top of page

Marnie's excrusions

previous

next

 故郷のアーケード街が小さくなるのを、そらとぶタクシーの窓へ額を押し付けるようにして、マリィはじっと見ている。もしかしたら追いかけてくるかもと思っていた兄の姿は、スパイクタウンが見えなくなるまで目を凝らしても現れてはくれなかった。失望とも悲しみともつかない息で窓を曇らせる。ため息の原因が自分なのか兄なのか、マリィには分からなかった。
 吹き込む風に憂鬱を吹き飛ばしてもらえないかとタクシーの両窓を開けてみても、胸で崩れた塔の跡地にはモヤモヤしたものが居座ったまま。強い風に驚くモルペコを大丈夫と撫でてやり、マリィはかぶっていた帽子が飛ばないようリュックにしまった。
 心の中に塔があると気づいたのは、いつだったか。兄が己を守るため心に高い砦を築いたように、マリィにも「塔」がある。それは、兄への小さな我慢が積み重なったものだ。
 ずっと、誰よりも近くで、マリィは兄が細く尖っていくのを見てきた。その鋭さをかっこいいと思う反面、美術で使うデッサンの鉛筆みたいに、兄の芯が、誰かの手で細く剥き出しにされているような気がして怖くて。けれど幼いマリィにはどうにもできなくて悔しくて、そのたび、我慢の塔は高くなっていく。
 早く大人になって、兄の背負うものを軽くしたい。自分の前でも無理して笑う兄なんか見たくない。その願いは、チャンピオンを目指す理由の一つだった。けれどマリィが手にするはずだったチャンピオンの栄誉は、現在、彼女が認めざるを得ないトレーナーの手の中だ。今頃、そのチャンピオンはアラベスクでビートと練習試合をしているだろう。
「あ」
 それで思い出した。来週、リーグ主催のチャリティトーナメントがある。試合の調整もしなくちゃいけないのに、すっかり頭から飛んでいた。ジムに居場所を伝えた方がいいかと慌ててリュックをひっくり返したけれど、仕事用のスマホロトムは出てこない。家に置いてきてしまった。
「やらかした……」
 そらとぶタクシーは、もうスパイクとバウの間に横たわる海にその影を落としている。どのみち、戻る気にはなれない。なにかあればきっと、どうせ兄経由で連絡があるだろう。マリィは小さな口を不貞腐れたように歪ませ、窓枠に頬杖をついた。結んでいない髪が風で揺れる。
 ジムも町の大人も、なにをするにもまず「ネズさん」だ。今のジムリーダーはマリィなのに、ネズさんに確認します、ネズさんの許可が必要です。おまけに兄自身が、「初年度なんですから試合に集中しなさい」と言って、本当はマリィがやるべき仕事を取り上げてしまう。
 マリィは試合だけやればよくて、アニキと一緒に町のことやジムのことを考えたらいけんの?
 言いたくても言えない一番大きな我慢が、塔に積みあがった矢先の、今日の午後だ。
 きっかけは、ささいなこと。兄とティータイムを楽しんでいた時、両親について尋ねたことだった。マリィは両親のことを覚えていないが、新しくできた友人たちは、それぞれ「家族」を持っている。家業の手伝いは大変だが楽しいとか、父が留守がちで悲しいとか、あのバアさんときたらで始まる愚痴に見せかけた自慢。そういう話を聞くようになって、単純に知りたくなった。
 兄はケーキを飲み込むと紅茶に口をつけ、「いい人たちでした」と言った。
「二人ともお互いを大事にしていて、良い意味で遠慮がない人たちで……そういうところが、みんなに愛されていました」
 そうして、それでおしまいだった。
「あまり、覚えてないんですよね」
 微笑んでいる兄は、一見すると困った妹を相手にする良い兄に見えるだろう。けれど、この顔はマリィに言いたくないことがある時の兄だ。大丈夫と言いながらバスルームでシャワーを出しっぱなしに二時間出てこない時や、おれが引き受けるよと悪質な取材からマリィを剥がした時、昔シュートシティでローズ前委員長と鉢合わせた時。
「期待に沿えなくて、悪いんですが……」
 この言葉が、マリィの塔を突き崩した。限界だ。
「誤魔化さんでよ。そういうの、あたしだってもう分かっとーよ」
 まだ小さいから、傷つけるかもしれないから、そんな言い訳をして、兄はマリィに色々なことを隠す。兄なりの気遣いと分かっていても、子ども扱いされている態度は気に障る。こういう時、どうしたらいいかは分かっていた。目の前で自分に戦い方を教えてくれた人のようにすればいい。押さえつけられたと感じたら、マッスグマのように反抗するのだ。
「どうしてマリィには内緒なん? そういうところ好かん」
「ごめんなさい。どう言ってやればいいのか分からなくて」
「ずるいよ。アニキ。いっつもそうじゃんね」
 自分をいつまでも、泣き虫マリィだと思っている兄。言われたこと、されたことをどう受け取るのか、マリィが自分で決めることなのに!
 先回りして道を塞がれるなんて、もう我慢できない。
「マリィにはまだ早か、大変な話やけん、って! じゃあいつならよかとね! ジムリーダーのお仕事もそうったい! マリィ、なんのためにおるんか分からんばい!」
 ダイニングテーブルに両手を叩きつける。兄の顔が、自分が横面を張られたような、呆然としたものに変わった。リビングでだらけていたモルペコが、心配そうな声で駆け寄ってくる。
「いつんなったら、アニキはあたしを認めてくれるわけ!」
 普段マリィに沢山の愛してるをくれる唇は、薄く開いては、躊躇いがちに引き結ばれる。こうなった兄からは、もう謝る以外の言葉が出てこないとマリィは知っている。うんざりだ。
「もういい! 知らん!」
 そして最小限の荷物で家を飛び出し、町を駆け抜け、ここにいる。
「なんで」
 ぽつりとこぼす言葉を、モルペコが見上げる。普段は陽気な妹分も、マリィの気持ちを分かっているのか心なしか神妙な態度だった。
「……あんなこと言っちゃったんだろ」
 言葉にしてみただけで、本当はマリィにだって分かっている。自分がそれほど怒っていると兄に伝えるには、今のマリィはああ言うほかなかった。それでも。
「やだな」
 兄を初めて傷つけようとしたマリィの拙い言葉は、目論見通り兄を貫いたのに。なぜか自分の方が、じくじくと痛む心を持て余している。早く、友達の元気過ぎるほど元気な顔を見て、この痛みをどこかにやってしまいたかった。ケガしたときのおまじないをかけてくれる人のもとから飛び出してしまって、頼れる相手が他にいない。
 そらとぶタクシーは、ブラッシータウンを目指している。



