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“Still”

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 たまたま、そう言う事が重なってしまったのだ。

 明け方に見た、知らないスパイクタウンの設備の整ったスタジアムで、妹がジムリーダーとして華々しいデビューを飾る夢。試合後にジムリーダーを交代した自分があの男に謝辞を述べ始めたので、夢だと自覚し無理矢理目を覚ました。あんなにこやかな握手は生きている限り絶対に「ない」ことだった。ありえたかもしれないが、そんな未来はもう二度とない。

 再三の交渉にも関わらず今年の予算は前年より減り、予算をあてにしていた新しい機材の幾つかを諦めることになった。その話し合いで古いスタッフが悪気なく言った「昔は良かった」がネズを抉り抜いた。そのあとジムトレーナーの様子を見に向かえば、次の開幕戦でダイマックスをするしないで新人達が揉めていたので、仲裁に入る。

 ダイマックスを使わないと決めているのはネズ個人だけだ。ジムの方針ではないし、他のトレーナー達がやりたい事を縛るつもりはない。思うようにやったらいい。そう告げて振り返ったネズの背中に、薄暗い遺恨がこびりついた気配がした。

 ジムで残した仕事を終えて家に帰ると、妹が外出先でネズの事で喧嘩したとかで、兄として諌める。すると妹に「アニキが悪く言われるのを黙っていられない」と切り返され、兄に対しての不満をあらわにする。ついに話し合いは決裂し、妹は部屋に籠城した。シャワーにも降りてこない。

 簡単な食事を用意して冷蔵庫に入れる。「さっきは兄が悪かったですね。後でまた話しましょう。ご飯は食べなさい」と大きめの付箋に書き残し、冷蔵庫のドアに貼ると、自分は冷蔵庫から水のボトルを何本か抜き出し、防音の作業部屋に引っ込む。その後、階下で暮らしの音が聞こえてきたので、ひとまず安心した。

 作業部屋では、来月納期の、ポケモンリーグ情報番組におろす楽曲に取り組んだものの、進むどころか焦げ付く始末。気晴らしに弾こうとチューニングしたギターのA弦が切れて、自分の気持ちもぷっつりと切れてしまった。

 投げやりな気持ちで、しかし手つきは丁寧に、ギターをラックに立てる。隠しているウイスキーでも舐めて寝ちまうか。大人になって良かったことは、手軽に眠る手段がひとつ増えたことだ。

 頭を掻きながら仮眠用のソファに体を沈めたその時だ。

 ――どうも、久しぶり。

 ネズの中に、するりと「IT(そいつ)」が入り込んできた。

 来たな、と、長い付き合いなる「そいつ」を、ネズはいつものように受け入れた。こうなると、なにをしても駄目だ。

 今の自分が、自分なんかには勿体ない環境にいると分かっている。そうと知ってなお、全てが煩わしくなることがある。そういう時に「そいつ」は現れ、ネズに囁くのだ。

 ――今日はつらい一日でしたね。

「うるせえんですよ」

 ぼやくように呟いて、ネズは立ち上がった。机の引き出しを勢いよく開ける。中身を見つめ、長い逡巡の末取り出したのは、偶にしか吸わない煙草とライター。スキニーのポケットに雑に突っ込むと、椅子の背にかけた黒いカーディガンに袖を通す。スマートフォンも手に取るが、少し迷って机に伏せた。代わりに、音楽再生機能だけの古い携帯プレーヤーを手に取り、ワイヤレスヘッドフォンを耳に当てる。片手に飲みかけの水が入ったボトルを持つ。

 そして煙草と反対側のポケットにキーケースを滑り込ませ、作業部屋をぐるりと見る。

 几帳面に整えられた作業場は、ネズが音楽だけに集中したいときに使われる。防音と湿気の対策をしっかりした部屋には、レコードボックスやCDの詰まった棚、小さいながらアップライトのピアノが一台、二段あるギターラックはほぼ埋まっている。昔はスマートフォンで音楽を作っていたが、楽器を持つことに強い憧れがあった。作業机にはPCと仮歌を入れるための簡単な機材が並ぶ。

