
鏡像
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薄曇りの夕暮れ、シュートシティの駅前広場で、ネズは重たい足を動かしてタクシー乗り場に向かっていた。元から陰のある顔立ちは疲れ切って、すれ違う人間から名前を呼ばれても、挨拶もファンサービスもしない。あいにく「なんだよ、せっかく声かけたのに」と落胆する程度の相手に割く時間も気力も持ち合わせがなかった。
そんな幽霊じみたネズの足元にクスネが駆け寄ってきて、じゃれるように尻尾を絡ませる。立ち止まって足にまとわりつく柔らかい感触に軽く息をつき、ネズはジャケットのポケットから手を出した。「何も持っていない」と示すと、「使えない奴め」という目つきで、クスネは他の獲物にすり寄って行く。
したたかな都会暮らしのクスネを見送るとネズはタクシーを拾って、「スパイクタウンまで」と告げる。景気よく「はいよ」と返事がかえってきて、タクシーはシュートシティから南へ飛んだ。
十番道路、キルクスタウン、天気がよければナックルジムの頂も見られるが、あいにくの天気で、それは叶いそうもない。
「……ん」
しばらくアーマーガアの羽音と車窓の景色を眺めていたネズだったが、スマートフォンの着信に気付いて通話に応じる。
「はい。ネズです。はい……ええ。分かりました。おれが行くので、人払いを。そうですね」
車窓からの景色を見て、少し考えるとネズはおおよその到着時刻を知らせて通話を切った。ひとつ溜息をついて身を乗り出し、運転士との通話ボタンを押し込む。
「すみませんが、目的地を変更してください。ルートナイントンネルの、スパイク側へ」
◆
タクシーから降りたネズは入り江から吹き込む風に長い髪を揺らすまま、寒さに肩を縮めた。
「どうも。マッスグマですって?」
自分を呼び出したジムトレーナーの男に声をかける。
「ネズさん! そうなんです」
腕に浅く赤い線をこしらえたトレーナーがあそこです、と指さす先。トンネルの北側にある木の近くで、マッスグマが毛を逆立てて唸っていた。前身を低くして精一杯威嚇しているが、後ろ足に怪我をしているようだ。
じりじりと距離を詰めようとしたら、噛みつかんばかりに吠えたてる。
「ずっとこんな調子で……ここ、他所の人も木の実取りにくるけん危なかでしょう」
そうですね、と、ネズは少し目を閉じて決断する。
「ひとまずおれが相手します。きみはジムに戻って大丈夫です。怪我したなら、手当てを受けるのですよ」
トレーナーをジムに帰し、さて、と、ネズはマッスグマと向き合った。
事情は分からないが、人間に対して敵愾心が強すぎる。このままボールに押し込んで逃がしたところで、そこでまた同じことになるのは目に見えていた。
「……?」
チョーカーの飾りに指を通し、どうすべきかと思案顔をしていたネズの眉が動く。
マッスグマの裏に、ジグザグマの唸りがユニゾンしているのが聞こえた。その鳴き方が痛々しさを伴っているので、ネズはマッスグマと視線を合わせるように膝をついた。
「ジグザグマになにかあったのですか? 怪我をしているなら、治せるところへ案内しますから……」
ネズの差し伸べた言葉は、マッスグマの吠え声にかき消された。どうあっても、人間の手を借りるつもりはないらしい。ネズは呆れて息を吐いた。
「気迫は買いますけど、いつまで突っ張るつもりです?」
恐らく、ネズが立ち去るまでマッスグマはこのまま、後ろのジグザグマを守ろうとするのだろう。この辺りは夜になると冷える。夜行性のポケモン達に、寒さで体力の落ちた手負いの二匹はいい獲物だ。まとめて連れ帰ってやらなくては。
「きみ、そんなに怪我までして」
『……なにを守ろうと言うのですか?』
ふと頭に響いたローズの声に、ネズは動きを止めた。それは今自分が口に出そうとした言葉で、数時間前、シュートシティで確かにローズの口から溢れた呆れの言葉だった。
◆
「ネズ。きみはいつまで意地を張っているつもりです?」
まるで駄々をこねる子どもを説き伏せるようなローズの言葉に、拳を握り込む。オフィスに注ぐブラインド越しの逆光で、相手の表情はよく伺えない。
「……」
「今日みたいにノーダイマックスでも勝つ実力は買いますが……」
ローズの見ているラップトップには、先ほどの試合結果が映っている。キョダイマホイップをくだす、ダイマックスしていないタチフサグマの姿。
