が数多ある。そんなデンボクが抱える命に、自分まで含まれていると知ってしまったのが、どうにも座りが悪い。
「本当に、あの男は、いらんことを」
修羅場において感情を顔に出すなど。随分と、なまくらになってしまった。されど使い道のある技と命。シノビの深縹の目が、すい、と細くなる。胸の波は凪ぎ、テンガン山の万年雪のように冷えていく。
やがてデンボクの足音を遠くに聞く頃、煙幕は晴れる。ムベは白装束を纏った一振りの刀として、その場に現れた。
突然現れた奇妙な風体の老人に、タマグシ団たちは混乱混じりの敵意を向けてくる。その中で、飛びぬけて貫禄のある総髪の男が、恐らくタマグシ団の頭領。
あれか。主を貶めた男は。ムベは、どろりと光のない目でその男を見やった。
「とらえていた者は逃がした」
ムベは懐からつまんだ書簡を足元に落とした。
「ギンガ団は取引せぬ」
相手の頭領は、煮え湯を飲まされたような不快感を剥きだしている。面子を潰されたら怒り狂う手合いなのだろう。嘲るように目を細めると、頭領の男はムベの安い挑発に乗った。殺せとがなり立て、背後に従えるサイホーンを手振りでけしかける。
巌の犀は、数度その固い蹴り足で地面を削り、一直線に襲い掛かって来た。けれど、ムベにとっては大ぶりな力技など造作もない。触れれば命も吹き飛ぶ「たいあたり」を飛び込むような前転でかわし、振り向きざまに苦無を閃かせる。狙いは堅い肌の継ぎ目。
ところが、その苦無は二匹目のサイホーンに弾かれる。すぐさま大きく後ろへ飛びのいて追撃から逃れ、ムベはモンスターボールをサイホーンの鼻面へ叩きつけた。飛び出したのはロズレイド。萌える若葉の袖なし外套をはためかせたポケモンは、両手の花を舞うように揺らした。麻痺毒を含んだ花粉が眼前のサイホーンにまとわりつき、動きを鈍らせる。
さらに片手で二のくつのボールを地に落とす。現れたサーナイトが優雅に、エルレイドは両手の刃を力強く構え、ムベを守るよう両脇に控えた。一連の動きはムベの命じたものでなく、各々がそうすべしと判断した結果だ。
ムベはサイホーンの相手を彼らに任せ、人間たちを相手取るべく背を向ける。信頼しているのは、サーナイト達の習性だ。主人のムベが無防備な背を晒せば、おのずと力を発揮する。ムベと同じく、そのように生きるものだからだ。おかげで心置きなく、眼前のタマグシ団たちに集中できそうだ。
向き直った一団は、一度に大量のポケモンを繰り出し、使役するムベに怯えとも怒りともつかぬ表情を浮かべていた。下っ端連中が頭領を守るべく固まって、じりじりと下がっていく。その頭領の眉間目掛け、ムベは目にもとまらぬ早業で腕を振るい、苦無を飛ばした。
頭領の男は手近な仲間の首を掴んで引き寄せると、凶刃を防いだ。
(それがおぬしの底か)
ムベの手にかかるか、頭領の盾になるか。前後を命の危機で挟まれた下っ端たちが散り散りになる前に、ムベは天幕の上に声をかける。
「下りて来(き)い」
天幕を自慢の爪で切り裂いて飛び込んできたのは、別行動していたオオニューラだ。両腕の爪を打ち、何をすればいいかと尋ねるようだった。
「足止めせよ。傷つけるな」
心得た、と高く鳴いたオオニューラは、転がる鞠を追いかけるようにタマグシ団の連中を追い回し始める。とかく悪戯者で困るオオニューラだが、ムベの命じたことは忠実に守る。
この様な使い方をするものだから、ポケモンとの絆という物言いは、ムベには腹落ちしないのだ。情や優しさとは程遠い鉄火場の中、互いの命を預けられるまでに育ったそれは、絆と言うにはあまりに、血の匂いが濃い。
ムベは肩の力を抜き、重心を低く取った。いまだムベとやる気でいる、十数人からなるタマグシ団の動きを、広く視界に捉える。少しでも敵意を持った動きの予兆が見えたら、即応する気構えだ。
睨み合うこと寸刻、痺れを切らした数人がムベに襲い掛かる。ムベの無感情な瞳には、それらはナエトルの歩みがごとく見えている。処理する順を瞬時に判断し、電光石火の速度で動いた。
飛びかかる一人目の勢いを利用して腕を叩き折り、その捕らえた体を二人目にぶつけ、まとめて蹴倒す。背後から襲ってきた三人目は、肘を鼻面に当ててから顎を掌で打って気絶させる。怯んだ四人目は苦無の柄で喉を殴る。それを、その場からほとんど動かずにやってのけた。
装束の白を汚すことなく、ムベは淡々と物言わぬ塊を作り続けていく。
背後で悲鳴。逃げようとした連中に、ムウマージが端から呪いの言葉を流し込んでは、怯えおののく姿を笑っているようだ。視界の端に捉えるムウマージの宝玉はいよいよ赤く、怪しげに瞬く。
「その辺にしときや」
最後の一人を泥中に叩きつけ、ムベはムウマージに声をかけた。久しぶりに思い切り他人を怖がらせ喜ぶムウマージには悪いが、これ以上されると、ムベが疑われる。警戒したまま周囲を見渡せば、概ね決着がついていた。頭領の姿はない。ムベが吹雪の無慈悲さで立ち回りを見せる間、ポケモンも手勢も見捨てて逃げたらしい。