 窓の鍵は閉まっている。必要なものは持った。

 最後に妹やポケモンを起こさぬように細心の注意を払って、ネズは「そいつ」と家を出た。




 時計の長針は、ガラスの靴のお姫様だって家に帰る時間をさらにひと回り。この時間、スパイクタウンの路上は静まり返っていた。

 ネズの耳にさえ、家のそばから聞こえてくるのはネオン管の音や、その辺で潰れた酔客の高鼾ぐらいだ。大体のパブや飲み屋はアーケードの正面シャッターが閉まる頃に店じまいするので、この時間は街も微睡んでいる。

 好きなバンドのスローな曲だけ集めたプレイリストを流しながら、ネズはノロノロと目抜き通りを目指す。道中、パブの裏口で、老いた酔客がビールケースにもたれ掛かって寝ている。いびきの元はこいつだったか。

 初夏から夏に移り変わろうとする季節、アーケード内なら死にはするまいが、脱いだカーディガンを掛けてやった。帰る時にもいるようなら、駐在に声をかけようか。

 夜のスパイクタウンは治安が悪いなど囁かれるが、実際のところ、外から見るよりはずっと安全だ。こうやって酔客が寝ていても、物取りに合うことはほとんどない。なにかをスニッフしている奴も、非合法な物を売買している奴もいない。商工会やジムで防犯には目を配っている。

 意外だと言われるが、路上で生活する人間も、大都市部に比べるとずっと少ない。こんな辺鄙なところに流れてくる人間自体が少ないし、流れてくるなら、だいたいワケありだ。空き家を巡回する有志が見つけると保護されて、話を聞き、働ける口をきいてやったりしている。これも、回り回って街のためだ。

 目抜き通りに出る。季節感も車の往来もない通りは、雰囲気と相まって、幽霊のひとりでも出てきそうな塩梅だ。鈴の音がして目を向けると、首輪をつけたチョロネコが道を横切るところだった。ネズの視線に気づいても悠々と、彼女は彼女のねぐらへ帰っていく。彼女は、古い飲み屋の看板ポケモンだ。

 チョロネコと入れ替わるように、酔った地元の若者が何人か、もう少し夜を楽しもうと肩を組んで歩いてくる。若者、と言っても、スパイクタウンでは相対的に若いというだけで、ネズより歳上だ。地元に残っているネズぐらいの年の人間は、ほとんどいない。外に進学や就職をして、そのまま戻らない。

 ネズもそうしたほうが良い、と、同世代の知人から言われたのは、確か、まっすぐ行った先のカフェだった。その店も、今はもうない。

 若者たちは、暗がりに立つネズには気が付かず、笑いさざめいてバトルコートの方へ抜けて行った。ネズは見つからなかったことに安堵し、彼らと逆方向へ足を向ける。

 街灯を避けるように、薄暗いアーケードの空気を緩やかにかき混ぜる。歩みを進めるごとに今日の出来事が腹のあたりを焼くのが分かる。顔を上げれば、ヤミラミのネオン管がバチバチと明滅していた。外の誰が見るわけでもないのに、意地で光らせている。

 ――おまえみたいですね。

 と、「そいつ」は言う。ネズはヘッドフォンのボリュームを上げた。優しいギターのアルペジオに、『思い出はタトゥーのよう』と、ボーカルのどこか影のある声。ネズは、そこかしこに彫り込まれた思い出を見ないよう、ひび割れたアスファルトを見つめて歩いた。

 この街とこの街の人間は、ネズを知りすぎている。

 どこに行っても過去が浮かび上がるし、身内のように話しかけられる。以前もこんな深夜の徘徊を誰かに見られて、翌日出会った街の人間に言われたのだ。なにかつらいのか? 相談に乗るよ、と。

(……辞めちまうか、もう。全部)

 ネズの足が止まった。

 ――今ならやれますよ。

 「そいつ」は言った。

 先週、イッシュのレーベルから、拠点を移さないかとスカウトがあった。同じ世代のロックミュージシャンが新しく立ち上げた自主レーベルで、情熱とリスペクトに溢れた、ほとんどラブレターのような勧誘のメールが届いたのだ。ネズも知っているアーティストで、音源を聞いた時、音のバランス感覚が自分と似通っていると感じた。この申し出には、惹かれた。

 ――知らない土地でイチからやり直して。売れるまではライブハウスのPAでもやって、たまに路上で歌って日銭を稼ぐ暮らしなんか、良いじゃねえですか。身の丈に合ってますよ。