 のどかな印象を持たれるハロンタウンも、夏を迎える前は、にわかに慌ただしくなる。ウールーたちの毛刈りが始まるのだ。当然、ホップの家も大忙し。ソニアも事情を分かっているので、しばらく助手はお休みにしてもらった。
「ホップ、手止まってるよー」
「ごめん!」
 あまりに手際のよい母のバリカン捌きに見とれていたら、背中に目がついているのか、母がホップを見もせずに言う。祖父や母が刈り込んだ毛を袋に詰めて次の工程を担う祖母に渡すのが、今のホップの仕事だった。
 ポケモンを助けられる大人になりたいと勉強を始めたが、こんな身近なところに先生がいるとは思っていなかった。自分が試しにバリカンを持たせてもらった時より、ウールーたちがずっとおとなしく、ころころと母の腕で転がされている。
「週末、ダンデ帰ってきてくれるんですって」
「ホントか! アニキとウールーの世話できるなんてサイコーだぞ。ソニアも来てくれるって言ってたから、サクッと……」
『マリィからメッセージ!』
 体毛のない貴重なウールーの姿を録画していた青いスマホロトムが割り込む。画面には、「ついた」と短い文字列。ホップは抱えた毛のかたまりを袋に押し込んだ。
「かーちゃん、マリィ来たから抜けてもいい?」
「もちろん、行っといで。今日はありがとね」
「じゃあ行ってくる! ザシアン、ウールーたちのこと頼むぞ!」
 案外牧羊犬としての素質を見せる大きな仲間に言いおいたホップは、牧場の柵をしっかり閉め、Tシャツの裾で汗を拭うと、ブラッシーの駅へ急ぐ。
 マリィから「会いたい」と連絡があったのは数時間前だった。同期のトークルームでは仲良くしているし仲良しの友達だけれど、個別で連絡してくることはあまりない。珍しく思いつつ返信する。
『いいぞ! 今家の手伝いしてるから、すぐは無理だけど……』
『ごめん。マリィ邪魔かな。行かん方がよか?』
 この一言で緊急事態の匂いを感じたホップは、すぐブラッシーの駅まで来てほしいと伝えた。着いたら迎えに行くから、そこにいてくれ、と。マリィの返信は、また「ごめん」で始まっていた。普段なら、こんなに寂しい言葉遣いをする子じゃない。もっと、自分のやりたいことを伝えてくれる。ホップの駆け足は早くなった。
 駅前のベンチに、ハロンではあまり見かけない、黒く長い髪が揺れていた。特徴的な前髪のアンダーカットを隠すように、バケットハットをかぶった女の子。気づかれたくないんだろうと、ホップは元気に挙げかけた手を我慢した。
「マリィ」
 彼女の前に立ち名前を呼ぶと、その愛らしい名前の持ち主は顔を上げた。いつもクールな表情のマリィが、ホップにも分かるぐらい弱っている。
「ごめんホップ。無理言って」
「マリィに謝られると調子狂っちゃうぞ。なんかあったのか?」
 友達はうなだれるように頷いた。
「話せる相手、ホップしかおらんと思ったから……」
 自分しかいない? そんなことないはずだ。マリィには、なにがあっても待っている人がいて、居場所があって、その人がマリィを守ってくれる。
「もしかして、ネズさんとケンカしたのか?」
 今度は首を横に振って、マリィは消え入りそうな声で答えてくれた。
「あんなん、ケンカでもなか……」
 ショートパンツの裾を握りしめるマリィの姿に、ホップは「うそだろ」と内心驚いた。マリィという子が、こんなにしょげ返ったところは見たことがない。これは想像以上に緊急事態だ。
「あたしだけ、アニキに言いたいこと言って、飛び出してきたけん」
 強い日差しが、うなだれるマリィの白い首筋を焼くようで、ホップは慌てた。どこか涼しい所……と思い当たったのが、歩いてすぐの研究所。そこに行こうと喉まで出かかって、踏みとどまる。あそこの主人であるソニアはマリィとはほぼ初対面だし、彼女はソッドとシルディの騒動でネズと連絡先を交換しているはず。それに、今、ソニアのパワフルさはマリィに逆効果な気がした。
「ええと……そうだ、オレんち! オレんち行こう! 部屋で話そうぜ」
 ネズが関わらない場所で、ホップがマリィを匿える場所はそこしか思いつかなかった。



『しばらく帰らん』
 妹が出ていって少ししてから届いたメッセージは、ネズの心を泥中に突き落とすのに充分な威力があった。けれど、どんなに泥まみれのみじめな気持ちになろうと、仕事はネズが立ち直るのを待ってくれない。時間通りにシュートシティのスタジオに入り、ルリナとの撮影をどうにか終え、打ち上げを躱して帰宅すると日付を跨いでいた。
 以前MVで使ったスティレットヒールのメーカーから、次シーズンのガラルでのアイキャッチに、ぜひルリナとネズを起用したいとオファーがあって、今日はその撮影日だった。現場では、憂いを含んだ視線が最高だとスタッフやルリナに絶賛された。けれどどんな賞賛も、ネズの心を晴らすことはできない。ガラルのマタドガスにもどうしようもできないものだ、仕方がない。
「戻りました」
 鍵を開けても人間の音がしない我が家に、ネズは胸の煙が煤のように吹き上がるのを感じた。留守を預かってくれたネズの手持ちが出迎えるのを、なおざりに撫でながらリビングに向かう。午後からそのままだった自分とマリィの食べ残しをフードリサイクルの袋に落とす。食べものを捨てる時の罪悪感は、どうしてこんなにも重いのだろう。皿を食洗器に突っ込んで着ていた上着をソファに投げ込み、ようやくスマートフォンの通知を確認する。「保護者会」のグループチャットに未読のメッセージがあった。
『マリィちゃんがお泊まりしに来たので、気が済むまでいさせるつもりです。詳しい話は聞いてないけど、近所で見かけてもそっとしておいてあげて』
『承知しました。明日からお手伝いに行くので、彼女に会った時には挨拶だけにしておきます』
 先にメッセージを読んだらしい新チャンピオンの母親が返信している。彼女はカントーの人間らしい、丁寧すぎるほど丁寧な文章を作る人だ。
「……」
 片手をダイニングテーブルに乗せて、力の抜けた体を支える。妹が衝動的に家を出て行ったのは初めてだったが、ジムチャレンジをやり切った彼女だ。滅多なことはしない信頼はある。それでも、少女へ伸びやすい悪意の手は多く、それだけが気がかりだった。この時間だが、急ぎ返信する。
『連絡をありがとうございます。安心しました』
 ホップと新チャンピオンの母親とは、度々連絡しあっている。ジムチャレンジ同期の少年少女たちの保護者として、子どもだけで出かけるとか、誰かの家に泊まるとかいう時に緊急連絡先として登録しあったのが始まりだ。今では常備菜のレシピを交換するとか、大量に貰うスポンサー商品のお裾分けとかで定期的に話す仲だった。不規則な生活リズムのネズが、既読や返信にムラがあるのも理解してくれる。
『おれが気持ちを上手く汲めなくて、傷つけてしまったのです。彼女をよろしくお願いします』
 なるべく感情が出ない文章で感謝を伝えると、すぐ既読がついた。
『この前までそっちにホップが寝泊まりしてたんだもの。持ちつ持たれつ! 気にしないで』
『ネズさんも、あまり思い詰めず、妹さんを待ってあげてくださいね。うちの息子にも似たようなことがありましたから』
 先達の言葉ほど、こういう時頼もしいものもない。二人の母親に重ねて礼を述べ、ネズはスマートフォンをテーブルに伏せた。
 出かける前の、妹との会話を思い出す。彼女の自尊心を損ねたと気づいた時には、もう遅かった。謝って取り返しのつく話ではない。あの口ぶりだと、長く我慢を強いていたらしいことが分かり、ネズの後悔は深まるばかりだった。
 きっと一番いいのは時間に任せることだが、来週には試合があるため、一週間もすれば彼女は帰ってくる。
 ……出て行くか、おれが。
 それがいいような気がする。あの子が戻ってきてから、自分は町のホテルでもどこでも……
 一足飛びで思考を巡らせる自分を、あの時の、妹の怒りの目が突き刺した。
「ダメなやつだね、本当に」
 そういうところが好かん言うとるんよ、あの子は。
 ネズは呟くと、買ってきた二人分の朝食を冷蔵庫に入れた。



