
いのるように、それは
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明日、妹が旅に出る。
流し台の蛍光灯が頼りなく瞬く、冷たいキッチン。部屋着姿のネズは換気扇を回し、ガスコンロの前で煙草に火をつけた。胸をノイズか引っ掻くような夜、気まぐれに行う気晴らしのひとつだ。
このところ多忙を極めたネズだったが、今日は有休をねじ込んでいた。ネズが妹に注ぐ愛情はもちろん、妹がジムチャレンジャーであることは、ジムの全員が知っている。誰からも文句は出なかった。
ネズは、他のジムリーダーよりもジムの経営に食い込んでいる。私物化と言われることもあるが、スパイクタウンの再興のため、自分ができることをやっていった結果だった。
そんな彼の繁忙期がまさに今、ジムチャレンジ前だ。今年は特に、開会式のボイコットについて本部に許可を取りつける為の諸々が面倒だった。他にも、通常通り、チャレンジャーの受け入れ体制について確認だの、合間に副業の方で税理士と相談だの、家事を任せているハウスキーピングの業者とのやりとりも挟まる。
それもこれも、今日に照準を合わせてのことだ。何の予定も入れず、久々に妹や相棒たちの家族だけで一日を過ごした。
マリィはネズと一緒に夕飯を作りたいと可愛い我儘を言う。キャンプをすることがあるだろうと言ったので、カレー作りを見たいのだと。
食事の席で、マリィは明日からの旅について、兄の経験談をねだった。本当はもっと早くに尋ねたかったんだろう。申し訳ない事をしたと思いながら、尋ねられるまま、答えられる話はいくつか聞かせてやる。美しい星空、ターフタウンのウールーたち、ルミナスメイズの光、それから、少し危ない目に遭ったことも。
その話に絡めて大人を頼れと言ったとき、マリィは目に見えて不機嫌になった。初めて保護者から離れて自由に行動できるのだから、当然だろう。
それでも、それを妹へ告げたのは、彼女が将来ジムを引き継ぐ時、必ず役に立つからだ。
今分からなくても良いし、反発してくれて構わないと思っている。いつか思い出してほしい、そんなことばかりを妹に手渡している。
「臆病だな、ネズよ」
ネズは煙草をくわえたまま、ビルドインの食洗器から小鍋を取り出すと水を入れ、コンロに乗せた。火を入れ、ティーパックとブランデーの小瓶を探す。
すこし我儘で、負けん気が強いしっかり者の妹。彼女が旅立つとなると、不安ばかりがネズの内側で鳴る。
「……」
しぜんと歌が喉を震わせた。
時折煙を吐き出しながら、切れ切れに歌は続いだ。二階のドアが開く音がしたが、ネズは気にしなかった。
◆
明日から始まる、初めてのひとり旅。
今日何度目かになる旅支度の確認をしたマリィは、赤いリュックの留め具をかけた。兄のアドバイスに従って大きな荷物をエンジンシティのスボミーインに送ったら、残りはこれに収まってしまった。兄が贈ってくれたレザージャケットは、ハンガーに吊るされ明日を待っている。
今日は、兄が一日休みを取ってくれた。昼前にのっそりと起きた兄に仕事はいいのかと聞くと、「大人にはね、サラリー貰って休める日があるんですよ」とよく分からない事を言う。とにかく休みで、その時間を全部自分に充てるつもりだと兄は言った。だから、夕食を一緒に作りたいと言った。
「本当にカレーで良いんですか?」
と何度もネズは尋ねた。マリィはそれが良いのだと我儘を言って、兄が入れるスパイスや木の実を覚えた。
知りたかったのだ。兄は旅で何を見たのか、どんな事を思ったのか。ゆで卵の乗ったカレーを食べながら、あれこれと訊いてしまった。兄は、「今どうかは分からないけど」と言いながら、思い出を沢山聞かせてくれた。今ほどスマートフォンが多機能でなく困った事、相棒と綺麗な風景に時間を忘れて見入ったこと、ワイルドエリアで大変だったこと。