 そう囁く「そいつ」に、黙れの一言が出なかった。

 ジムリーダーを始めて何年経ったろう。図体ばかりが大きくなったが、始めた時と変わらず、自分がやる事は役者不足もはなはだしいと感じている。それでもどうにかなっているのは、周囲に恵まれているおかげだ。幸運だった。分かっている。

 ――その幸運を、おまえは食いつぶしてるじゃありませんか。見やがれよ、このザマを。

「分かってんですよ。そんな事」

 低くつぶやくと、ネズは再び歩き出した。

 目抜き通りにかつての活気を取り戻したかった。生活、そこに付随する幸福な音、腕の良い職人の工房から聞こえる音、それらがこだましていた日々。

 それがどうだ。ここにあるのは、ネズの選択で傷つき疲弊した、がらんどうの大通りだけだ。

「……分かってんですよ」

 シャッターに貼られた現委員長のポスターを、露わにした怒りで睨む。分かっている。頭で繰り返す。この人が全て悪いわけではない。分かっている。でも、分かっていることと、納得するかは別だ。明け方に見た夢を思い出す。

 やがてネズの視線の先に、ポケモンセンターの明かりが見えてきた。スパイクタウンで終夜営業なのはあそこだけだ。

 ――分かってんなら、さっさと降りてしまいなさいよ。これ以上この街を支えられるんですか?

 気づけば早足になっていたネズは、額に張り付いた前髪を払いのけ、髪を結び直した。

 対面の路地を塞ぐ積み上げられた木箱をよじ登って、奥へ進む。人の気配がまるでないが、自分の庭だ。迷わず歩を進めていく。最近誰かが描いたジグザグマのグラフィティを横眼に、細い路地を何度か折れ曲がると、赤錆びた格子戸がネズを出迎えた。

 ここにも思い出は染み付いている。

 ジムリーダーになって2年目の事だった。初めてネズのところに「そいつ」がやって来て扱い切れなくなっていた時、前の商工会長からこの道を教えられた。「ここならひとりになれるから、気が済むまでいたらいい。寒くなったら戻りな」と、渡されたのは小さな鍵がふたつ。

 老いて硬くかさついた女職人の手が、なにを思って、自分にこれを預けてくれたのか。今はもう分からない。彼女もネズに後を託し、長い長い眠りの旅路へついてしまった。

 その鍵を使って、格子戸を開ける。金属の軋む音に顔を歪ませた。奥に続く、同じく錆の浮いた階段を、なるべく足音を立てないように登る。ペースを落とさず六回折り返し、最後の踊り場に辿り着く。膝に手をついて、息を整えた。あと一息。

 ネズの目の前には金属の梯子。中が一段劣化して抜けているそれを注意深く登ると、アーケードの天井に手が届く。蓋のように施錠された出入り口を別の鍵で開け、髪を低い位置に結び直す。梯子をつたって「外」へ。

 傾斜の強い天井に足を乗せ、ネズはアーケード屋根に立つ。ヘッドフォンを外して首にかけると、耳元で風が鳴った。

 真夜中の街、一番高い場所。西には山、北には入江。見事なまでに他から孤立した街を足元に置いて、青く冷えた夜気を肺いっぱいに送り込んで、大きく吐き出した。

 心地よい暗闇に身を浸したネズは、大きく伸び、体を弛緩させ、そのまましゃがみ込む。顔を上に向けると、タチフサグマの爪のように鋭い月。東の空、薄曇りの夜空にボンヤリと引っかかっていた。ヘッドフォンからは、まだ音楽が聞こえてくる。プレイヤーを止めた。

 静かになった世界に存在する自分を確かめるように、何度か深く呼吸をする。自分の中に溜っていた淀みが入れ替わって、なんの肩書もない、ただのネズという男に戻っていく。本当は、人付き合いなんかしたくなくて、ずっと音楽かポケモンに向き合っていたい、ただの、痩せてちっぽけな男に。

 少し腰を持ち上げ、スキニーのポケットから、ぐしゃぐしゃになったソフトケースの煙草と携帯灰皿を引っ張り出した。風から炎を守りながら煙草に火を点ける。メンソールの匂い。せっかく清々しい空気に胸が洗われたのに、と思わないでもないが、美しく正しいものに対して、ネズは懐疑的なのだ。

 胸の内で「そいつ」に言う。

(分かってるから、降りられないんでしょうが)