 ココガラの鳴き声で目を開けると、スパイクタウンでは珍しい朝日が部屋に差し込んでいた。一瞬自分の居場所が分からなくなったけれど、マリィのそばで丸くなるチョロネコが、ここがホップの家だと教えてくれる。
「……おはよ、チョロネコ」
 声をかけると、チョロネコはあくびをして起き上がった。何度か遊びに来た時に仲良くなったチョロネコは、ゆうべもマリィにべったりで、ゲストルームまでついてきてくれた。
 昨日は理由も語らず、ただ「家に帰りたくない」とわがままを言うマリィのためホップが母にかけあい、泊めてもらえることになったのだ。ホップの母は突然の客人にも関わらず、好きなだけいなさいと歓迎してくれたうえ、必要なものがあるだろうからと、ブラッシーのブティックまでトラックで連れて行ってくれた。
 そこで調達したオーバーサイズのツボツボTシャツから着替え、モルペコが枕にしていた自分のスマホロトム引っ張り出す。いつもより、少しだけ遅い時間だった。
 しばらく戻らないと送ったメッセージに明け方届いた兄からの返事は、シンプルな「わかりました」だけ。兄のことだから、なにを言ってもマリィを傷つけるとか、余計な心配をしているのだろう。どこまでもマリィを優先させる兄に口を尖らせる彼女の表情に、昨日の悲壮さはない。悲しい気持ちは一晩ぐっすり眠ればリセットされるのが、マリィの良いところだ。
 息をついて窓を開けると、太陽と草とウールーの匂いがした。
「おはようマリィ。起きてるか?」
 ノックとともにホップの声がして、マリィはドアを振り返る。
「ホップ、おはよ。起きとーよ」
 髪を整えてドアを開ける。チョロネコはホップの足をすりぬけ、階下にスタスタと向かって行った。はらぺこもようのモルペコが入れ替わりにマリィの足元へ駆け寄ってくるのを抱き上げる。
「朝ごはん支度できたから、呼びにきたぞ」
「あんがと」
 チョロネコを追うように、マリィたちもダイニングへ向かう。
「オレが準備したんだ! 砂糖なしの紅茶でいいんだよな?」
「うん」
 ホップとマリィは、お互い寝起きの姿も朝食の好みも知っている。この間まで、ホップがマリィたちの住む家にホームステイしていて、詳しく知ったのはその時だ。ホップがスパイクの近くで野宿しながらポケモンについてのフィールドワークをしている姿をマリィが見つけ、うちを拠点にしろと引きずって帰ったのが始まりだ。半月ほどいただろうか。すっかり自分たちの家に馴染んだホップが帰ったあとは、しばらく家の中が格別静かに感じられた。
「今度はマリィがお客さんだからな! もてなされてくれよ。モルペコもな!」
 ダイニングテーブルに、ガラル風マフィン、ベーコンと目玉焼きが乗ったお皿が並ぶ。きのみが沢山の籠もあって、モルペコがマリィの腕で早く寄越せと暴れた。チョロネコに催促され、市販のドライフードをフードボウルに開けてやるホップの背中を見ながら、マリィも、モルペコにきのみを手渡してやる。
 バトル向きのポケモンばかりが十匹ほど暮らすマリィたちの家では見られなくなった、のどかな朝だ。今はモルペコ以外をブラッシーのポケモンセンターに預けているけれど、家ではポケモンたちのご飯となると大仕事で、人間の食事が終わってから、自分と兄のポケモンが交互に食事をすませるのが朝の一幕だった。
 ……兄は、ちゃんと朝ご飯を食べているだろうか。
 割ったマフィンの中にベーコンと目玉焼きを挟み込みながら思う。兄がジムリーダーだった時はマリィが起きると朝ごはんができていたし、今でも朝のテーブルには必ず一緒についてくれるけれど、忙しいと平気で飲み物やヨーグルトだけで済ませる人だ。しばらく音楽の仕事が入っていると言っていたはずだけど……そこまで考えて、はたと気が付く。どうして自分が兄の心配なんか!
 マリィは八つ当たりのようにマフィンにかぶりついた。じゅわりと広がるベーコンの脂とハーブの風味が、不機嫌と一緒に胃の中へ飲み込まれていく。
「おいしかね、これ」
 マリィの向かいに座ってチョロネコの食事を見守っていたホップは、頭を掻いて照れた。
「かーちゃんの真似しただけだぞ」
 そのホップのお母さんはじめ大人たちは、ウールーたちの世話をしに、もう外に出ているらしい。広いダイニングテーブルに二人きりで食事を摂りながら、ホップは色々と話してくれた。今はお家が忙しい時期だとか、マリィがよければハロンを案内するとか。他にもやりたいことあれば、一緒にやろうな! と、溌剌としたガッツポーズを見せてくれた。
 同じジムチャレンジの道を駆け抜けて知り合った友人たちの中でも、ホップは、とりわけ明るく率直な人柄をしている。決めたことにひたむきな姿勢を見ていると、応援したい気持ちが湧く、そんな少年だ。そのホップの気性が分かっていて、甘えてしまっている自分が情けない。せめて、居場所代ぐらいは支払わないと。
「そんなら、ホップんとこのお手伝い、あたしもやってよか?」
 マリィのお願いに、ホップは目をいっぱいに開いて驚いた。
「えっ? せっかくだから、のんびりしていいんだぞ?」
「せっかくだから、やらせてほしいんよ。泊めてもらったし」
 今のごちゃごちゃした気持ちでは、ホップがどんなに楽しいことに誘ってくれても、上手く乗れない。いつもと違うことに真剣に触れて、兄を思い出すことから離れたかった。
「だめなら、前にホップが言ってた、お家の裏にある森とか案内してちょうだいよ」
 うーん、と、ホップは腕を組んだ。
「かーちゃんはオッケーすると思う。あんまりウールーにはさわれないかもだけど、いいか?」
「いいけど……?」
 どこか申し訳なさそうなホップを不思議に思いながら、淹れてくれた紅茶に口をつける。
「バトルしないウールーの扱いは初めてだろ? ちょっと厳しい言い方するけど、責任持てないことはさせられないぞ」
 そういうことなら、と、マリィは納得して頷いた。むしろ、どうしてそんな顔をするのかが分からない。首をかしげたマリィにホップは言う。
「これ言うと機嫌悪くなるヤツもいるんだ。マリィたちはすぐ分かってくれて助かるぞ」
「あたしに怒る理由がないじゃん」
 ホップの家にいるウールーは、生活のため飼育するポケモンだ。自分が勝手に判断できることではない。ポケモンと生きることについては、モルペコを貰った時に、その責任がどれほど重く大切なことか教えられた。
「命を預かるんやけん、当然でしょ」
 ね、と、食べ終えたきのみのタネまで齧っているモルペコの頬をつつく。
「……なんね?」
 視線を感じると、向かいでホップがニコニコしていた。ホップは、なんでもないぞ、と元気よく椅子から立ち上がる。
「かーちゃんにマリィも手伝っていいか聞いてくる!」
 ヒバニーが跳ねるように外に出て行くホップを見送る。
「? ……変なホップ」



