
Stiletto
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シュートシティで音楽誌の取材を受けた帰り、ついでにレコードでも漁ろうかと立ち寄った通り。いつもは素通りする店のショーウィンドウの前で、ネズの足がふと止まった。
かみなりに打たれたように惹かれてしまった。
艶のある、目の覚めるような赤から黒へのグラデーション。優美かつ攻撃的な曲線。突き刺すようなスティレット。
呼ばれるように店に入り、あれに自分のサイズはあるか尋ねると問題なく試着でき、気が付いたらネズの手には、店名の綴られた黒いショッパーがひとつ。
……買ってしまった。
こんな高価な衝動買い、楽器以外では初めてだ。
「ネズさん?」
使いどころを思案しながら歩いていると、聞き覚えのある声がして、ネズは振り返る。ルリナだった。
私服のルリナは長い髪をフィッシュボーンに編み込んで、百貨店帰りらしい荷物を幾つかぶら下げていた。
「珍しいじゃない。今日はプライベート?」
「どうも。仕事の帰りです」
ルリナの視線は、ネズの持つショッパーに向けられる。
「それ、妹さんに? そのブランドの靴は、まだ早いと思うけど……」
少し心配するような揺らぎのある声。足に負担をかける靴は、確かに妹にはまだ早い。ネズはショッパーを持ち上げる。
「気遣いはありがたいんですが、おれのです」
「あなたの?」
「目が合ったら、なんだか呼ばれちまって」
ここまで細いヒールは履いたことないんですけど、と付け加えて、ネズは「それじゃあ」と駅へ向かおうとする。
「待って」
ルリナがその丸まった背中に慌てて声をかけた。
「なんです?」
「あなた、スティレットは履いたことがないのね」
ネズは頷く。ヒールが太めで踵のあるブーツはよく履くので、大丈夫だろうと考えていた。ところがそれを伝えると、ルリナの整えられた眉が険しく跳ねる。
「違うわ、全然別物!」
ルリナは大きく一歩踏み込んだ。彼女の履く、白いブーツのルイヒールが鳴った。
「スティレットは、練習しないと綺麗に立つのだって大変なの。あなた、時間ある?」
夕方までなら、と答えると、ルリナはよし、と頷く。
「わかった。練習しましょう」
「……練習、ですか?」
ファッションモデルでもあるルリナは、ウォーキングやポージングの練習に、よく借りているスタジオがあるそうだ。遠くないので、そこで、ネズに歩き方、立ち方をレクチャーさせろと言う。
「絶対損はさせないわ」
自分がジムリーダーだった頃、試合で対峙するたびに強い意思を宿したルリナの目が、同じぐらいの熱量でネズを見ていた。
◆
「首が前に出てきた! 見栄え悪いよ」
壁の片側が一面鏡になっているスタジオで、現役モデルからダメ出しが続いている。ジャケットを脱いで無地のパンクカットソーの腕をまくったネズは、買ったばかりの靴を相手に苦戦していた。
ルリナは、自分のロッカーから持ち出したスティレットヒールを履いて、ネズに手本を見せながら一緒に歩いてくれる。その姿は、颯爽という言葉そのものに見えた。
「膝も閉じる!」
「できたらやってんですよ……」
ネズの方は、泣き言しか出てこなくなっている。頼りない足元で歩こうとすると膝が開くし、自分の楽な歩き方に戻ろうとする。靴箱から取り出して履いた時には、思った通りの美しさで自分の足に収まってくれたのに。
「シンガーでしょ、腹筋で立って。重心は上を意識!」
「イエス、マジェスティ」
「いい靴に選ばれたのだから、しゃんとして!」
腹に力を入れて、言われた通り、なるべく体幹で全身を引き上げるように立つ。爪先はまっすぐ前に。踵と同時に地面につける。一本の線を歩くように進む。
「膝伸ばして、足元なるべく見ない。そう!」