 吐き出した煙が、夜風に散っていく。「そいつ」は何も言わない。それを良い事に、ネズは髪が汚れるのも気にせず、屋根に寝転がった。寝ながら煙草をふかすのは良くないが、良くない事がしたい夜だってある。そう自分に言い訳し、ジムリーダーも兄も街の顔役も忘れ、ただそこにいた。

「……さて」

 煙草一本分の静寂を愛したネズは、携帯灰皿で煙草の火を消し、持って来た水を煽る。ノイズの届かない夜の中、ネズは「そいつ」とあらためて向かい合うことにした。感情の水面に起こる細波を覗き込み、ゆっくりと、絡まった今日のことを解いていく。

 予算が減ったのは、もう決まった事なので仕方ない。石から血を搾ることはできないのだから、今年も粛々とジムを回していく他ない。

 予算は減ったがネズの年俸は上がった。自分は去年と同じく慎ましくやって、ジムに寄付する額を上げれば足しになるだろう。あの人に、ネズを誰かと比べて責めるつもりはなかった。分かっている。大丈夫。

 ジムトレーナー達とも時間をかけてミーティングをすればよかったし、妹とも朝がきたら話し合って、彼女の気持ちをちゃんと尊重してやりたい。トレーナーにも妹にも、自分をリスペクトしてくれるのは嬉しいと伝えずにいたのは、良くなかった。

 それから、切れたギターの弦は張り替えちまえば終わり。夢は夢だし、それに引きずられてしまったのが、一番のしくじりだ。なんて事はない。いつもやっていること。どれも、ひとつずつ切り分けてやればいい。

 ネズの手元に残ったのは、漠然とした、上手くやれなかったことへの悲しみだけ。

 それが、今日やってきた「そいつ」の正体だ。

 ――またそうやって、自分のこと騙すんですか。

「そうやってしか、やってけねえんですよ。知ってるでしょ?」

 二本目の煙草に火をつけたネズが笑うと、「悲しみ」は黙ってしまった。

 今のネズは、自分の心に積もったネガティブな感情を音楽の形に吐き出して、ようやく人間の形になっている。人を励まし奮い立たせる歌は、その実自分のためで、行き場のない気持ちの終点だった。

 それを放っておくと、今夜のように、ほったらかした感情が、ネズの元を訪れるのだ。作業机の引き出しには、「そいつら」を追い払う為の処方薬も置いてあるが、今日はそういう気分にならなかった。

「悲しかったのは、分かりましたから」

 自分の感情を認めてやると、そっと「悲しみ」が自分の中に沈んでいくのが分かった。ふう、と、煙を吐く。分かった、と言ってやるだけでいい。自分が認めた感情は、いずれ音楽になる。自分に言い聞かせるような、自分を鼓舞するような歌が生まれるだろう。

 こういうことを、他の真っ当な大人たちはどう処理しているんだろうか。弱音を受け止めてくれる人間へぶちまけたり、安心を得たりするのだろうか。今の自分にはできないことばかりだ。ネズは、吸い差しの煙草を、灰皿へ入念に押し付けた。いっそ執拗なほどだった。

 できないことはできない。できることを、一つずつ積んでいくだけだ。差し当たって、今できること。

「どうしましょうかね……」

 ネズは、あのイッシュのレーベルにどう返信するかを考え始めた。まだ自分はここでやる事があり、拠点を移す事は考えていないが、音楽は是非一緒にやってみたい。お互いのホームから共同制作をできないか。相手の温度感に見合う形で送るなら、もう少し熱を込めた方が良いだろう。スマートフォンがあれば、もう少しきちんとした文章にできるだろうか……

「……っくし」

 軽いくしゃみ。さえぎる物のない中で過ごしたせいか、半袖から伸びる細く白い腕が寒さを訴える。あそこで格好つけるから、と、口の端を自虐的に持ち上げ、ネズは立ち上がる。髪とズボンを払う。

「……寒くなったし、戻りましょうか」

 自分の薄い身体を見下ろせば、ミディアムスローに拍を打つ、この世で最も原始的な楽器が動いているのがわかる。こいつが動いているかぎり、背負ったものを捨ててまで、舞台から降りる勇気はない。それなら、愛するものが誇れる己であるように生き続けるほかない。

 結局、そこに落ち着いてしまうのだ。何年も、何度も繰り返してきた結論に。

「またいらっしゃい。相手できるうちは相手しますよ」

 囁く声は初夏の風に溶けて消えた。



【“STILL” 終わり】

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