 ホップの家が持つ牧場は、スパイクジムのバトルコートが何枚もおさまりそうな広いものだった。その片隅にある厩舎前で、大人たちはウールーたちの毛を刈っている。最初にマリィが任されたのは、ホップと一緒にそれを袋に詰めて、不純物を取り除く作業台へ運ぶ、というものだった。ホップの祖母はじめご近所の人たちが待ち構えるところに、まだ熱の残るウールーの毛を、ふたりで手押し車を使って届けるのだ。
 何往復かして、牧場の仕事が思っていた以上に体力勝負だと、マリィは身をもって理解した。もしかして、ヤローがあんなに強そうな体格をしているのも、ウールーたちを世話していたからだろうか。借りた麦藁帽の下、首からかけたタオルでマリィは汗をぬぐう。同じく借り物のオーバーオールは少し大きくて、肩ひもが落ちてくるのも直した。
 普段のおしゃれをかなぐり捨てた格好は、ビートが見たら皮肉っぽく笑われそうだ。もしそうなったら、ホップと一緒にビートを引き込んで手伝わせるだろうな。最後にはしぶしぶ謝ってくれるに違いない。ビートがいるなら、チャンピオンもいた方がいいな。あの子は、ちょっとぼんやりしたところがあるけれど、ポケモンと触れ合うのは大好きな性根だから楽しむだろう。
 一緒にいたら面白かったかな、と隣のホップをなんとなく見ると、ホップは載せきれなかった袋を担いだまま笑った。
「来年はビートとアイツにも手伝ってもらおうぜ」
「うん! 絶対楽しいもんね」
 二人で肩をぶつけあって笑っていると、お昼に呼ばれた。バトルコートのある庭にテーブルを出して、ホップの家族やお手伝いの人たちとサンドウィッチやチーズを頬張る。ホップがマリィとバトルしたがって、明日ここでバトルする約束をした。あれ、今夜も泊めてもらっていいんだな、と、思っているうちに、あれよあれよともう二泊ほどすることになってしまう。まだ帰りたくない気分だったので有難かったけれど、さすがに居場所ぐらい伝えた方がいいかも、と、兄のことが胸をかすめた。
「……ほんとに、よかですか?」
 わけも言わずに転がり込んだマリィに向かって、ホップの母は朗らかに頷いてくれた。こういう優しさはあまり触れたことがない。地元では大人に優しくしてもらう時、そこには兄がいた。今頬張るサンドウィッチに目立たなく塗られたバターのように、マリィをそっと守るものとして。
「それにね、お手伝いも、とっても助かってるんだから! ありがとうね!」
 自分だけに向けられる厚意というのは少しそわそわする嬉しさがあって、マリィは苦手なハーブが挟まったサンドウィッチも、そんなそぶりを見せずに最後まで食べきった。
 お昼ご飯が終わったら、ウールーたちに青草を支度する手伝いだった。毛刈り前日は絶食するそうで、お腹を空かせた毛のないウールーたちがぐめぐめと寄ってくる圧力に腰が引けてしまい、あっという間にマリィは身動きが取れなくなった。ジムチャレンジでウールーたちを追いかけたのを思い出したが、まさか追いかけられる側になるなんて。
「こらこら」
 ウールーに取り囲まれたマリィを助けてくれたのは、ザシアンを伴ったホップの祖父だ。最近ホップが仲間にしたというザシアンは相当強いらしいけれど、穏やかそうな眼差しをしている。ウールーたちを鼻先でつついては誘導している赤い尻尾が揺れていて、楽しんでいるようだった。
「すまないね。びっくりしたろう」
 ホップの祖父は空っぽになった手押し車をマリィの代わりに持ってくれる。
「ウールーたちは、慣れない子のことはすぐ分かるんだよ」
 つまり自分は素人だとナメられているんだな、とマリィは解釈した。マリィはぐっとお腹に気合いを込め、凛々しく眉を上げる。
「そう、試合の時みたいにしているといいかもしれないね」
 牧場を横切りながら、ホップの祖父はバトル観戦が趣味だと教えてくれた。昔はカブの試合見たさにエンジンシティに通い詰めて夫婦げんかになったとか。マリィのことも知っていて、オーロンゲの使い方が特に気に入ったと、シーズン中にオーロンゲで勝てた幾つかの試合について褒めてくれた。「強気で豪快な試合運びが見ていてわくわくする」と、ホップのこともダンデのことも引き合いに出さず、楽しそうに手押し車を転がす。身びいきしない話し方で分かる。ホップの家でぴかぴかに光るトロフィーを磨くのは、きっとこの人の仕事なのだ。
「一年目のジムリーダーで、あの順位につけるのも凄いことだからね」
「ありがとうございます。でも、やりたいことは、まだ……全部やれてなかとです」
 試合でも、試合以外でも、マリィ自身の『ねがいごと』は叶っていない。
「最初はそういうものさ」
 ホップの祖父は、どこか懐かしそうにゆったりと言う。視線を上げると、顔に刻まれる年輪のような皺が深くなっていた。
「おじいさんも、そうやったと?」
「牧場をここまで広げた年には、どうなることかと思ったもんだよ。そうだなあ……」
 マリィが思い出話を聞くより先に、ホップがマリィを呼ぶ声が牧場に響いた。ホップの祖父は、まだそんなに元気があるのか、と苦笑いする。
「ホップ! こっち!」
 片手を大きく振ると、ホップが麦の穂みたいな髪を揺らして駆け寄ってくる。
「なんだ、じーちゃんと一緒だったのか! 今日はここまででいいって! ばーちゃんがレモネード作ってくれたぞ」
「行っておいで。あとはやっておくから。応援しているよ」
 マリィは唇を結ぶ。ホップの祖父に深く一礼して駆け出した。