ルリナに叩き込まれた歩き方に忠実であろうとするが、鏡は容赦なく自分の不格好な歩みを見せつける。それでも最後まで足元は見ずにルリナの隣に辿り着くと、拍手で迎えられた。
「最初よりずっと良い感じ! 休憩にしましょう」
ようやく褒められた。ネズは壁に手をついてヒールを脱ぐと、その場にべったりと座り込んだ。ふくらはぎが攣りそうだった。
「靴擦れは平気?」
足を軽くマッサージするネズの横で、尋ねてくれるルリナは、疲れた様子もない。
「平気です。靴は本当に丁度いいので」
よかった、と、ルリナもヒールを脱いで自分の横に置くと、ネズの隣で腰を下ろした。途中買った水を飲む。
「ルリナ。ひとつ聞いても?」
目の前に揃えた靴を見ながら、ネズはルリナに尋ねる。
「さっきの……靴に選ばれるって、どういう事ですか?」
ルリナは、うーん、と、マスカラでさらに豊かに濃く見える睫毛を伏せた。
「どんなモデルも、最後は服に選ばれる。わたしはそう思ってるの。この服を一番美しく着る生き物はあなただ、って。性別も、体型も、人かポケモンかも関係なくね」
ルリナを飾る大きなフープピアスが揺れる。視線を上げる彼女は、モデルとしても一線で戦う人間の目だった。
「ネズさんの話を聞いて、あなたは、この子に選ばれたんだなって感じた。だから、履きこなして欲しくて」
お節介してごめんなさい、と、ルリナは言う。
「いいえ。ルリナのおかげで助かりました」
実際、あのまま帰ったら、失敗した高い買い物のひとつとして持て余しただろう。
「……よかった。折角出会ったんだから、あなたを認めたこの子に応えてあげて」
今の一言で、ネズはこの靴に感じた不思議な衝動が腹落ちした。
「なんというか、ポケモンと似てますね」
ルリナは声を立てて笑った。
「確かに、そうかもね! 自分の相棒に、トレーナーとして認めて貰うことは大事。今回なら、一目惚れして捕まえた責任は取りなさい、ってところ?」
そのジョークに、ネズの口にも笑みがのぼる。
「そういうことなら、不甲斐ないトレーナーに、もう少し付き合ってくれませんか」
「もちろん、任せて!」
ネズは立ち上がり、もう一度靴に踵を乗せた。
何か月かして、ルリナはシュートシティの大型ビジョンに映るネズを見かけた。ハイヒールの歩き方を教えて以来だった。
流れているのは新曲のMVのようだ。黒いスクリーンと床。薄く水が張られたスタジオの、バックライトが明滅する中でネズが歌う。
力強いハイトーンで、孤独と戦う人間へのアンセムを叫ぶネズが纏うのは、レパルダス柄のゴージャスなフェイクファーコートと、黒いレザーのスキニー。髪をおろしたネズの、スラリとした立ち姿を引き立たせている。
彼の目元が、珍しく赤から黒への輝くグラデーションで彩られるのを眺めていると、ルリナの視線がネズの足元で止まった。逆光を浴びたった一人で歌うネズの足元に「あの子」がいたのだ。アイメイクと同じカラーリングの、優雅な曲線。突き刺すようなスティレットヒール。
ネズはマイクを片手に、水を蹴り上げ、足でリズムを取り、体をのけぞらせ、時には派手に膝をついてシャウトする。立ち上がり、髪をかき上げながら歌い続けるネズと、その足元で水滴を跳ね返し光るスティレットヒールはよく馴染んでいる。毅然として、自然で、美しかった。
曲が終わって足元のカメラに向かって歩く姿も、教えた時よりずっと自信にあふれてセクシーだ。そのカメラをレッドソールが蹴り倒し、暗転。スタッフロールが流れる。
そのスペシャルサンクス欄に自分の名前を見つけ、ルリナ微笑む。すぐさまMVを検索し、アドレスと一緒にSNSに一言。
『サプライズでクレジットをありがとう、ネズ! 沢山練習したのね、似合ってるよ!』
【Stiletto 終わり】