
my lovely Lightning
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映画のエンドロールを流しながら、ネズはもう何杯めになるか分からないジントニックに口をつけた。いつもなら隣で妹が一緒だけれど、今、照明を落とした自宅のリビングにいるのは彼と、その一番の相棒、タチフサグマだけだ。
ジムリーダーとしてネズの跡を継いだ妹は、最近外泊が増えた。当然試合の遠征もあるが、同期の友人たち(その中には新たなガラルチャンピオンも含まれる)と、特訓だの誕生日会だの、ささやかで豊かな時間を過ごしていることも多い。同期と遊ぶという時には、場合によっては互いの保護者に連絡を取り、必要なら手土産を持たせたりもする。結果、新旧チャンピオンの母親たちとレシピを交換する仲になったのは、誤算といえば誤算だった。
今日はハロンのホップ宅でガーデンパーティーがあって、久しぶりに同期が一堂に揃うのだという。ダンデも戻るとか言っていたので、随分賑やかな夜になるだろう。ネズも誘われたが、丁寧に断った。妹が友人たちと遊ぶところに顔を出す兄というのは、どうも気恥ずかしい。
スタッフロールが終わって、見ていた映像はブルーレイのホーム画面に戻った。田舎町の少年達が、線路を辿って冒険するひと夏の物語。映像を止めて、ネズは寄りかかっていたソファの背から体を起こす。
空調を入れていないリビングは少し冷えて、家族の気配もなく、うすら寂しい沈黙が覆っている。けれど、その胸はささやかな灯りがともったように揺れていた。
映画の少年たちは、初めてこれを見た時の自分と近い年頃で、当時の自分にどこか似ていた。寂しい田舎町からどこにも行けなくて、傷だらけだった。
妹はそうじゃない。自分がそんな感情を持て余していたのと同じような年頃のマリィはどこへでも行けて、好きなことができている。
「ほんとうに、素晴らしいことだよね」
自分が彼女にあげたかったのは、そういう未来だった。ネズはジンの茶色い瓶を手にとって中を振る。高い水音が鳴って、ネズは唇を不満げに曲げる。飲み始める前は半分ほどあったのに、ほとんどなくなっていた。このまま行っちまうか。
「……妹の前途に」
誰もいないリビングで瓶を持ち上げて、わずかに残っていたそれを、一息に飲み干した。喉を焼けるような感触が転げ落ちる。瓶を床に置いて、ゆっくり息を吐いた。
妹がいない日のネズは、以前にもまして奔放だった。リビングに五線紙をばらまくように曲作りを続けて床で寝落ちした兄を、帰ってきた妹が呆れながら転がす、という午後を迎えたこともある。
(アニキ、結構だらしなかね)
ネズの記憶に残っている、妹の、呆れながらも愛おしそうな含み笑いが聞こえる。
酒精に任せて自嘲し、背もたれに頭を預けた。もし近い未来、妹が独り立ちしたいと言い出したら、自分はどうなってしまうのだろう。
「そうですよ。おれなんか、ひとりぼっちじゃこんなもんです」
ぐる、と、足元でタチフサグマが抗議するように喉を鳴らした。ネズはその声に首を持ち上げる。
「そうだ、おまえがいたね」
タチフサグマはネズを、細い月のような目で見上げた。ネズの膝にそっと爪を乗せて控えめに引っかくものだから、ネズは笑ってしまった。甘えたいのだろう。
「分かりました」
相棒に応えるように穏やかに囁くと、長い首を抱きしめて、そのままソファを転げ落ち、リビングにもつれる。相棒は出会った頃と違って、もうネズの両腕の中に収まるような大きさではない。タチフサグマの心地よい重さに敷かれながら、ネズは鼻先をモノクロの毛にうずめて、相棒が喜ぶ首筋を掻いてやる。
「愛しているよタチフサグマ。おれの稲妻」
それは妹にさえ教えていない、ひとりと一匹の間で通じる秘密の名前だった。
モルペコを受け取ったマリィと同じぐらいの歳に、ネズはこの稲妻と知り合った。スパイクジムの譲渡会だった。
のんきな奴だと言われたけれど、他のジグザグマより素早く、ぎざぎざに駆けまわる姿が、ネズにはいっとう格好良く映った。ネズを連れて来てくれた母は、稲妻みたいだと呟き、そうか、あれは稲妻というのかとネズはひとりで納得し、以来、そう呼んでいる。
「随分大きくなっちまったね、おれたち」
「しゃう」
いつもの力強いシャウトより随分ひかえめな相槌が返ってきた。
ネズが幼く、相棒もジグザグマだった頃、世界はもっと大きくて、愉快なものだった。町の南にある船着き場までこっそり出かけて見つかった大人に首根っこを掴まれたり、体当たりしてきのみを落としてくれたジグザグマが、きのみと一緒にヨクバリスまで落っことしたり。あの時は、今見ていた映画に出てくる屑鉄置き場から逃げ出すシーンのように、ひとりと一匹で必死に走った。ジグザグマはその稲妻の軌跡でヨクバリスを懸命に引き付けてから、ネズの傍らに駆け込んでくれた。草むらに寝転がったネズとジグザグマは、無事だったことで高揚し、しばらく笑いが止まらなかった。
その時のように寝転がって相棒と目を合わせたネズは、密やかに笑い声を立てる。返事のように高い甘え声を鳴らす愛しい稲妻に、ネズは体を起こした。
普段は腕で隠して見せない腹を、ゆっくりと揉むような手つきで撫でてやる。リラックスした様子で舌を出して喉を鳴らす相棒は、出会った頃と同じ表情をしている。
「あのね。おれは、今のおまえも大好きですよ。もう稲妻じゃなくなった、なんて、思ってるかもしれないけれどね」
とても頼れる背中は、ネズのことを信じて前だけ向いてくれる。買い物に出れば幼いマリィを抱くネズの代わりに、ショッパーを抱えてくれる。ジムチャレンジで負けた腹いせに罵られるネズの後ろで、相棒が怒りの唸り声を押し殺すのも聞こえていた。姿が変わっても、お互いが変わらないものを持っている。
「おれの行くこれからの道にも、おまえがいてほしいよ」
「しゃう!」
声がでけえ、と笑いながら、ネズはタチフサグマの眉間をくすぐった。
今、幸福はこの傷だらけのひと塊の側にある。
【終わり】