 一日動き回っての心地よい疲れでゲストルームのベッドに沈み込むと、牧場の手伝いを早々にリタイアしたモルペコがマリィのお腹に飛び乗ってきた。急所に体重がかかって、可愛くない呻き声が漏れる。
「あんたねえ。お手伝いしないでご飯だけ食べてるの、いけんよ」
 マリィがしかめ面を作ってもモルペコは聞く耳を持たず、マリィのお腹で寝転がった。昨晩は一緒にいてくれたチョロネコは、さっきリビングで構い続けたら飽きたらしく、今夜は自分の寝床で休むようだった。ゲストルームにはモルペコとマリィだけ。
 耳を澄ますと、階下では温かい笑い声が飛び交っている。家族がたくさんの家って、こういうものなんだな、と、マリィはモルペコを抱いた。この家は寂しくなる暇も、ひとりで考え込む時間もない。
 だというのに、マリィは今、とてもひとりぼっちの気分だった。ホップのお家のあたたかさが切なくて、自分が飛び出してきた二人で暮らすにはく少し大きな家が恋しくなる。ジムチャレンジの時は家に帰りたいなんて思う暇もなかったのに。
 アニキが言ってた『心が泣きそうになる』って、こういう気分だったのかな。
「明日はあんたもお手伝いしなきゃいけんね」
 寂しさを誤魔化すようにモルペコをつつく。モルペコは頷いたが、明日には忘れているだろう。もう、と呟いて、マリィは大きく手足を伸ばした。
「かなり大変やけんね、覚悟しとくんよ」
 今日はたくさん手伝わせてもらったけれど、どれもビギナー向けのお仕事だった。兄がマリィにやってきたことと同じなのに、不思議と嫌ではなくて、その理由を考えようと目を閉じたところで、ドアを叩く音がした。
「……マリィ。まだ着替えてないか?」
 ホップの声が、ドア越しに聞こえる。まだだと答えると、外に出ないかと誘われた。
「あたしはいいけど……お家の人はいいって言っとるん?」
 ホップの誘いに、マリィは壁掛け時計を見る。家だと外出には兄の同伴が必要な時間だ。
「牧場の中だから大丈夫。かーちゃん、ちょっとマリィたちとバイウールーと散歩してくる!」
 どこかにいるホップの母から、ザシちゃん連れてくのよ、と大きな声が返ってきた。わかったぞ、と返事したホップは、マリィの手を引いて家の裏から外に出ると、モンスターボールからザシアンとバイウールーを呼んだ。裏庭からは木戸一枚で牧場に繋がっていて、すぐ広々した牧草地が現れる。吹き抜ける涼しい夜風が心地よかった。
「ザシアンも本当はすっげー奴なんだ。明日はオマエも久しぶりにバトルするか?」
 マリィとバトルしたことのないザシアンは、まんざらでもなさそうにホップの頭に鼻を寄せている。それを見たバイウールーが、ホップの背中に軽く頭突きした。
「わかったよ。行こうか。こっちだぞ」
 昼とは違う顔の牧場を突っ切って、お隣さんとの敷地の境目に植えられたイチイのたもとで、ホップは腰を下ろした。
「ここんとこ、バイウールーのこと全然かまってやれなくてさ」
 拗ねた様子でホップが着るTシャツの後襟を食むバイウールーが可愛くて、思わず口角が上がる。
「ごめんって!」
 バイウールーのふかふかした体に両腕を突っ込むホップ、そのホップを穏やかに見守っているザシアン。二匹とホップを見ていたら、ポケモンセンターに預けた仲間たちに会いたくなった。
「マリィも、付き合わせてごめんな」
 襟を食べられたまま、ホップがマリィに笑う気配がした。
「ううん。楽しかよ、ホップんち。賑やかで」
「そうか?」
 うるさくないか? といぶかるホップに向かって、そんなことなかよ、と答える。 
「マリィんちは、アニキいないとアタシだけやけん、話し相手もおらんし」
 草地を通り抜ける風が、マリィの結んだ髪を揺らしていった。
「ホップのお家はいいなって……色々、考えちゃってさ」
 夜の魔法はマリィをおしゃべりにする。家を飛び出すことになった顛末を、マリィはようやくすべて打ち明けた。話の途中でザシアンがマリィをぐるりと包むように座ってくれて、その温かさに体を預ける。モルペコは、ザシアンの房飾りのように編み込まれた赤い毛にじゃれて遊んでいた。
「情けなか。あたし、八つ当たりしたんよ」
「そんなことない! オレならもっと早くに、怒りだいばくはつ! ってなったと思うぞ」
 褒め上手なホップらしい言葉に、マリィは寂しい目元で微笑んだ。
「アニキ、あたしを大事にしすぎるんよ。あたしは自分の力を試したいのに、悔しか」
 今日のお手伝いとジムリーダーのお仕事で違いがあるとしたら、やっぱり相手が他人か家族かなのだ。兄は自分を分かってくれるはずの人だから、こんなにも悔しい。
「……オレも!」
 ホップが大きな声を出して、いけね、と、口を押さえた。ザシアンが驚いて顔を上げてしまって、遊んでいたモルペコが尻餅をついた。二人でそれぞれのポケモンに謝ってから、ホップが言う。
「家の仕事で、まだ子どもだからってやらせてくれないこと、結構あるんだぞ」
「……ホップも?」
 今日一緒にいてくれたホップは、マリィの先輩みたいに道具やお仕事の説明をしてくれて頼もしかったけれど、まだホップの家族からしたらマリィと同じく半人前であるらしい。
「マリィとはちょっと違うかもだけど、もうそろそろ大人扱いしてくれたっていいよなあ」
「ね。気遣ってくれるん分かるばってん、話してくれんのはイヤったい」
「うちのアニキも、そういうとこあるんだよなあ。オレにはなんでも話すって言ってくれたのに。ブラックナイトのこともそうだぞ」
 ガラルを揺るがした大事件。その渦中にいたのがホップと、今のチャンピオン、そしてダンデだった。あの時、ナックルジムでなにがあったのか、詳しく知らない。ただ、ダンデが目を覚ましたと連絡があるまで、あの兄が片時もスマートフォンを手放さなかったこと、再試合が間を置かず開催されるという知らせがもたらされた時、目を見張るマリィに向かって「あいつは馬鹿なんです」と、呆れと苦みにひと匙の喜びが混ざり合う声を出したことは覚えていた。
「どこまで知ってたのかは分かんないけど……アニキのことだから、絶対なんとかなる! なんて、楽観してたんだ、きっと。そりゃあ、アニキは強いし、ポケモンのことなら一人でなんでもできちゃうけどさ」
 口を尖らせたホップは、バイウールーから転げ落ちるように草地に寝そべった。
「だから、起きたら……オレじゃなくてもいいからさ、周りのこと頼れよ、って、絶対叱るぞ、って思ってたんだ」
 自分の未熟を認めるため、ホップはどれだけ葛藤したのか。マリィは友達の勇気を思う。マリィの知る姿がいつだって明るくてあわてんぼうの少年でも、見えない所ではたくさん悩んで落ち込んで、きっとこのホップでいるのだ。