「オオニューラ」
呼べば、オオニューラが少し離れた楡の木から逆さに顔を出し、長い爪を東へ向けた。ムベは頷くと、未だサイホーンたちを引き付けていたサーナイトら三匹に告げる。
「畳んでええよ」
三匹はそれぞれの声で了承した。結果は見る必要がない。楡から飛び降りたオオニューラが、高飛車な面構えでムベに向かって顎をしゃくっているので、躊躇なくオオニューラへ駆け出した。オオニューラはムベに向かって、爪を交差させ膝を折る。ムベが爪に足をかけると、オオニューラは全身を使って、雨のそぼ降る夜天へムベを跳ね上げた。その爪を蹴って更に高さを得たムベは、上空で目をすがめる。
(……おった)
思考と動作はほとんど同時だった。ムベの投擲した苦無は、雨で煙る視界を物ともせず、頭領の延髄を射抜く。骸がひとつ増え、打ち倒すべき者はいなくなった。
落下するムベは、楡の枝を掴み一回転すると、勢いを殺して頭領の側へ着地した。
物言わぬ頭領を俵でも持つように抱え、リッシ湖の滝壺から真っ逆さまに投げ込んだ。投げ込む寸前に苦無を引き抜き、べっとりとついた赤黒いものを、倒れた下っ端の合羽で拭いとる。
「これこれ」
オオニューラがムベを真似、両手に男たちを抱えあげたのを、ゆるく首を振って制した。
「もう戻り。おぬしらも、ようやったわ」
懐のモンスターボールを取り出して、手近なオオニューラから戻していく。オオニューラが抱えていた男たちが、落下の衝撃で目を覚ます。それを冷ややかな目で舐めれば、一目散に崖を滑るように転げて逃げていった。特に関心を抱かず、ムベは次のボールを手に取った。
サイホーン達を退けたサーナイトやエルレイド、ロズレイドの三匹は各々優雅に一礼し、まだ遊び足りぬと左右に揺れるムウマージは、溜息とともに。あと一匹、デンボクらの護衛につけたジバコイルは、戻り道で待っているだろう。
ボールを元の場所に収め、ムベは淡々と自分の作った屍とそうでないものをあらためていく。亡骸だけを抱え、頭領と同じ場所へ捨てていく。
全て終わった頃には、東の端から光が差し込みだしていた。
「悪いなぁ。こればっかりは、おまえらを使うたらあかんのんや」
誰に言うでもなく、ムベは夜陰を払う光に向かって呟いた。
◆
「おかえりなさい、ムベさん! 今朝もお早いですね」
背負子に野草やケムリイモを積んで戻ったムベを出迎えたのは、若い調査団員のショウだ。ムベが食材を採りに里山や峠に分け入るのを知っているショウにとっては、日常の一幕に映っている。
「デンボクさんとコヨミさんも、戻ってきましたよ!」
彼女は豊かな黒髪を弾ませ、デンボクの無事を知らせてくれた。
「さようか。そりゃあよかった。どこぞ、雨宿りでもしとったんじゃろう?」
ショウは、ムベの背負子を背中から剥ぎ取ると代わりに背負い、眉を寄せる。
「いいえ、それが」
デンボクたちは、最近この辺りに流れてきた悪漢に攫われ、リッシ湖にいたのだとショウは言う。
「そこで仲間割れがあって、隙を見て逃げてきたそうです」
「それはそれは」
ムベは顎鬚を撫でた。つまり「そういうこと」にするのだな。内心で承知した。
「二人とも怪我などないのか」
「おう、この通りピンピンしておるわ」
ショウに尋ねたはずが、デンボクの声が正面からぶつけられた。いつものデンボクが、ムベの前に立っている。
「コヨミの方は、ぐっすり寝とるよ」
「団長! 平気ですか?」
「もちろん、このぐらいで音を上げるほど、ヤワには生きておらんわ。して、ショウよ……」
ムベの調理場へ向かうショウと何事か相談するデンボクは、差し込む朝日がよく似合っていた。
「そうだ。朝餉はおまえの飯が食えるのだろ?」
デンボクがふと、ショウの頭越しにムベに尋ねる。
「一晩何も腹にいれておらん。正直なところ、空きっ腹で寝つけずよ」
「構わんが、今から拵えるとなると、粥か雑炊だぞ」
夜通し働いていたのに、まだ使う気か。ショウに気付かれぬようデンボクを睨む。
「充分よ。ショウ、その荷はわたしが持って行くゆえ、コヨミについてやってくれぬか」
ショウを体よく追い払うと、デンボクはショウから受け取った背負子を片手で担いだ。
「あのなあ。わしは夜っぴて後始末しておったのだぞ」
「まあ、そう言うな。ショウの話では、ホオノキも快癒してこちらに来るそうだ。また騒がしくなる前に、故郷の味の物が食いたいのよ」
「おまえの書きつけも効果がないとは……大人しくしとらんのか、あいつは」
「そういう生き物なんだろうよ、おまえと同じだわ」
デンボクが強い力で、わざち曲げたムベの背中を叩く。たたらを踏んでしまったムベは、傍らの男を睨み上げる。
「おまえな」
「もう少し付き合ってくれぬか。温かいところなら、おまえのことをもう少し待っていてくれるだろう」
ああ、困った。これでは出て行けない理由が増えてしまう。ムベは顔をしかめて、被った手ぬぐいに手をやった。
朝日が眩しかった。
【暗夜の男 終わり】