「それで守れるものより、もっと大きな願いがあるのではないですか? わたくしたちは同じ未来を見ているはずでしょう。きみはあの町と家族を、わたくしはガラルを愛しているのですから」
「あなたが愛しているのは、あなたの理想のガラルではないのですか?」
「そういう言い方もありますか! なるほど! だとしたら、きみはもう少し、現実を見た方がいいんじゃないかな?」
現実。ネズは愛する故郷を思う。
穴の開いたアーケードの天井、世辞でも綺麗とは言い難い街並み、撤去する費用もなく積み上げられた解体資材に住み着く野生のジグザグマやエレズンたち。
「スパイクタウンの状況、分かっているんじゃない?」
ネズは震える細い呼吸で、相応しくない言葉を喉の奥で殺す。炯々とした眼光でローズを突き刺しても、ローズは微かに微笑んだだけだ。
「まあ、いいでしょう、ネズ。分かってもらえるまで、何度でも話し合いましょう」
握った指がグローブで軋む音はネズにしか聞こえなかった。
◆
背後で草地を踏む気配に、ネズは、ハッとして顔を上げた。動揺している場合ではなかったというのに、自分としたことが。
「……!」
気を取られたネズの隙を狙って、マッスグマが飛びかかってくる。怪我のせいで本来よりずっと弱々しいタックルは、それでもネズを仰向けに倒すには充分だった。
晒された喉に爪が振り下ろされる直前、ネズは吠える。
「聞きやがれ!」
マッスグマの体が跳ねた。星型に縁どられた目が、今までと違う感情を浮かべてネズを見る。
「フォクスライがいます。弱ったおまえたちを食い物にするつもりですよ」
どんなに足音を殺したフォクスライでも、ネズの耳から逃れることはできない。忍び寄る複数の気配に、ネズは上半身を起こし、ダークボールを掴む。
「守るものがあるんでしょう。それなら無鉄砲さの見せ所です」
どんな格上相手にも挑む、怖いもの知らずがマッスグマだ。
「さっきは頭ごなしに決めつけて悪かったね。おれも、まだダメなやつです」
ネズは自嘲するように唇を曲げて立ち上がると、数時間前の自分と同じ目をするマッスグマに背を向けた。
「お詫びに、あいつらを引き受けます。きみは、自分とジグザグマを守ることを考えなよ」
ダークボールから相棒のタチフサグマを呼べば、左腕を大きく振るって、ネズの傍らで気迫のみなぎる声を上げてくれる。
「やれますね?」
じわりと暗がりから滲むように現れたフォクスライの群れを睨む。背後のマッスグマが、ぎゅう、と、ネズに同意するように鳴くものだから、思わず吹き出してしまう。
「きみに言ったわけじゃないんですが……まあ、良いレスポンスですよ」
ネズはマイクスタンドを未舗装の地面に突き刺し、にやりと笑う。
「今日は暴れたりねえですかね、相棒! 予定外だが、哀愁のネズのサプライズライブだぜ!」
◆
スパイクタウンのバトルコート。低いステージの階段で座ったマリィは、足元で遊ぶモルペコを片手間に構いながら、スマホロトムでポケモンリーグのニュースを眺めていた。
『リーグ委員長が小児病棟を訪れたことがきっかけで行われるチャリティマッチは、今度の……』
「おや、まだいたのですかシスター。もういい時間ですよ」
少し咎めるようなネズの声に、マリィはニュース映像を止め、顔を上げた。
「まだじゃなか。アニキを待ってたんよ……」
マリィはモルペコを抱き上げると、ぱちぱちとまばたきをする。
「アニキ?」
髪はボサボサ、頬にはスタンプのようにジグザグマの足跡を捺印されたネズが、ジャケットを脱いだ寒そうなユニフォーム姿で突っ立っている。脱いだジャケットは両腕で抱えて、なにかあったことは一目瞭然だった。
「……どげんしたと?」
「どうもこうも」
ネズは腕の中にいる二匹のポケモンを見おろす。フォクスライを追い払ったあと、精根尽きたマッスグマを抱き上げようとしたネズに、今まで守られていたジグザグマが果敢にも挑んできたのだ。
「色々あってね。ジグザグマから、いい『ふいうち』食らっちまったんです。まったく、あくタイプは血の気が多いったら」
ネズは寒さで鼻をすすって仏頂面を少しだけ崩す。
「ふうん。帰ったら詳しく教えてよね」
ステージから飛び降りてスカートを払うと、マリィは自分の黒いライダースを脱いで、ネズの背中に引っ掛ける。
「とにかくお疲れ、アニキ。今日の試合もばりかっこよかったとよ!」
「……ありがとう」
マリィに礼を言うネズの腕でジャケットにくるまれたマッスグマとジグザグマは、舌を出し寝息を立てていた。
『鏡像』 終わり