「けど、かーちゃん見たら、なんにも言えなくなっちゃった」
 かーちゃんあんなに泣いたとこ初めて見た、と、草に埋もれたホップの声はとても大人びて聞こえた。握り込んだ怒りを他の家族のために手放すなんて、マリィにはできない。自分には、気遣うような他の家族が兄以外にいないんだから。
「ホップも、えらかね。あたしだったらその場で怒鳴ったもん」
 自分はホップほど、誰かを上手に褒められない。それでも、伝わってほしいと精一杯の声で友達を労わると、照れ隠しの笑い声がすぐ横で聞こえた。
「けど、ダンデさんも、なんか誤魔化すことあるんやね。意外」
「オレのアニキは笑顔がわざとらしいからすぐ分かるんだ。ネズさんの方が色々大変そうだぞ。前なんか、ストレスでご飯食べられないことあるって言ってたし……」
「はあ? 知らん! アニキほんと、マリィに隠しごとばっかりしよる! 前だって……」
 それからはもう、たくわえたカビゴンがはきだすように、お互いの兄に対する不平不満の暴露大会だった。
 朝の支度に時間がかかって洗面台を譲ってくれないとか、迷ったらその場の動画を送ってほしいと言うのに、十分後には別の場所の動画が送られてくるとか。ファンが聞いたら意外な一面として喜びそうな話だって、身内になったらただの迷惑だ。けれど、アニキのここがダメ、ここがイヤと言い合う二人の声は、食いしん坊のモルペコやカビゴンを叱りながらも愛おしむようなものだった。
「起きたらネズさんいるんでしょ、って言われるけど、寝起きのアニキなんか面倒なだけだっての!」
「羨ましいなら変わってやりたいぞ! アニキのせいで潰れた予定は両手じゃ足りないからな!」
 散々言われたのだろう。ホップがバイウールーにもたれたまま、手足をじたばたさせた。それから、ハッとして体を起こし、体の前で両手を振る。
「やっぱりダメだ! 今のナシ! アニキはオレのアニキだぞ!」
「そうやね。あたしのアニキもあたしのやけん。ホップがアニキ取り替えたくてもダメやけんね」
 どんなに面倒でも、困った人でも、大好きな人。それが、マリィにとっての兄だった。
「……明日、夕方までお手伝いしたら帰ろうかな」
 アニキに謝ってもらう。マリィがそう言うと、ホップが少しの間を置いてお腹を抱えて笑った。
「さすがマリィ! ナイスなアイデアだぞ! 調子戻ったな!」
 マリィは目を大きく見開いて、それから、不器用に微笑んだ。ああ、よかったあと草地に体を投げだしたホップは、少し照れ臭そうな声を出した。
「なあ、今からオレ、すっごい恥ずかしいこと言うけど、笑うなよ?」
「なんね?」
 マリィもホップにならって、草地に横たわった。地面と草の匂いが近くなる。色々汚れてしまうけど、帰ったらシャワーを借りよう。
「アニキとの思い出が沢山あるマリィのこと、ずっと、いいなって思ってたぞ。だって、誕生日にも……普通の日にも、一緒にいてくれるだろ?」
 それはマリィ以上に有名人の兄を持つホップの本音だった。マリィにとってはとても自然にそうだった兄との暮らしだけれど、手元にあるありふれたものが、人によっては砂漠で飲む水と同じぐらい欲しいものだとマリィは知っている。
「笑うわけなか」
「あ! でも、マリィはズルい、とかじゃないぞ!」
 ホップがこんなに表情豊かな声で喋るのは、ホップたちの家族がそうだからかもしれない。
「分かるよ。大丈夫。マリィもそうやけん」
 マリィがホップの家族たちを、うらやましい、と思ったのと、きっと同じだ。
「ねえ。これからも、たまに話してよかね?」
「もちろんだぞ。オレもスッキリしたし! またやろうな、アニキの会」
 秘密を分けた二人は、視線を合わせず密やかに笑い合って、ホップの母がスマホロトムで呼ぶまでポケモンや今日の出来事を思い出しておしゃべりをしていた。
 そして翌朝。ホップと少し気恥ずかしいおはようと朝ごはんの後、ポケモンセンターに手持ちたちを引き取りに行く。約束したバトルのためだ。
 ポケモンセンターで連泊したマリィの仲間たちは、最後に会った時より元気なマリィを見て、嬉しそうにダークボールを揺らしている。
「ごめんね。ほったらかして」
 ポケモンセンターの前で、準備運動がてら走って戻ろうか、などと話していたら、マリィのスマホロトムが、スパイクジムからの着信を知らせる。ホップにことわって応じる。
「はい。マリィです」
 こんな早くに珍しい、と思っていると、緊迫した様子のスタッフの声がした。
『お嬢、すみません! 仕事のスマホ繋がらなくて、こっちに』
「ごめんなさい、持って出なかった。なんかあったと?」
 マリィの声もつられてやや硬度が増す。ホップの目つきも緊張の色を帯びた。
『ジムにレスキューから要請です。ハノシマはらっぱにすぐ行けますか』
「ハノシマはらっぱ? 今いるとこからだと……」
 ホップをちらりと見る。ホップはマリィの知りたいことを察して頷いた。
「タクシーですぐだ。オレ、運転士さんに声かけてくるぞ!」
 駅前のそらとぶタクシーに一直線で駆け出すホップを見送り、ジムのスタッフに答える。
「時間はかからんよ」
 レスキューからの呼び出し要請に応じるジムは、要請された場所と試合のスケジュールを勘案したローテーションが組まれる。今の時期はエンジンリバーサイドから北側をスパイクが受け持っていた。危険度を鑑み大人が優先されるから、マリィに連絡はまず来ない。最初に呼ばれるはずの人間はどうしたんだろうか。スタッフに尋ねる。
「アニキは?」
 それが、と、ジムのスタッフから聞いた内容は、マリィの心を大きく揺さぶった。
「すぐ行く!」
 通話を切って、マリィは、緊張した眼差しで自分を見るホップへ駆け寄った。
「どうしたんだ?」
「ハノシマでレイドやってた子らが、ポケモン強すぎて逃げられなくなったって」
「それはバトルしてる場合じゃないぞ! 助けに行かないと!」
 頷くと、マリィは続きを伝える。ホップに言わなくてもいいことなのに、言葉にしないと不安が膨らんで弾けそうだった。ゆうべ、ブラックナイトの話を聞いたせいだろうか。
「……先行ったアニキが、スパイクのジムリーダーを呼べって言ったきり連絡つかんらしい」
「大変だぞ! オレも手伝うか?」
 マリィは決然とホップを見据えた。これはジムリーダーのお仕事で、加えて、兄はスパイクのジムリーダーを呼んでいる。頼られたのだから、友達の力は借りたくない。
「大丈夫! やってやるけん! でも、あんがとね、ホップ」
 強気なマリィの返事に、ホップはに嬉しそうに鼻先をこすった。
「行ってこいマリィ、ビシッとキメてやれ!」
 タクシーに乗る直前、ホップが背中を強く叩いてくれた。
「うん! 任せんしゃい!」