けれど、最後に兄が「何かあったら、大人を頼ってください」と穏やかに言った時、マリィは思わず食事の手を止めてしまった。
自分だってひとりで大人と同じようにやれると、マリィは信じていた。少なくとも、兄はそうだったからだ。
ネズはそんなマリィに微笑むと、テーブルで木の実を齧るモルペコの頬を撫でる。撫でられるのを嫌がるようになったマリィの代わりに、きっとモルペコを撫でているのだろうとマリィは思っている。
「お前は強いし、頑張り屋だからね。俺が勝手に心配してるだけだから、忘れてください」
兄はとても穏やかにそう言った。それから、兄は話を相棒たちのケアについてに切り替え、それはトレーナーとしてとても参考になったけれど、何となくモヤモヤとした気持ちが残っていた。
マリィは、旅のお守りになるものが欲しかった。それは、兄の思い出や、作る食事の味であったり、今ダウンロードをためらっている兄の歌であったりだ。
「ねえモルペコ」
にらめっこしていたスマートフォンから顔を上げると、ベッドの上で、困った相棒が体色と目つきを変えていた。おなかをすかせているのだ。マリィはため息をついて、眉尻を上げた。
「もう……仕方なかね。待ってるんよ」
しばらくこんな風にしてやれないのだし、おやつをあげるくらいは良いだろう。
マリィは室内ばきを引っ掛けて自室を出る。冷えた廊下に少し身震いしてから階段に足をかけたところで、マリィは瞬きした。
兄が、知らない歌を歌っている。ゆったりと、美しい寝物語を読み聞かせるように。
こんな風に歌うのを、マリィはずいぶん昔に聞いた。今よりもっと小さい頃、寝る前に兄に歌をねだっていた時だ。マリィは階段にそっと腰かけた。オーディエンスのいない兄は、今誰のために、優しく喉を震わせているのだろう?
ネズの歌がハミングに変わる。そっと階段を降りて薄暗いダイニングに入ると、足音が聞こえたのか、ネズが振り向いた。
「起こしちゃいましたか」
マリィは首を横に振ると、椅子を持って隣に立つ。兄から煙草の匂いがした。何か悩んでいる時の兄だ。
「モルペコがおなか空いたって」
「あの食いしん坊は」
仕方がないね、と、ネズは苦笑いする。
「紅茶だけど、飲みますか?」
マリィは椅子の上に立つと、流し台の上に備え付けの棚から、ポケモン用のビスケットが入った瓶を取る。
「いらん。……ねえ、アニキ」
「はい」
ネズは黙って続きを待っている。いつだってそうしてくれた。
「あのさ……アニキの歌ってるの、聞いてた。ごめん」
顔を見られないが、ネズが笑う気配がした。
「いいんですよ。お前の事を考えていたんです」
どこか照れ臭そうな、ばつの悪そうな兄の声。
「お前にしてやれるのは、せいぜい無事を祈ることぐらいしかないんだな、と」
マリィは振り返る。椅子に立った自分より低い位置にいるネズの、自分と同じ青緑の瞳がいとおしそうに細められていた。
「アニキ」
何を言おう、どう伝えよう。少し悩んで、マリィは兄をまっすぐ見返した。
「マリィは頑張るけん。見てて」
「もちろんです。マリィがシュートスタジアムに行くまで、ちゃんと見届けるよ」
なんだか気恥ずかしくて、マリィはビスケットを取り出すと、そそくさと瓶を棚に戻す。
「じゃあ……また明日!」
兄を振り返らずにキッチンを出て行くマリィを、ネズは微笑んで見送る。
「おやすみなさい。また明日」
部屋のドアが閉まる音を聞いてから、ネズはマグにティーパックを放り込み、上から雑に鍋で沸かした湯を注ぐ。マリィがいない時は、だいたいこんな物だ。
そして、明日からは「それ」が続く。
◆
部屋に戻ると、マリィは膝に飛び乗るモルペコにビスケットを食べさせてやりながら、スマートフォンを手に取った。兄の歌をダウンロードしようと開いていた音楽サービスアプリを終了させる。欲しかったものは、さっき受け取った。
マリィはスマートフォンを傍らに置いて、モルペコをぎゅうと抱いた。
【いのるように、それは】おわり