「タチフサグマ、『こらえる』で時間稼げ!」
 ネズのシャウトに答えて、相棒がキョダイブリムオンの一撃をどうにか受け止めてくれた。こんな消耗戦に付き合わせていることに焦燥と罪悪感が募る。
「あなたたちは早く引き上げて!」
 振り返らず、背後で子どもたちを守るレスキューの人間に声をかける。
「ネズさんは!」
 隊の一人が声を張り上げる。
「そちらが安全圏に出られるまで粘ります! い……」
 妹を、と言いかけて、ネズは首を振った。頭痛がしているのは、子どもたちの泣きわめく声が耳に痛いだけではない。自分への敵意に敏感な荒ぶる女神が、サイコパワーを強めている。
「スパイクのジムリーダーを呼んでください!」
 彼女がまだハロンにいるなら、報せが入ってからここに来るまで、遅くても時計の長針が半周で足りるはずだ。嫌な汗をアウターで拭って、まだ戦える相棒たちのボールを指先で撫でる。
 ジムリーダーを譲ったとはいえ、手の空いた成人の有資格者、という意味で、ネズはレスキューからのヘルプに担ぎ出されることが多い。朝から入っていた音楽の仕事を一本キャンセルし現着した時には、事態は予想より酷かった。ジムチャレンジ前に腕試しをしたかったらしい未成年の少年少女がパニックを起こし、手持ちのポケモンたちもブリムオンのキョダイテンバツで混乱した状態。
「しかし、単独では!」
 自分のバックアップにつくはずの隊員たちは、それぞれ子どもたちを一人ずつ抱えている。
「その子らがいる方がヤバいんですよ! 行きやがれ!」
 妹やその友人たちと同じ年頃の子どもたちは、ここにいる限りブリムオンを刺激する。つい口を突いた乱暴な言葉に後ろの泣き声が大きくなった。舌打ちを抑え込むように口を引き結ぶ。
「わ、わかりました! すぐ戻りますので!」
 同時に、キョダイテンバツを受けて、ついにタチフサグマが倒れる。混乱していたのにここまでよくやってくれた。
「ありがとう。すまないね」
 タチフサグマと交代で、即座に残りのメンバーを呼ぶ。四匹展開してレイドの真似事をしなければ、こちらが危ない。目の前に顕現するご婦人は、子どもらの感情に刺激されて我を忘れている。敵意が遠ざからない限り大人しくならない。なかなかハードなギグになりそうだ。
「行けますね? マリィが来るまでの辛抱です。おれの命もおまえらに預けるぜ」
 四匹のポケモンたちは、それぞれがネズに答えるように声を上げる。頷いたネズは、矢継ぎ早にクルーたちへ指示を出した。ズルズキンには「すなかけ」、カラマネロには「サイコカッター」、スカタンクに「どくどく」、ストリンダーには「ヘドロばくだん」。
 子どもたちの声が遠くなり、頭痛の種が一つ減ったネズは息をつく。あの子らは、実力を過信したのだろう。本来来るべきでない領域に足を踏み入れた。そうなった時にカバーして、時には叱るのも自分たち大人の仕事だ。自分がマリィに対してそうであったように。
 よそごとを考えている場合ではないのに、思うのはマリィのことだった。試合中でも危険が目の前にある仕事で、こんなイレギュラーだって起こりうる。バトルだけでは終わらないのが、ジムリーダーの仕事だ。最初の一年で、そこまで手広くやらせることはない。
 そう思ってやってきたことが、かえって我慢を強いていたことに気付けなかった。完全に自分の落ち度だ。彼女を呼んだのは、これまでに対する贖罪の意味もある。
 貴婦人のような佇まいのブリムオンから放たれたマジカルフレイムが、カラマネロを焼く。熱風がネズを舐め、前髪が翻った。切り替えなくては。
「カラマネロ、ズルズキンは同じわざを! ストリンダー『ベノムショック』! スカタンクは『ふいうち』です!」
 しかしスカタンクの『ふいうち』は不発に終わった。ブリムオンが『めいそう』を使ったせいだ。焦ったか。ストリンダーで『ちょうはつ』を打てばよかった。
「……!」
 ブリムオンの触手が暴れ、うがたれた地面から跳ね返った飛礫がネズを襲う。咄嗟にかざしたスマートフォンから嫌な音がした。時間の確認と連絡手段が喪失した音だ。ネズの口から、マリィに聞かせたくないスラングがこぼれる。苛立たしげにスマートフォンを投げ捨てると、ネズは改めて苦手なタイプ相性のポケモンに向き合った。
 それからズルズキンを犠牲にバリアを割るが、戦局はじりじりとネズの不利に傾く。普段と違うスタイルで思考を止めずにいたせいで、正直、マイクスタンドがなければへたり込みそうだ。頭の鈍痛が強くなり奥歯を噛みしめる。指示が遅れ、スカタンクが倒れた。カラマネロとストリンダーも限界だ。
 これ以上引き延ばせない。いちかばちかの攻勢に出ようとするネズの鼓膜を、聞きなれたポケモンの声がノックした。
「うらら!」
 車輪の様に飛び出したモルペコが、ブリムオンに衝突する。反動でネズの元まで飛んでくるモルペコを咄嗟にキャッチしてやると、まだ場に残るネズのクルーたちが、歓喜とも驚きともつかない声で、彼女の登場に反応した。
「アニキ!」
 待ち望んだ声に振り返って、ネズは微笑む。ガラル粒子の渦巻く赤い夜のような空間に現れたマリィが、
「……来てくれましたか、マリィ」
 一瞬、マリィが息を飲む。兄がここまで追い込まれた姿を初めて見せたからだろうか。それでも、次に出てくる言葉はジムリーダーのものだった。
「レイドの子らはみんな、ナックルに入ったよ。今どげんなっとーと?」
 自分が現場に顔を出しても士気が下がるだろうと、試合以外でジムリーダーとして活動するマリィの顔をあまり見てこなかったのを、今頃後悔した。ちらりと横眼にとらえる彼女の横顔はネズの記憶よりずっと凛々しく、昨シーズンだけで著しく成長したのだと分かる。
「あと少しってとこですが、おれたちはもうガス欠です」
 モルペコが腕の中で下ろせと暴れるので、ネズは腕の力を緩めた。飛び降りたモルペコがマリィの前に駆け出し、好戦的な声をあげる。
「マリィたちに任せます。おれたちはサポートに徹するよ」
 一歩退いて舞台を譲ると、マリィがわかった、と、胸の前でダークボールを握りしめる。自分が使わなかったガラル粒子が、彼女のダイマックスバンドに吸い込まれるのが見えた。
「オーロンゲ! あんたも負けてられんよ! キョダイマックス!」
 両手で振りかぶって投げた赤いグリッド状のボールから、オーロンゲが現れる。彼女がシーズン中に頼っていた、とっておきの切り札。定石とされるサポーター型ではない、前のめりな構成のクルーだ。
「アニキ!」
 気合の入ったオーロンゲの雄叫びに負けないよう、マリィがネズに呼びかける声。
「なんですか!」
 強い風に暴れる髪の隙間から、自分より透明にきらめく瞳でマリィは宣言した。
「マリィだって強うなったけん。見ててよね!」



「お待たせ……アニキ、なんしよーと?」
 ホップの家に置きっぱなしだった着替えなどを引き上げてブラッシータウンの駅前に戻ってくると、マリィの兄は駅のベンチでなにかのパンを頬張っていた。
 声をかけると、ネズは慌てた様子で口の中をからっぽにし、紙カップの中身を飲み干す。
「すみません、お腹空いて。朝食べられなかったものだから」
 ネズの隣にはポケモンセンターのカフェからテイクアウトしたらしい紙袋があり、紙カップからはコーヒーの香り。カップを紙袋に放り込むと口をぎゅっと捻り、ネズは立ち上がる。
「やっぱり、お腹空かしてバトルするもんじゃねえです」
 へら、と笑うネズの脛を蹴っ飛ばしてやりたくなって、マリィは我慢した。暴力はいけないことだ。そのかわり、短い眉を吊り上げて兄に言ってやる。
「アニキ、ちゃんとご飯食べてよね」
「今日はたまたまですよ。マリィのそれは?」
「仲直りおめでとうって、ホップから」
 マリィがネズに保冷バッグを手渡す。中身はホップの家で作るチーズやピクルスの瓶らしい。
「まあ……ケンカはケンカですかね」
 苦笑いしたネズに、行きましょう、と、促されてタクシーに乗る。
「すみません、スパイクタウンまで」
 座席に乗り込むマリィの後ろで、ネズが運転士に行き先を告げている。
 キョダイブリムオンを大人しくさせた後、マリィはネズに向かって、家に帰ろうと告げた。相当勇気を出したその一言に、ネズときたら「いいんですか」と聞き返してきた。アニキはマリィに家にいてほしくないんだ、と膨れてみせたら、レアな慌て顔が見られて、少し胸がスッとする。こういうところが、まだ子どもなのかも。
 タクシーが静かに浮き上がり、豊かな緑が遠くなった頃、ネズがやや姿勢を正してマリィに切り出した。
「マリィ。あらためて、おれに謝罪の機会をくれますか?」
 こちらに委ねる言い方をしなくていいのにと思いながら、マリィは頷く。
「ありがとう。その……おとといのことも、もっと前からのことも……きみの気持ちを無視して、おれの態度を押し付けてしまったこと、謝ります」
 ネズをじっと見る。いつもマリィの言いたいことを、三つも四つも先回りするネズにはきっと、伝わっただろう。
「言い訳をすると……おれがそうして欲しかったことを、マリィにしてやりたかったんです」
 理由が知りたい、というマリィの気持ちを、ネズはやっぱり分かってくれた。そして聞かせてくれたのは、ネズがマリィと同じ立場だった頃の話だ。
 当時のジムは、運営の環境があまりよくなかったらしい。フロント業務で色々と困ったこともあったのに、解決できるのが自分しかいなくて、そちらに手を回してくれる人がいたらいいのに、と悩んでいたこと。
「本当は、ジムリーダーなんて試合に関わることだけ、きっちりしてりゃいい。経営だのバックヤードの話は信用できるスタッフに任せて、強くなることを求めていい立場なんですよ」
 その言い方で、マリィはようやく納得した。その仕事はおれが、とネズが言う案件は、マリィが読むには難しい契約書が絡むことや、大きなお金が動く話が多く、代わりに、練習のメニュー、場所、イベントマッチの対戦相手などは、マリィに決定権があった。筋が通っている。とはいえ、納得できたからと言って、許すかどうかは別だ。
「ずっと、おれとマリィは違うと言ってきたというのに、悪いアニキだね。マリィがどうしたいかを聞くべきだったね。言葉が足りませんでした」
 どうしたかったか、なんて。そんなの、決まっている。
「あたしは、アニキと戦いたか。やっと同じとこまで来たと思うとったとに、アニキに全部取り上げられた気がして、嫌だったよ」
 お互い気まずい思いをしても仲裁してくれる家族はいなくて、だからいつだってマリィたちは、どちらかが折れてきた。マリィの癇癪を兄が受け止めて、兄のやせ我慢をマリィは見ないふりして。
「マリィ、もう我慢しないけん、アニキもマリィのこと、子ども扱いするのやめてよね」
 ネズは厳かさすら感じさせるように、重たく頷いた。
「おまえにしっかり怒られて、おれも目が覚めました。これからは気をつけます」
「なにを?」
 マリィが意地悪な確認をすると、ネズに頭を抱き寄せられた。他人と接触することをあまり好まないネズに触れられると、それを許される自分の特別さを思い知る。
「まず、マリィという子が、強くて、素敵な人間だということを肝に銘じます」
 それから、と、ネズは続ける。
「おまえに嫌われたくない、と、思うのもやめますね」
「……呆れた」
 この人は本当に、臆病で、優しい。
「あたし、アニキのこと、芯から嫌いになんてなれんよ? そりゃあ、腹立つこともあるけど」
 それでも、自分にあんなに愛情を注いでくれた人。まだ自分が遠く及ばない、強く、かっこいい大人だから。
「リスペクトしとるもん」
「やけん、そいが無くならんようにせんばいけん思うちょったと」
 珍しく地元のことばでネズはこぼす。あんなこと言うつもりなかったとに、はずかしか。耳元をくすぐるため息をマリィは笑い飛ばした。
「あたしからも、ごめんね。アニキのこと傷つけちゃったもん」
「おまえはなにも悪くないんですが」
 顔をしかめるネズの脇腹を、マリィは軽く小突いた。
「しぇからしか! マリィの気持ち、黙って受け取ってよね!」

【おわり】

previous

next

©2022 by マイサイト。Wix.com で作成されました。

bottom of page